恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

もう誰かが

2020年10月30日 | 日記
 もし仮に、全自動飛行機というものがあったとしても、今すぐ乗りたいという人は、そう多くはないでしょう。全自動乗用車も市販されていない現状では、無理もありません。

 しかし、そのうち全自動乗用車が登場し市販され普及したら、どうでしょう。全自動飛行機への「抵抗感」は薄まり、いつか「当たり前」になるかもしれません。

 このコロナ禍で、いわゆる「巣ごもり」需要が増え、コンピュターゲームもよく売れているそうで、その中でも「どうぶつの森」というソフトが大人気だそうです。そのことを伝えるテレビニュースを見たとき、ふと思ったことがあります。

 いわゆる「オンライン寺院」を超えて、完全なバーチャル宗教も、まんざらあり得ないことでもないな、と。

 要は、教祖も信者も全部、ネット空間上のアバターで組織される宗教です。これは、身体的修行を要件とする宗教では実現困難かもしれませんが、一神教的な救済型、あるいは現世利益型の教義を持つ、つまり説教・祈祷を主な活動とする宗教なら、かなり可能性ある試みではないでしょうか。

 身体的修行を要件とする宗教も、人間の意識と記憶をまるごとチップにコピー・保存できる技術ができたあかつきには、バーチャル教団を運営できるだけのノウハウを持てるかもしれません(修行体験を臨機応変かつリアルに語れるテクニック)。

 さて、このアバターによるバーチャル教団が成立したとして、アバターの主人である教祖が死んだとしたら、どうなるでしょう。

 教祖の言動はすでに十分AIに蓄えられていたとします。彼の死を隠した上で、誰かがプログラムを開発して、彼の思考パターンをアルゴリズムとして設定します。そこに自己学習機能を加え、常時ネットに接続して膨大な宗教的言説を収集・解析して、結果的に説教もすれば信者と対話することもできるような、教祖らしく振る舞う能力を持つアバターが出来上がれば、当面教団が維持される可能性は高いでしょう。

 その後ある程度の時間が経過して、教祖の死亡が公になったら、当然のことながら、教団には非難が集中し、弱体化するはずです。

 しかし、もし「教祖アバター」は依然として学習を繰り返し、その言語能力とコミュニケーションスキルが高まり続ければ、最初からアバターの信者になる人が少なからず出てくるのではないでしょうか。「教祖アバター」は「アバター教祖」になるというわけです。

 翻訳機能が充実すれば、この教祖はあらゆる言語で信者に対応できるのですから、巨大世界宗教への道も、前例のないレベルで大きく開けます。

 このアイデア、もう誰かが始めているのでしょうか? 始めていたら、実際にはどうなるのでしょうか? 全自動飛行機が実用化された頃には、どうなっているでしょうか?

用心するに・・・

2020年10月20日 | 日記
 昨今問題になっている日本学術会議における任命除外の件、様々な分野の人たちから批判や意見が出ていますが、寡聞にして、宗教界・仏教界からの発言を知らないので、ここで存念を記事にしておきます。

 すでに大方が発言しているとおり、人事と組織問題は別で、今回の問題の根本は、学術会議の会員任命に当たって、過去に前政権の政策に批判的であったと衆目が一致する6人の学者の任命を、現政権が忌避したという、人事案件でしょう。

 そうでないなら、任命しなかった理由を6人個別に明らかにすればいいだけの話で、それができないから、「総合的俯瞰的」などという、誰に向けた何の説明なのかもわからない、愚にもつかない言い訳をするわけです。

「そのことが直接学問の自由の侵害には当たらない」という意見もありますが、少なくともこの件は、現政権が一定の意志を持って(意志が無ければ「除外」はできない)、特定の学者を排除したのですから、「侵害」に当たらなくても「脅威」「抑圧」にはなる話です。

 よく言われますが、今回の場合も「用心するに越したことはない」ケースだと、私は思います。この社会における我々の「自由」は脆いものです。守る意志が無ければ、草葉の露の如く消えるでしょう。

 私は、人々が言いたいこと(差別や誹謗中傷は論外)を言える、言いあえる社会を守ることは、命を守ることと並んで、最優先すべきことだと思います。思想良心・言論集会・信教学問などの自由は、死守するに足る価値です。宗教者の土台も、まさにこの自由にあります。
 
 ならば、「用心するに越したことがない」ことは、今般映画界からの声明にもあった、マルティン・二―メラ―牧師の有名な言葉が切実に語る通りです。

 ついては、やはりこの件は少なくとも、我々が用心する必要はないと明らかに示すために、任命権者が6人個々の除外理由を具体的に語るべきであり、それができないなら除外を撤回し、6人を任命すべきです(いまさらしないし、できないでしょうが)。組織改革は、その後が順序というものです。

 私は、過去に当ブログで、具体的な将来を危惧した記事を書いたことがあります。トランプ大統領誕生のときと、東京オリンピツク決定のときです。両方ともロクなことになるまいと思って書いたのですが、今や想定の範囲を超えてしまいました。

