恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

死ななきゃ治らない?

2014年08月30日 | インポート

 仏教を知り始めたころ、「四聖諦(ししょうたい)」というアイデアが何を言いたいのかわからなくて当惑しました。

 字面だけの解説なら簡単です。「一切は苦である(苦聖諦)」「苦には原因がある(集聖諦)」「苦は滅することができる(滅聖諦)」「滅するには方法がある(道聖諦)」

 理屈のつながりだけなら子供でもわかるでしょう。このアイデアがただの理屈でなくなるかどうかは、「一切は苦である」という認識に腹の底から共感できるかどうかが分かれ目です。私は未熟な頭で考えました。

 「一切は苦である」と言うからには、人間の喜怒哀楽丸ごと全部が「苦」だと言うのだろう。ならば、それは人間の実存それ自体を「苦」であると断定するに等しい。

 すると、我々は「自己」という存在の仕方以外には存在できない以上、このアイデアは結局、「自己」という在り方そのものを「苦」だと言っているのだ・・・・・、こう考えた時、私にとってこのアイデアは決定的な意味を持つようになりました。

 だったら、「苦には原因がある」とは、「自己」の存在構造を根底から考えることだろう。このとき、存在構造の現象化を自意識だとすれば、自意識の現実態は言語機能だろう。ならば、根本原因として提出された概念である「無明(真理の暗いこと)」とは、言語機能のことになる。

 とすれば、「苦を滅する」とは、自意識を解消するか、言語機能を停止した状態だろう。

 しかし、そうだとすると、そんなことが本当にできるとすれば、死ぬしかあるまい。そうか、だからブッダの「ニルヴァーナ」は、傍目にはただ死んだようにしか見えないのか。

 すると、仏教の教えをうんと簡単に言うと、「バカは死ななきゃ治らない」ということか?

 もしそうなら、これが自殺の勧めでないとすれば、何なのか。

 考えられる第一は、「バカであるとはっきり自覚する」こと。次に「バカはバカなりに死ぬまで生きていく」と覚悟を決めること。

  となると、「苦を滅する方法」など、生きている間に手に入れるのは無理である。「滅する」のではなく、「苦しくても生きていける工夫はある」程度の話にしかならない。それでも、工夫しながら生きると意志することが、われわれにできることであり、すべきことなのだ。

  私は、こう大雑把に見当をつけて仏教に取り組み始め、今もそのままのスタンスです。実に進歩も成長もない。情けないです。


「無為」の作為

2014年08月20日 | インポート

 お盆中に檀家さんの一人と四方山話をしていたら、彼がこんなことを言いました。

「方丈さんね、何か新しいことを始めるか、あるいは今までしてきたことをさらに続けるか、というようなことが議論になったとき、必ず『今それをする意味があるのか』と言い出す人がいるでしょ」

「いるねえ」

「でね、この『意味あるのか』で話が始まるとダメなんだよね。みんなが色々なことを言うようになって、なかなかまとまらない。でね、私はそういうとき、『それをしなかったら、どうなる?』という方に話を持っていくの。しなくても別にかまわないなら、それでいいんだし。不都合が生じるなら、それが行う意味だし。この方がまとまりやすい」

「なるほどねえ」

 私は感心しました。確かに「意味あり」の前提で議論を始めると、要はそれぞれの考えようですから、意味のインフレーションになりやすいでしょう。

 しかし、「しなくても構わない」を前提にするなら、「意味」を主張する方はかなり説得力あるアイデアを提出しないとならないでしょうから、迂闊なことは言えなくなります。議論の仕方として、面白い工夫だと思いました。

 ところで、この「しなくても構わない」をもう少し主張すると、「しないほうがよい」となり、さらに強く言うなら、「しないのが本当だ」となります。

 するとこれは、いわゆる「無為」とか「無為自然」という、老荘思想の重要な観念に結びついていくでしょう。

 もちろん、老荘思想、あるいはタオ(道)イズムで言う「無為」は単に何もしなことではなく、要は万事にタオが行き渡って然るべくなるようになっているのだから、人間が小賢しい考えで勝手なことを仕掛けず、ひたすらタオに随順すべきだ、というようなことを説いているのでしょう。

 このアイデアは、古来仏教、とりわけ「禅」の考え方にシンクロする部分がかなりあり、実際、禅僧には、仏教を説いているんだかタオイズムを主張しているのか、判然としない物言いをする人もいます。

