先日、ある高校に呼ばれて生徒さんに話をしてきました。このところ、若い人に話をする機会が結構あって、責任を感じて気が重くもあり、坊さんとしては有難くもあり、というところです。
小1時間ばかりの話がすんで、控え室で一息入れていると、ある先生が女子生徒を一人連れてきました。
「和尚さん、お話ありがとうございました。お疲れのところいきなりですみませんが、この生徒が是非和尚さんにお会いしたいというので、連れてきてしまいました。すみません」
ところが、この女子生徒は入ってきたときから、号泣一歩手前、のような泣き顔なのです。そのまま、私の前のソファに先生と一緒に座ったのですが、泣いてばかりで話ができません。
「この子、不登校だった時期がありまして。そのときに和尚さんの本を読んだらしいんです」
ああ、そうかと私は思いました。
「そうか、ありがと。本読んだの・・・・・・・。 うん、あのね、だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。僕、今年五十歳になるけど、何とか今までやってきたからね」
私が言ったのはそれだけ。結局、彼女とはまともな会話をせず、最後に握手をして別れました。
ほとんど話もせず「だいじょうぶ」とは、ずいぶん無責任に聞こえる言い方ですが、私は苦し紛れにはぐらかそうとして、こう言ったのではありません。
おそらく、私の書いた本の中の何かの言葉が、彼女に通じたのだろう。彼女の切ない気持ち、つらい思いのどこかに刺さり、自分の中だけの苦しさだと思っていたことが、言葉に出会うことで、一人だけのことではないとわかったのだろう。もしそうだとすると、とりあえずはだいじょうぶだ。私はそう思ったのです。
これは私にもあった、決定的な経験です。以前著書にも書いたことですが、思い出すのも恥ずかしい10代半ば、我が「思春期の危機」時代に、私は偶然、「諸行無常」という言葉に出会いました。この言葉こそ、ひょっとしたら自分は異常な人間ではないか、心が病んでいるのではないかと内心怯えていた中学生に、自分の不安を他者に語ることのできる方法を示してくれたのです。
この言葉がある以上、これを言った人間がいる。その人物は、僕の思いの全てではないにしろ、確実に何かを共有する人だ! 助かった!! オレだけじゃない、正直そう思いました。
私が「救い」とか「救済」という言葉を使う場合、確かな手応えとなるのは、この感じだけです。自分の苦しさに、誰かが言葉を与えてくれて、これが自分ひとりのことではないとわかること。自分の切なさが他人にも通じる場合があると知ること。それはつまり、自分の苦しさには「意味」があると信じられることなのです。
仏教の救済とは、成仏することでしょう。教学としてはそうなると思います。しかし、成仏どころか、おぼつかない足取りで先人の後をやっと追いかけているような私としては、自分に提供できる「救い」があるとすれば、かろうじて「それは僕にもある。でも、だいじょうぶだ」と言うくらいしかありません。
前にも議論がありましたが、あえて言えば、経典などに出てくる「一切衆生を救う」という言葉は、私には意味がわからないのです。「一切衆生」と言うからには、キリスト教徒やイスラム教徒、今のところ特に救われたいと思っていないような人も入るのだろう。そういう人たちを「救う」とは何か? どういう意味か? それは必要なのか? 私の頭ではいくら考えてもわかりません。
わからない以上は、わかることをするしかありません。「助かった、オレだけじゃない」と思ってくれる人が、まだどこかにいるだろうということが、いま私が「大乗仏教」僧である自覚を支えている、そう感じています。
追記: 近刊予定の語りおろし本(講談社インターナショナル)ですが、発売が11月上旬に繰り上がったそうです。