恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

死を想う人と

2010年08月30日 | インポート

 ぼくね、君のような人と話をするとき、いつも言うんだけどね、今の君の苦しみそのものは、ぼくにはわからないんだ。君じゃないんだから。想像することはできるし、その苦しさをどうしようかと、一緒に考えることはできるけどね。でも、わかりっこないんだ。

 君が死にたいと思うのは、聞いた状態からして、当たり前だな。ぼくが同じ状況なら、やはり自殺を考えるだろう。ただ、もし君が自殺してしまったら、ぼくはもう、何も君には感じないね。ぼくは、死にたいと思う人には、強く共感することがあるが、死んでしまった人には、ああ、ケリがついたんだな、としか思わない。

 そう、そのとおり。ぼくが葬式をするのは、遺された人のため。それだけ。

 生きていても無意味だ、と思うのは無理もない。だからと言って、死に意味があるわけでもない。君は死んだら楽になると考えているんだろうが、そうなる保証はない。

 生きる意味はあるものではない。作るものだと思う。自殺できることを承知で、なお生を選ぶとき、初めてそこに意味が生まれるんだ。だから、ぼくは、君のような人が、なお生を選択し続けるなら、そのことに深い敬意を感じる。君が生を選択し続けることを、君の苦痛を棚に上げて、実に無責任に、願っている。お坊さんとしてね。

 自殺は、自分の選択だと言うけれど、たぶん違うね。そして、よく人が言う、「自分らしい死に方」などというのは、妄想だな。人は死を選べない。すべての死は、そうならざるを得なくて死ぬんだ。それは、ぼくたちが自分の生を選べないまま、生き始めるのと同じだ。死に方を選べるというのは錯覚さ。しかし、その錯覚は、ぼくたちが生きていくとき、どうしても必要なんだろうね。

 他人の「死」は、自分の死の参考には、絶対にならないね。そして、自殺に関する他人の意見はすべて的外れで無意味だ。死ぬのは自分だけだし、「他人」は消滅するけど、死なないんだ。

 ぼくは、自殺には反対だが、共感する。批判はするが、否定はしない。つまり、死の選択が、その時のその人に最もふさわしいことだと思ったとしても、なお生きることを押し付けようとする。それが、ぼくの立場なんだ。

 でもね、不思議なことがある。君のような人にね、ぼくの修行時代の失敗談なんかするでしょ。するとね、笑うことがあるんだよね。本当に愉快そうに。自殺しようと思い詰めている人も、笑えるんだ。でね、笑った人は、必ずまた、ぼくに電話をかけてくる。だから、ぼくは今日の君みたいな電話がかかってくると、何とか笑わそうとするんだ。いつも。

 


「私」でない誰か

2010年08月20日 | インポート

 たとえば、イタコさんがいます。しかし、彼女が本当に死者の魂を呼び出せるのかどうかは、検証不可能です。するとこのとき、次の八つのことが言えます。

①本人も他人もイタコさんだと思っていて、本当に魂を呼べる。

②本人はイタコさんだと思っていないが、他人はイタコさんだと思っていて、本当に魂を呼べる。

③本人はイタコさんだと思ってるが、他人はイタコさんだと思っていなくて、本当に魂を呼べる。

④本人も他人もイタコさんだと思っていなくて、本当に魂を呼べる。

⑤本人も他人もイタコさんだと思っていて、本当は魂を呼べない。

⑥本人はイタコさんだと思っていないが、他人はイタコさんだと思っていて、本当は魂を呼べない。

⑦本人はイタコさんだと思ってるが、他人はイタコさんだと思っていなくて、本当は魂を呼べない。

⑧本人も他人もイタコさんだと思っていなくて、本当は魂を呼べない。

 以上、八つのうち、我々が「イタコさんは存在する」と言い得るのは、①と②と⑤と⑥のケースです。これはどういうことか? すなわち、「自分が誰であるかを決めるのは他者である」ということです。本人の自意識でも、能力の有無でもないのです。

 こんな理屈を言わなくても、自分で自分の身分証明ができないことを考えれば、そんなことは一目瞭然でしょう。以前、修行していた道場から遠く離れた師匠の寺に徒歩で帰る途中、規則違反して私服に着替えて野宿していた修行僧が、巡回警官の職務質問に遭い、進退窮まって先輩に電話してきて、「ぼくがぼくであるって証明してくださいよう!」と泣きついたことがありました。

 そうだからこそ、我々はみな、常に他人に決められた「何者かになりたい」のです。いや、何者かにならない限り、存在できません。これは、我々に課せられた根源的欲望であり、「私である」ことの根源的困難です。しかも、近代以降の社会では「何者であるか」を決める場合、最も重要視されるのは「職業」ですから、「職業」の価値が「私」の価値に直結しかねません。

