恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

欲望のゆくえ

2010年12月30日 | インポート

 残り少ない今年、各種メディアに接していて、私に印象深かったことは、児童虐待やいじめの問題、就職難の若者と自殺し孤独死する中高年、そして所在不明の超高齢者の出現です。

 これらを通して見えるのは、人間関係の急速な窮乏です。人間関係が人間の存在そのものであるとすれば、それは単なる「付き合い」の減少ではなく、存在の衰弱を意味するでしょう。

 人間関係は自然発生的に形成されるものではありません。それを作り出す「作法」「文法」が必要です。その基本的なツールが、たとえば「イエ」「ムラ」「ガッコウ」「カイシャ」などと呼ばれてきたものでしょう。昨今のメディアは、こうした「文法」の機能不全を伝えているのです。

 社会存在を与え(「子育て」)、それを終了させる(「看取り」)ことを基本機能として期待され続けた家族、職業を通じて地縁・血縁を超えた人間関係を媒介した地域共同体や学校、企業など。それらがこれまで通用させてきた関係構築の文法が、最早有効ではなくなったわけです。

 では、なぜそうなったのか。

 説明の仕方は色々ありますし、それぞれの説明は各々それなりの説得力を持つでしょう。ただ。ここで、私が断固排除するのは、「道徳的」あるいは「精神論的」説明です。たとえば、戦後の日本が「心の教育」をなおざりにしてきたからだ、という類の。

 高度成長期、日本人が「物質的豊かさばかりを追い求めて」いたと、後になって生半可な評論家や宗教家から非難されるこの時期、日本人の多くは、どんな「ゼイタク」をしたというのでしょう。

「カイシャ」の成長と家族の「幸福」のために「一致団結」して頑張り続け、研修で禅寺に坐禅にきたり、山奥の滝で水行をしていた人たちは、まさにこの時期の「カイシャイン」です。そこには、まごうかたなき高度成長期の「精神性」があり、確固たる人下関係の「文法」があったのです。

 これまでの「イエ」「ムラ」「ガッコウ」「カイシャ」に基づく文法が機能しなくなったのは、それらの構造を規定する、社会・経済条件が急速に変わりつつあるからです。

 そんなことは、お前に言われなくてもわかる。そのとおりです。私も新聞を読めば書いてあるようなことを言いたいわけではありません。

 私が考えているのは、構造を規定する社会・経済条件を変えるものは何なのか、ということです。これには、たとえば、「人口」という解もあり、「生産力」「生産関係」という答えもあります。

 それぞれ考慮すべきアイデアだと思いますが、私がいま注視しているのは、「欲望」です。というよりも、「欲望」の現象の仕方と、その意味です。

 いかなる条件のもとで、誰が、何を、どのように、何ゆえに「欲望」しているのか。そして、その欲望は制御すべきか、否か。制御するとすれば、どうやるのか。

 この「欲望」は個々の人々の欲を言っているのではありません、そうではなくて、個々の人々の欲の現れ方やその実現の仕方までも決めてしまうような、根源的な「欲望」の在り方を言いたいのです。

 たとえば、遺伝子を改良したり調達して、自分の気に入る「子供」を持とうとするとき、この「欲望」は何を意味するのか。戦争遂行という「欲望」のため、有能や兵士を量産する目的で実施される「優生学的処置」との差異は何か。

「尊厳死」「安楽死」への断ちがたい「欲望」は、それ自体が昔からあったにしろ、この時代のこの社会では、どう現象するのか。

「欲望」は本能ではありません。生理的欲求でもありません。あるいは人間関係を「物象化」した観念でもありません。それは、人間の関係性そのものの、ひとつの局面であり様態です。本能や生理的欲求なら、適当に量的に「満足」させることができ、観念なら必要に応じて「禁止」したり「推奨」できます。が、「欲望」の「満足」は幻想であり、「禁止」は無意味です。

「欲望」は他者との関係性に由来する以上、個体において「満足」させることは不可能であり(何でもいいから食べて寝て、とにかく子孫をのこせばいいということではすまない)、また観念のように、要は使用不能にすればよいと当事者間で合意すればコトがすむような(行政による「有害図書」指定という茶番)、明確な限界や輪郭を持たないからです。

 釈尊は、あるいは仏教は、そもそもの初めから、この人間の「欲望」を根本的なテーマにしていました。私は、いまあらためて、その慧眼を思うとともに、私たちと、私たちの時代の「欲望」を再検討する必要を感じています。

 今年も当ブログにお付き合い下さり、ありがとうございました。明年の皆様の御多幸を祈念申し上げます。 合掌


雪の思い出

2010年12月21日 | インポート

 本当に冬が来るのかと思うほど、長引いた猛暑でしたが、一転、このところずいぶん冷え込むようになりました。すでにあちこちで降雪があり、厳しい寒さを予想する人もいます。青森と福井を往復する身としては、正直、何度も列車がとまったり(私は移動はもっぱらJR。何か特典はないのか!)、何回も屋根の雪下ろしをしなければならないようなことだけは、なければいいなと思うばかりです。

 この時期、雪が積もりだすと、よく思い出す風景があります。

 永平寺に入門して、2年目。その年はたいそうな大雪でした。修行僧のリーダー役を務めていた私は、雪作務(雪掻きのこと)でも先頭に立たねばならず、連日、屋根に登るは、消化栓は掘り出すは、必要な小道は開けるはで、すっかり往生していました。