 トランプ大統領が「吾我名利」の政権運営をするに違いないという見当は、まあ、少し考えれば誰でもわかる話ですが、ここまで大規模かつ先鋭化するとは思いませんでした。

 邪な「大義」(「復興五輪」は「コロナ克服五輪」に変更だって)と詐欺同然の「理由」(今年も猛暑でした)で呼び込んだ東京オリンピツクが、人心を収攬できずに迷走するのは当たり前の話で、数々の不手際が起こるのも驚きませんでしたが、まさか延期になるとは思いませんでした。

 この二つの「想定外」は、コロナ禍が私に思い知らせたものです。そして、私はこう考えました。

 もはやトランプ大統領は、ただの「吾我名利」ではすみません。彼は、人が議論し選挙で代表を決め、国の意志を決定するという、民主主義政治の根幹を腐食させてしまいます。民主主義政治の存在を前提にして、これを批判改良するのではなく、そのものを腐食させるのです。

 民主主義体制への批判は当然です。民主主義は改良の持続が必須であり、それが自由を守ることに直結します。しかし、現大統領の起こしている事態は、ナチスのワイマール体制の破壊に近い。彼の再選が阻止されることを、私は願っています。

 オリンピツクの延期で私が思ったのは、アテネに始まり今般の東京に至った、いわゆる「近代オリンピツク」は廃止するか、少なくとも10年くらい中断して、意義と開催方法を徹底的に再考すべきだろうということです。

 ベルリンでヒトラーが演出したナショナリズムに染め上げられ、ロサンゼルスでは米国テレビ局の商売のタネにされたオリンピツクは、いまさら「平和の祭典」だの「参加することに意義がある」だのと言い募っても、興ざめするばかりです。

 スポーツは、所詮は遊びです。コンピューターゲームさえオリンピツクに取り込もうというのだから、自明でしょう。また、遊び以上のものに祀り上げてはいけません(健康至上主義と軍事独裁体制の相性の良さ)。だったら、同好の士が集まって、できる範囲の規模で楽しめばいいだけです。

 この疫病下で、開催都市と開催国が開催の可否を主体的に決定できず、経費の節約さえままならないなど、言語道断です。こればかりは国と都の責任ではなく、現在のオリンピツクシステム自体がダメなのです。少なくとも、テレビ局支配と、それと結託した「五輪貴族」とも称されるIOCの意思決定機関を解体して、出直すべきでしょう。

 用心するに越したことはありません。
 
 

切なさの向こう側

2020年10月10日 | 日記
「最近、クリスチャンの人と会ってね」

「クリスチャン? 君も間口が広いんだな」

「その人、ここ4、5年のうちに身内を二人、亡くしてるんだ」

「ほう」

「最初は父上で、これはしばらく病床について、家族に看取られて亡くなったそうだ」

「もう一人は?」

「それが今年、思わぬことで突然、姉上を亡くされたんだ」

「それはショックだったろうな」

「で、その人がしみじみ言ってたんだが、父上のときは、それなりに家族は大変なこともあったが、十分看取りもできて、最後の最後まで家族の時間を共有できたそうなんだ」

「なるほど」

「で、そのときは、自分の思いとして、お父さんは天国に行ったと、同じ信仰を持たない父とは言え、安らかに来世へと旅立ったと、そう思えたという」

「ところが、姉上ではそうならない」

「そのとおり。突然、断ち切られるように死に別れると、そんな気持ちになれない」

「いわゆる死に目にも会えなかったわけか」

「そういうことだ。そうなると、気持ちは悲しみを通り越して、何でこんなことになったのか、という嘆きになる」

「行先を思うどころか、その出来事自体が理解できずに混乱するわけだな」

「天国のことなど、まるで頭に浮かばなかったらしい」

「天国とか極楽とかを素直に想うことができるには、それなりのプロセスが必要というわけか」

「そういう気がするね。不慮の死別、突然の別れ、それも事件・事故・災害のようなものに遭っての死別となると、往々にして『なぜこんなことが・・・』という答えの出ない問いに襲われ、それが激しい自責や後悔の念となって、遺族を苦しめる場合がある」

「あのとき自分がこうすれば、こんなことにならなかったのではないか、もっと自分にできることがあったのではないか・・・・・、そう思ったりするわけか」

「無理もないと思うんだ。でも、そういうときに僕が残念というか、忘れてほしくないと思うのは、遺族の激しい自責や後悔は、亡くなった人への深い愛情、大切に思う気持ちがあればこそなんだ。その気持ちは、すでに十分伝わっている。自責や後悔は、しばしばそのことを忘れさせてしまう。感情がそれらに蹂躙されて、ひどい時には健康さえ害する」

「確かに、愛されて亡くなった人が遺族を責めるとはとても思えないよな」

「自責や後悔の念はわかる。そう簡単には消えるはずもない。また性急に消す必要もない。ただ、それを抱きながら生きるとすれば、亡くなった人を愛し、大切にしてきた日々を、決して忘れずに思い起こしてほしい。それがとても大事だと、僕は思う」

「確かになあ。だが、それにしてもキリスト教徒がお寺に、か」

「不条理な出来事に突然遭うと、『万能の神』より『諸行無常』のほうが人情の機微に触れるのかもしれないな」