恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

年末の妄想 2012

2012年12月30日 | インポート

 救いの声は遠くで聞け。近い声は虚ろで、耳元の声は嘘だ。

 私に救いは要らない。

 ほう、そうか。それは結構だが、愚か者だな。おっと、怒ってはならない。大事なのは「結構」のほうで、「愚か者」ではないぞ。

 出された手を握るものよ、その顔を見るな!

 ・・・・・・・・言っても仕方のないことは、言わ・・・・・・・

 

 本年も当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。皆様のご多幸を祈念申し上げます。

 


わたくしの、仕方なき選択

2012年12月20日 | インポート

 私は、他人に仕事を任せるとき、原則にしていることがあります。それは、最初の失敗は、とにかく許す。同じ失敗を繰り返したときは、批判して我慢する。3度目は、担当を外してもう彼に頼まない。

 さて、先の選挙。私はどうしたか。民主党に投票しました。大方にとってはどうでもよいことでしょうが、今回はその理由を書いてみます。

一、原則の適用。

 前回の衆院選、私も民主党に入れました。絶大な不安があったものの、現在の政治制度においては、選挙で政権選択ができるということが民主主義の最大要件だと思ったので、それこそ「とにかく変えてみよう」の一心。結果的に政権も私の選択も大失敗。が、ここで見捨てることは、私の原則に反するので、ただそれだけの理由で、投票しました。だが、もし2度目の失敗をしたときに我慢できるかどうか、自信はありません。

一、原則以外に投票の理由が無い。

 そのような馬鹿げた原則で投票するヤツがあるか! と怒られそうですが、理由のもうひとつは、他に選択のしようが無かったのです。

 私は、現今の日本国の最も本質的な問題を、以下のように考えています。

①人口減・高齢化問題

 これにどう対応するのか。選択肢は大きく分けて二つ。

 ひとつは、経済力を中心とする国力を現状維持あるいは拡大するために、人口を全体の3割程度まで段階的に輸入して、「多民族」国家になる。

 そうでなければ、人口減に戦略的に対応して、社会経済構造をダイエットし、国防力を現在の水準より上げ、相対的に弱体化するであろう経済力を補い、不可避であろう国力低下の度合いを軽減する。

②将来世代に対する責任問題

 ひとつは、膨大な財政赤字。少なくとも、財政の基礎的収支均衡(いわゆるプライマリーバランス)をいつまでにどうやって実現するのか、覚悟を決めた対策を示せるか。できれば、その後の赤字低減・解消にどう筋道を立てるか、そこに言及するか。

 もうひとつは、原発・エネルギーをどうするのか。この問題の核心は、高レベル核廃棄物の処理問題をどう進めるのか、そのスケジュールをある程度でも提案できるのか。

③多極化する世界への対応の問題

 要するに、相対的に弱体化するアメリカと台頭を続ける中国にどう対応するのか、という問題でしょうが、その場合の核心は、沖縄。

 沖縄内に基地をとどめ、現状維持していくのか。県外・国外移転に向けて具体的な対策を立てるのか。

 以上の三つが、日本国の今後の政治・社会・経済・外交体制のパラダイムを決める根本的な問題群だと、私は考えています。あとの多くの問題への対応は、決まったパラダイムがアイデアを出すはずです。

 ところが、これらに対して、十分ではなくても、それなりに納得できる対策(せめて見通し)を示した政党は、私の見る限りありませんでした。

 いつの「日本を取り戻」したいのか知りませんが、未曾有の問題群に過去の経験(「取り戻す」と言う以上は、過去でしょう)が有効とはとても思えず、見通しのない政治的「決断」は愚か者の所業です。ましてや、準備もそこそこに短兵急に乱立した政党は信用できませんでした。

 となれば、「原則的」選択以外に今回私は投票できなかった、というわけです。


言葉と意味

2012年12月10日 | インポート

 普通我々は、何かを実際に話す前に言いたいことがあって、それを言葉として相手に伝えるのだと思うものです。これは書き言葉でも同じです。まず言いたいこと(意味)がそれ自体としてあり、しかる後にそのとおり言う・話す・書く言語行為(言葉)がある、というわけです。

 しかし、これは実際とは違うでしょう。実際は、意味と言葉は同時に成立するはずです。つまり、言語行為(言葉)が意味を生成するのです。言語行為の外に意味がそれ自体で存在するわけではありません。言われたこと・書かれたことが意味なのです。

 実際の発話以前に、意味は文字通り「言いたいこと」として、すでに言葉の内部に胚胎しています。「沈黙」とは、潜勢態で遂行される言語行為なのであり、その過程で意味は形成されつつあるのです(沈黙と、言いたいことの欠如である無言とは違う)。この沈黙が発話となった刹那、意味は意味として発現するということです。 

 大体、他者と会話している内に自分の考えていることが、急にはっきり理解できるようになったり、文章を書いているうちにそれまで思ったこともなようなアイデアが生まれたりは、よくあることです。

 こういうことは、意味が言語行為以前に確定的に存在していたら、起きようがありません。

 もし、「真理」がそれ自体意味として確定しているものだったら、要するに既にあるだけのものを外に出すだけの話でしょうから、その大半はとっくの昔に語り尽くされているはずで、今なおこれほど多くの言説が「真理」として産出され続けるわけがありません。つまり、この世に「解釈」などという行為が成立する余地はなくなるでしょう。

 ということは、「真理」がそれ自体として存在し、そのまま人から人から伝達されていく、などということは、少なくとも言語においてはありえないわけです。

 実際に人から人に変わらず伝えられているのは、「真理」ではなく「問い」です。今に至るまでに自覚されてきた、あるいは言語化されてきた、人間たる我々にとっての決定的な「問い」に、その時々で「答える」のでなく「応える」ことによって、「真理」と名づけられた暫定的な対処法が示されてきたのです。

 我々は常に根源的な「問い」について語っているのであって、絶対的な「真理」について語っているのではありません。まさにその語りが「応え」という「真理」をその時その場で生成しているのです。