 そんなある日の朝、切れるよいうに寒い七堂伽藍を修行僧集団の勢いで掃除した後、私は用事があって、山門を通りかかりました。すると、ただえさえ参拝者の少ない真冬、しかも大雪の朝、若い男の人がたったひとり、山門に立って、目の前の雪景色を見上げていました。

 永平寺の伽藍は斜面に立てられているので、下の方に位置する山門からは、建物の全体は見えません。それでも若者は、カメラを胸に抱えているのを忘れたかのように、ただ見上げていました。

 なんとなく、邪魔をするのがはばかれるようで、私は彼から離れたあたりを通り過ぎようとしたら、彼はふいに私のほうに振り向いて言いました。

「きれいですねえ」

 まさに、感に堪えた、という言い方でした。相手がここの修行僧かどうかも関係なく、ただ誰かにそう言いたかった、それだけ、という感じがしました。

「どうです。上に登ってみますか」

 私は思わず、山門の楼上、2階を指差してしまいました。

「いいんですか?」

「いいですよ」

 よくありません。そこは通常、参拝はできない規則になっています。ですが私は、彼を待たせて鍵を借りてくると、二人で山門の上まで登りました。

 そこは、十分ではないにしろ、永平寺の伽藍の中で、全体を見渡せる唯一の場所です。

 伽藍はもう、厚い雪にすっかり沈んでいました。雪囲いされた仏殿も僧堂も庫院も、まるで今朝の真新しい雪に埋め込まれたようでした。

 その白一面のところどころが縦横に切れて、回廊がのぞいていました。朝とはいえ暗いので、何箇所か点々と電灯がともり、オレンジ色の光がにじんで見えました。

 はじめてここの冬を迎えたのであろう修行僧が二人、寒さに抵抗するように身をそり返して、雪の切れ目を歩いていきました。

 私たちは、白い息を交互に吐きながら、黙ってその景色を眺めていました。考えてみれば私も、自分のいる永平寺をつくづくと眺めたのは、これが初めてでした。

「写真を撮ろうと思ったんですが、やめました」

 彼はそう言いました。そして

「本当にありがとうございました」

 と、膝に顔がつくようなお辞儀をして、帰って行きました。

 私は写真を撮るという行為は、本質的に無礼な行為だと思っています。レンズの前では、人だろうが物だろうが、真剣な行為だろうが、ただの暇つぶしだろうが、被写体としては同じだからです。

 それを人間にとって価値ある行為として捉えるのは、レンズの向こうの、同じ人間の眼であり、対象に対する敬意の視線でしょう。

 私は、あの若者に写真を撮ってもらいたかったと、今でも思います。


「個人」の彼方

2010年12月10日 | インポート

 私たちは、「自分」としての在り様を他者から課せられています。それは、名前を付けられることに始まって、誰かの子となり、誰かの兄弟姉妹になり、誰かの生徒になり、友人になり、部下になり、夫や妻になり・・・と続き、その全部を「自分」という枠組みに回収し続けなければなりません。

 この時として過大な「自分」の負担が、時に「課せられる」当のものを想定させ、これを「本当の自己」と思わせて、他はすべて「仮面の自分」だと言わせたりします。

 このブログでは、「本当の自己」が幻想にすぎないことを、度々述べてきましたが、「本当の自己」ではないとはいえ、「課された自分」をほぼ無効にする体験はあり得ると思います。

 それは「死」の前に立つことです。「死」に対しては、人間の一切の属性は無効です。どこの誰で、どういう人物かは、まるで意味を持ちません。金持ちであろうとなかろうと、権力が、あるいは能力があろうとなかろうと、「死」に対しては、すべてをご破算にせざるをえません。

 とはいえ、無論、「死」の前に立つのは、「本当の自己」ではありません。そんなものは、人が言葉で言う以上、数ある属性の一つにすぎません。そうではなくて、立つのは、あえて呼称するなら「単独性」とでもいうべき、ただの事実です。「ただそこにある」というだけで、肯定の対象でも否定の対象でもありません。路傍にころがっている小石のように、ある人にとっては全く無意味、別の人にとっては絶対価値(それがダイヤモンドの原石なら)でありえるような、「意味」「無意味」以前の、まさに「無常」です。

 仏教が「自分」を解体した後に提示するものは、「無常」の事実だけなのです。

 近代型の「個人」が出現しうるのは、この単独性に「本質」としての意味を与えたときでしょう。「死」の観念と同じように、「絶対神」や「超越理念」は、「自分」を無化して、「単独性」に還元しますが、この還元が同時に、「神」「理念」と直接関連付けられた何らかの意味を、「本質」として「単独性」に賦与します。

 これによって初めて、与えられた「本質」を軸に従来の属性を再編成した結果、自らの存在に確実な根拠を持つと自覚する人間(「〇〇ゆえに、われあり」と言える人間)、「個人」が現象してくる、ということでしょう。

 ところが、仏教の場合は、いかなる「本質」も与えません。そうではなく、「無常」を自覚した後の、「死」に傾斜し続ける、老いゆき病みゆく「単独存在」に対処する、その方法を提案するだけです。

 それは、徹底的に「非意味的」な光で、「個人」の幻想を射抜き、「自己」を根底から照らし出す、「非人間的」な方法でもあるはずです。

 だとすれば、仏教を方法として選択し、学び、修行する主体は、共同体から植え込まれた属性に安住する「自分」でないばかりか、「自己決定」だの「自己責任」だのという、ナイーブで安直なアイデアで箔をつけられた「個人」と相容れないのは、実に自明でしょう。

 仏教の「現代性」が言えるとするなら、まさにこの点においてではないかと、私は思っています。