 しかし、少し考えればわかるように、「無為」や「無為自然」の状態に実際になることなど、どだい不可能です。つまり、「無為」には、あくまでも「なろう」としない限り、なれないからです。タオに「随順」しようとするなら、もうそれは「作為」でしょう。

 だいたい、我々の意識自体が特定条件下における「構成物」です。そのような「構成物」を持つ我々が、「なろう」と作為しなくても完全に「無為」になれるとすれば、偶発的に気絶するか昏睡するか死ぬしかありません。そうなったら、「無為」もタオもまったく無意味です。

 ならば結局、これも「悟り」と同じで、「無為」にしろ「無為自然」にしろ、それ自体を無闇に珍重するような愚を犯さず、冒頭紹介した檀家のように、ものの考え方の工夫に取り込んで適当に利用するくらいが丁度よいと、私は思います。


迷惑な「言行一致」

2014年08月10日 | インポート

 私が時々「『絶対正しい真理』なんぞは妄想にすぎない。所詮ものは考えようだし、合意の作り方だ」みたいなことを言うと、

「だったら、狂信的な思想から暴力的行為に出る者も、『考えよう』で許されるというのか」

 と、思いつめた表情で迫ってくる人が現れます。

 結論を言うと、「考え」ているだけのことなら、いくら「狂信的」であろうと一向にかまわないと、私は考えます(私は「狂信的」な思想を持つ真面目な中堅サラリーマンを知っています。思想的議論さえしなければ、ただの勤め人)。

 問題は「狂信的考え」の後に出てくる「行為」です。私は、「狂信的考え」の持ち主が、反「狂信的考え」の存在やその考えの持ち主を一切認めずに否定するというなら(もっともそれが「狂信的」と言う所以なのでしょうが)、そのような「行為(発言と行動)」には、徹頭徹尾反対です。

 もし、その「行為」が自らの考えと違う者に対する暴力や、威嚇的・脅迫的発言となるなら、法的規制の対象とすべきだと思います。

「無常」「無我」のアイデアを前提にするなら、このアイデアの実践の一つは、反「無常」「無我」という思想的立場を、あって当然と認識することです(「無常」「無我」も無常で無我)。

 である以上、「無常」「無我」のアイデアに反対する考えや意見を否定しませんが、その考えから出る行為は別です。アイデアに対する「批判」はよいとして、アイデアの持ち主の存在を「否定」する行為は、許されるべきではありません。

 仮に「絶対正しい真理」が原理的に反「絶対正しい真理」の存在を許さないというなら、そんな「真理」は有害無益である以上に、「真理」として不完全なのであり、その時点で「真理」ではありません(「絶対正しい」はずなのに「普遍的」ではないのだから)。

 このような立場をとる私が、「人種」差別や「民族」差別のような出自に関する差別行為(発言と行動)を頭から馬鹿げていると考えるのは、これまた仕方のないところです。

 「真理」の有無を争うどころか、たまたまそのように生まれたに過ぎない者が、たまたまそのように生まれたに過ぎない者を、たまたまそのように生まれたに過ぎないことを根拠に(つまり、無常が無常を無常であることを理由に)、否定し・攻撃し・排除するというのですから、これはもう妄想以外の何物でもありません(「いや、そのように生まれたことに根拠はある」という主張も仄聞しますが、その主張の言う「根拠」の「正しさ」は原理的に証明できません。つまり、妄想と区別できませんから、言葉の定義上「根拠」としては使えません)。

 となれば、考えるべきは、あらゆる妄想の場合と同様、この妄想の出どころである「欲望」、その正体でしょう。


「ユキばあちゃん」

2014年07月30日 | インポート

20140721100219_2 今や目にすることが珍しくなった絣のモンペに唐草模様の大風呂敷の荷物。写真中央の女性は、従業員から「ユキばあちゃん」と呼ばれています。

 御年91歳。右手に杖・左手に傘で、大きく腰の曲がった体を支え、ひとりで電車とバスを乗り継ぎ3時間。もう30年近く、毎年大祭期間中にお参りにくるのだそうです。

 私は期間中お参りの方々に直接応対する機会が少なく、今年はじめてお会いしました。

 大きな荷物の中には、まずお地蔵様へのお供え物、そして亡くなった「ダンナとムスコ」のためのお供えが入ってます。

 今日は、まず受付で故人の塔婆供養の申し込みをして、境内を参拝しながら例年のところにお供えをします。そして宿坊に止まって翌日、午前中イタコさん一本に絞って少なくとも3時間ほど待ち、口寄せをしてもらって帰るのだそうです。おそらく荷物の中には折りたたみ椅子やペットボトルなど、「イタコ待ち」グッズも入っているでしょう。

