恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

アンタの「真理」なんぞ知らないよ

2013年10月30日 | インポート

 そろそろいいかな? 思いつき禅問答シリーズ。

 臨終寸前の師匠が、弟子を枕元に呼び寄せ、後事を託して言いました。

「私が死んだ後、私から受け継いだ仏法の真髄を絶やしてはいけないよ」

弟子は言下に返答しました。

「どうして私が師匠の仏法の真髄を絶やすようなことをするでしょうか!」

「だったら、いま誰かやってきて、お前に仏法の真髄は何かと質問したら、どう答えるつもりだ?」

 すると弟子は、即座に大声で師匠を一喝しました。

 これを聞いて師匠は言いました。

「私の会得した仏法の真髄が、この愚鈍な弟子にいたって潰れてしまうと、誰が予想できたろうか」

                     ☆   ☆   ☆

 この問答も人によって解釈は色々ですが、私に言わせれば、以下のようになります。

「仏法の真髄」そのものなんぞはありません。それがバトンリレーよろしく人から人へ受け継がれていくなどと考えるのは、伝言ゲームは常に正確だと考えるくらいに愚かなことです。

 あるのは「『仏法の真髄』についての誰かによる解釈」です。したがって、「師匠の解釈」は弟子の参考になっても、そのまま自分に適用できません(別人なんですから)。弟子は弟子なりに苦節して、「自分の解釈」を作り出さなければならないわけです。

 最初に師匠から「絶やすな」と言われた弟子は、「師匠の解釈」を絶やさないと返事をしたのではありません。そうではなくて、「師匠が真髄を求めて修行して、彼なりに会得した」その志と努力を絶やさないと言ったのです。

 だから、誰かがやってきて、弟子に「真髄」を尋ねても、弟子はこの時点で「自分の解釈(=答え)」を持ち合わせません。だからと言って、「師匠の解釈」は弟子自身にとっては所詮使い物になりません。だから弟子はいきなり師匠に向かって一喝した(せざるを得なかった)のです。

 師匠が最後に「自分の真髄がこの弟子にいたって潰れる」と言ったのは、そうならないとダメだ、という意味です。「師匠の解釈」をよく吟味して消化し、ついには「自分の解釈」を打ち立てることこそ大事なのです。

 ということは、師匠と弟子をつなぐものは、共通の「答え」ではなく、仏法へのあくなき意志、「問い」だということです。


相談の仕方

2013年10月20日 | インポート

 他人に何か相談を持ちかけ、「アドバイス」や「教訓」や「導き」等々を得たいとお考えの方は、以下のことに注意するとよいと思います。

一、大概の「アドバイス」「教訓」「導き」は役に立たない。

 なぜかというと、こういう話をする人は、たいてい自分の「成功体験」から話すからです。ところが、ほとんどの「成功」は、本人の能力や見識それ自体よりも、その時その場合の環境や条件に左右されることが多く、かつ多くの「偶然」が作用しているからです。

 ところが、「成功体験」を話す人は、めったに自分から「条件」や「偶然」に言及しません。したがって、他人が聞いても、まず役に立たない場合が多いのです。

 そうでなければ、この種の「アドバイス」は誰でもできる一般論に過ぎず、聞くまでもないことがほとんどです。

一、「アドバイス」「教訓」「導き」は、相談する人に影響される。

  相談は対話や会話で成り立っています。である以上、話し手のアイデアは、相談者の言葉や態度に反応していくのであり、対話は常にある方向に収束しようとします。

  その方向とは、相談者を喜ばせたり安心させようとすること。もう一つは、なるべく早く相談を終わらせようとすること。

  この二点は、相談者のおかれた状況やその有りようを冷静に把握することを妨げます。そうなれば、まともな「アドバイス」は困難でしょう。

  ちなみに、人がいつまでも飽きずに続ける「アドバイス」は、いわゆる大人や先輩、上司がする「説教」で、これは本人の快楽でやっているにすぎません(でなければ、あんなに延々とできません)。この種の「説教」は相手の事情を無視して行われるケースがほとんどですから、たいていは聞くのが苦痛なだけで、なんら「教訓」を得られないでしょう。

一、「アドバイス」「教訓」「導き」は、失敗談の中にある。

  失敗談は他人に話したくないものですが、どういうわけでそうなるのか知りませんが、いざ話し出すことになると、この話は極めて具体的に語られることが多く、しかも意外と失敗のケースには構造的な類似性があり、いわば「反面教師」として、聞き手には学ぶに足ること、役に立つことが多いものです。

 以上から言えることは、何かを他人に相談するなら、自分と同じように、しかも自分より少し長く悩んでいる人の試行錯誤から学ぶつもりでいた方がよいのではないかと、私などは思います。

追記:次回「仏教・私流」は、11月29日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


坐禅問答

2013年10月10日 | インポート

「あなたは、以前の記事で坐禅について述べていましたね」

「はい」

「では、道元禅師の言う『只管打坐』とは、あなたの解釈ではどういう意味になりますか?」

「ただ坐る、ということでしょう。坐禅とは別の特定の目的のため、たとえば『見性』のための手段として坐禅があるのではなく、坐禅すること自体に目的や意味がある、という程度のことでしょう。めずらしい解釈ではありませんが」

「だとすると、おかしくありませんか? 『ただ坐る』という以上、それとは別であろうが、それ自体であろうが、およそいかなる目的も意味も持たずに坐らなければいけないはずでしょう?」

「あのですねぇ、明瞭な意識を持った人間が選択的に行うことに、無意味無目的なことなどありえません。というよりも、無意味無目的のまま人間は行為を選択できません」

「そりゃそうでしょうね」

「『ただ坐る』といいますが、公園のベンチにもたれてボンヤリしているわけではありません。特定の場所と時間を選び、特定の坐り方を選択して行っているのです。ここに意味が発生しないはずがないでしょう」

「まあ、そうですね。少なくとも『仏教の修行』というコンテクスト内に位置づけられているでしょうね」

「そうでなければ、道元禅師もわざわざ『普勧坐禅儀』なんて頑張って書かんでしょう。誰だって無意味なことを普く勧める自信はないでしょうから」

「では、『ただ坐る』とは、無意味無目的に坐る、ということではないんですね?」

「だから言ってるでしょう。人間が何かを『選択する』ときには、すでにそこに意味や目的が発生しているのです」

「ならば、あなたの坐禅の意味と目的をあらためてどうぞ」

「あらゆる意味や目的はそれ自体に根拠を持たない、言語によって構築された虚構であり、それを体験的に実証する方法が坐禅です」

「ということは、そういう坐禅の意味や目的も虚構ですね」

「よくできました。そのとおり。『ただ坐る』の『ただ』は、このパラドックスでしか示しようがありません」

追記:次回「仏教・私流」は10月18日午後6時半より、東京赤坂・豊川別院にて、行います。なお、話者の当日前後のスケジュールに不確定要素があるため、ご参加の方は18日午前の当ブログで、日時に変更のないことをお確かめください。