恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

オレだけじゃない

2008年10月20日 | インポート

 先日、ある高校に呼ばれて生徒さんに話をしてきました。このところ、若い人に話をする機会が結構あって、責任を感じて気が重くもあり、坊さんとしては有難くもあり、というところです。

 小1時間ばかりの話がすんで、控え室で一息入れていると、ある先生が女子生徒を一人連れてきました。

「和尚さん、お話ありがとうございました。お疲れのところいきなりですみませんが、この生徒が是非和尚さんにお会いしたいというので、連れてきてしまいました。すみません」 

 ところが、この女子生徒は入ってきたときから、号泣一歩手前、のような泣き顔なのです。そのまま、私の前のソファに先生と一緒に座ったのですが、泣いてばかりで話ができません。

「この子、不登校だった時期がありまして。そのときに和尚さんの本を読んだらしいんです」

 ああ、そうかと私は思いました。

「そうか、ありがと。本読んだの・・・・・・・。 うん、あのね、だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。僕、今年五十歳になるけど、何とか今までやってきたからね」

 私が言ったのはそれだけ。結局、彼女とはまともな会話をせず、最後に握手をして別れました。

 ほとんど話もせず「だいじょうぶ」とは、ずいぶん無責任に聞こえる言い方ですが、私は苦し紛れにはぐらかそうとして、こう言ったのではありません。

 おそらく、私の書いた本の中の何かの言葉が、彼女に通じたのだろう。彼女の切ない気持ち、つらい思いのどこかに刺さり、自分の中だけの苦しさだと思っていたことが、言葉に出会うことで、一人だけのことではないとわかったのだろう。もしそうだとすると、とりあえずはだいじょうぶだ。私はそう思ったのです。

 これは私にもあった、決定的な経験です。以前著書にも書いたことですが、思い出すのも恥ずかしい10代半ば、我が「思春期の危機」時代に、私は偶然、「諸行無常」という言葉に出会いました。この言葉こそ、ひょっとしたら自分は異常な人間ではないか、心が病んでいるのではないかと内心怯えていた中学生に、自分の不安を他者に語ることのできる方法を示してくれたのです。

 この言葉がある以上、これを言った人間がいる。その人物は、僕の思いの全てではないにしろ、確実に何かを共有する人だ! 助かった!! オレだけじゃない、正直そう思いました。

 私が「救い」とか「救済」という言葉を使う場合、確かな手応えとなるのは、この感じだけです。自分の苦しさに、誰かが言葉を与えてくれて、これが自分ひとりのことではないとわかること。自分の切なさが他人にも通じる場合があると知ること。それはつまり、自分の苦しさには「意味」があると信じられることなのです。

 仏教の救済とは、成仏することでしょう。教学としてはそうなると思います。しかし、成仏どころか、おぼつかない足取りで先人の後をやっと追いかけているような私としては、自分に提供できる「救い」があるとすれば、かろうじて「それは僕にもある。でも、だいじょうぶだ」と言うくらいしかありません。

 前にも議論がありましたが、あえて言えば、経典などに出てくる「一切衆生を救う」という言葉は、私には意味がわからないのです。「一切衆生」と言うからには、キリスト教徒やイスラム教徒、今のところ特に救われたいと思っていないような人も入るのだろう。そういう人たちを「救う」とは何か? どういう意味か? それは必要なのか? 私の頭ではいくら考えてもわかりません。

 わからない以上は、わかることをするしかありません。「助かった、オレだけじゃない」と思ってくれる人が、まだどこかにいるだろうということが、いま私が「大乗仏教」僧である自覚を支えている、そう感じています。

追記: 近刊予定の語りおろし本(講談社インターナショナル)ですが、発売が11月上旬に繰り上がったそうです。                 

 


抜けの良し悪し

2008年10月09日 | インポート

 この前、ある人からこう言われました。

「いやあ、あなたの書く本は、内容自体の良し悪しはともかく、どれもこれも抜けが悪いねえ」

 これには思わず爆笑して、うまいことを言うなあと感心しました。この「抜けが悪い」というのは、単に書きぶりが難解でわかりにくいことを言っているだけではないでしょう。読んだとき、カタルシスと言うか、「なるほど!」というような、何かがわかる爽快感が無いということだと思います。

 そのとおりでしょう。私自身がそもそも、「わかる」ということ自体を疑いながら書いているのですから、そうなるのも仕方のないところです。実際、私にとって「わかる」とは、「わからないことを隠す」ことにしか思えないのです。

 ひとりで文章を書いているときは、それが強烈に意識されています。この厳然として存在する「わからなさ」の力が思考を引きずり、文章の抜けをずいぶん悪くしているのでしょう。

 ところが、人前で話をしているときは、なんとか相手にわかってほしいという思いが先にたち、「わからなさ」の引力を勢いで振り切って、無理やり「わかる」話に裁断してしまいます。したがって、しばしば、

「あなたは話をすると面白いのに、どうして本を書くとあんなに面倒なことになるのですか?」

と言われる仕儀になるのでしょう。

・・・・・・・というようなことが最近「わかった」のは、ある編集者から来た「一度、語りおろしで本をつくりませんか。あなたが書くのではなくて」という依頼に乗ってみたからです。

 録音から文章に起こされて出てきた原稿を見て、私は驚きました。原稿の出来が悪かったからではありません。実に見事な仕上がりでした。私が脈絡なくベランメエ調で喋った話に手際よく筋を通し、このブログや他で発表したエッセイやインタビューからも材料を拾って織り込み、すくなくとも私の書いたものの中では、段違いにわかりやすく、おそらく最もおもしろい本になっています。

 ですが、どうも、「自分の本」という感じがしません。出てくる文章は、編集者が「どこをご指摘いただいても、すべて典拠はわかるようにしてあります」というもので、ほとんど全て、間違いなく私が書いたり話したりしたことなのですが、何か違う。

 それはライターの手が私の元の話を変形したからではありません。他人を介在させて「著書」をつくるプロセスそのものが、結果として文章の中から「わからなさ」を消したのだと思います。かくして、一読した感じを正直に言えば、

「コイツ(本の「著者」です)、なんだか危ないな、大丈夫か」

 私はこの本をつくる作業を通じて、自分にとって「わからなさ」が持つ力の大きさを痛感した次第です。これを抑圧すると、それなりに見通しはよいものの、なにか「危ない」感じになる。実に「わからなさ」こそが、私という存在の核心をなすものであることを、鮮烈に思い知る経験でした。

 この本は来月20日以降に出版されます(講談社インターナショナル刊)。今回はあえて申し上げますが、読んでください。「おもしろい」です!