 かくして、「他人に決められた私」の居心地が悪いのは、けだし当然で、だから「本当の自分を見つけよう」という話に人は乗せられやすいのでしょう。が、しかし、「本当の自分」という言葉の意味は、「他人に決められた私ではない誰か」以上でも以下でもなく、それ自体無意味です。

「私」自体にどう意味を持たせても、何にもなりません。「私」とは乗り物です。乗っているのは誰か、それは決してわかりません。わかる必要がないのです。大切なのは、その「誰か」が「他人に決められた私」を引き受け、ときに修繕し、ときに改良しながら、いつ果てるともない「他人」の海を最後まで乗りこなすことなのです。


恐山奥の院

2010年08月10日 | インポート

 今年もお蔭様で、恐山夏季例大祭は、無事終えることができました。期間中にほとんど休日が入らなかったせいか、平年より御参拝の方々は少なめでしたが、全国から大勢お参りいただき、まことにありがとうございました。

Photo_3    さて、大祭中には、普段の日には行わない法要がいくつか営まれます。その中の一つに、「恐山奥之院諷経(おそれざんおくのいんふぎん)」があります。これは恐山の守護神、「釜臥山嶽大明神(かまふせやまだけだいみょうじん)」を供養する法要です。右の写真は、ご神体たる釜臥山を恐山から望んだものです。標高879メートル、下北半島最高峰です。全体は山すそを陸奥湾に向かって長く引く、とても美しい山ですが、恐山からは山頂部分が見えるだけです。

 その山頂には、最近、まるで山に窮屈な帽子を被せるがごとく、円筒形の巨大建築物がでPhoto_4きつつあります。これは自衛隊の高性能レーダーだそうで、国策とはいえ、なんだか著しく神山の風光を損なってしまいました。景観保全の上からも残念に思います。

Photo_5  山頂近くの展望台までは、道路が整備されており、自動車でいけます。写真は、その展望台からレーダーをみあげたもので、奥之院までの参道が続いています。奥之院と言っても大掛かりな建物があるわけでもなく、ちょうど写真のレーダー左下のあたりに、祠があります。

 参道を登っていくと、次第に景色が開けてきます。右の写真は、途中で撮影Photo_6 したむつ市と陸奥湾の様子です。実は、むつ市は知る人ぞ知る夜景の美しいところで、まるで羽をひろげて飛ぶアゲハチョウのように見えると言われています。一度私も見ましたが、なるほどと思いました。

Photo_7  けっこう長い参道を登り終えると、そこに祠があり、お釈迦様の石像が祀ってあります。なぜ神様ではなく仏像が祀ってあるかというと、これはいわゆる神仏習合(「本地垂迹」)思想に由来していて、「釜臥山嶽大明神」の本体(「本地」)はお釈迦様ということになっているのです。

 このお釈迦様は、もとは石像ではなく、古くから伝わる木像は大きな損傷を受けないように、近年になって本坊円通寺に移しています。

 昔日は津軽海峡を航行する北前船の目印でもあり、また守り神でもあった釜臥山と嶽大明神。かえすがえすも、レーダーの帽子は似合いませんね。

 注: 冒頭の釜臥山全景写真は、インターネットサイト「じゃらん」からの借用です。後の写真は私の撮影で、これまでどおり、クリックで拡大できます。

 


番外: 警告します!

2010年08月04日 | インポート

 インターネットの普及に伴い、ウェブ上には多くの、霊的能力(降霊術、霊視、前世や来世の鑑定、占い等々)を売り物にする個人や団体のサイトがあります。同様のものは、雑誌その他のメディアにも、しばしば登場しています。

 このうち、恐山(恐山菩提寺)との関係を想像させるものが、かなり多数みられますが、それらと恐山とは、一切関係ありません。すなわち、

 恐山に所属する、恐山が契約する、恐山が雇用する、恐山が認定する、いずれの霊能者や霊能者団体も皆無であり、「恐山で修行した」と我々が公認する霊能者は一人もいません。

 また、恐山の名前を使った降霊術、霊視術、占い術などの霊的技術は、それを使う者が商品宣伝的に自称しているだけであり、恐山と特別な関係を持つ技術は、絶無です。すなわち、

 恐山で開発された、恐山が認定する、恐山が保証する、恐山で「修行した」結果作り出された、「恐山」の名称が特別な意味を持つ、いずれの霊的技術もまったくありません(例:「恐山オートマティック霊能術」〈爆笑〉)。

 そうした霊能者、霊能者団体、霊的技術を利用される方は、くれぐれも恐山とは無関係であることをご理解下さい。

 なお、恐山を信仰し、本尊地蔵菩薩に帰依し、熱心に参拝される霊能者は大勢おられます。そういう方々においては、自身の活動に恐山の名前を恣意的に使う例はなく、その方々の名誉のために申し添えます。

 さらに蛇足ながら追記いたしますが、ブログ筆者である院代個人は、霊能力の存否について、肯定も否定もしておりません。

 もう一つ追記します。この「番外記事」に関するコメントは、管理人(院代)の判断で、すべて削除します。