 供養の受付を終え、受付係の一人がお供えに回る彼女を途中まで送ろうとすると、「和尚さん、どうか気遣いせんでくだせぇ」とはきはきした口調で言い、「今日は法話はありますか」と尋ねたと聞きました。法話する予定の私は柄にもなく緊張してしまいました。

  驚いたのは、その法話のときです。彼女は姿をすっかり改め、萌木色の着物に薄茶の帯という、涼しげで実に粋ないでたちで現れたのです。その鮮やかな変身にはびっくりしました。

  すでに当日泊りの方々と仲良くなったようで、周囲の人たちが何気なく配慮していました。宿直の和尚さんも、部屋の近い宿泊者に移動の介添えをお願いしておいたそうです。

「ああ、今年もお参りできました」

 そう言って、「ユキばあちゃん」は帰って行きました。来年もお参りしてもらえることが、我々の心からの願いです。


疑う人の信じ方

2014年07月20日 | インポート

 まるで疑いを持たない人は、信じることはできません。「疑い」が無いなら、彼は「理解」したり「了解」したりするだけです。

 しかしながら、「理解」や「了解」も、実は根本的にはそう「信じて」いるのです。そのとき、疑うことは忘れられています。

「ここにコップがある」「1+1=2である」ということを、人は普通「わかっている」とは言うでしょうが、「信じている」とは言いません。

 ところが、この「コップがある」の、「ある」とはどういうことか、と一たび考え出したら、ことはそう簡単に「理解」できなくなります。

「1+1=2」にしても、別々の「1」をまとめて一つに見る意識作用が無ければ、「2」にはなりません。人はどうして、別なものを一緒のものとして見ることができるのか。「+」とは何か。なぜそれが、ただの「1と1」ではなく、「2」になるのか。考え出したらキリがありません。

 こういう「無駄な」考えや疑いを通常は意識化しないから、人は物事を「当然のこと」として「理解」できるのです。つまり、「理解する」とは、「疑う」ことを忘れたまま「信じている」ことなのです。

 これに対して、「確信する」と言われる態度があります。「確信する」人間は、「疑い」があることを明瞭に知っています。それを知ったうえで、「疑う」人と、さらに疑っても信じてもいない「第三者」に対して、彼なりに説明可能な「根拠」を示して、その「疑い」を否定しようとします。これは通常「知的」「学問的」と呼ばれる態度でしょう。

 では、普通に「信じている」とは、どういう態度でしょう。それは、「根拠」を説明しないまま、あるいは説明できないまま、「疑い」を排除・無視する態度(つまり「疑わない」こと)です。これはかなり心理的に大きな負担でしょうから、しばしば極端に振れて、「盲目的」で「耳を貸さない」状態に陥ることもあるわけです。

  さらに、もう一つの「信じる」態度があります。これは「疑い」を当然の前提として「信じる」のです。つまり、否定も排除もせず、「疑い」を受容して「信じる」。これはもう「信じる」とは言いません。通常は、「賭ける」と言います。

 「宗教を信じる」と言うとき、その意味は通常、上記の「確信している」か「普通に信じている」のどちらかでしょう。

 では、「宗教に賭ける」と言ったら、それはどういう意味か。それは可能なのか。

 おそらく「賭け」た瞬間、「信じること」と「疑うこと」は対消滅してしまいます。「賭けた」者はもう「信じ」ても「疑って」もいません。それまで自分が「信じてきた」「疑ってきた」教えに、いわば「身を委ねる」だけです。その善悪は問えず、吉凶を知ることもないでしょう。そしてどんな希望も期待も無意味になるでしょう(いくら希望しようと、サイコロの目がどう出るかは、それと関係ない)。

 「信じる」行為そのものを「疑う」ような人間が、宗教にコミットしようというなら、この「賭け」以外に方法がないのではないか、私はそう思うのですが。

 

 


女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独

2014年07月10日 | インポート

 何分にも流行に疎いので、「ありのままで~~」とか「アナ雪」とかいう声があちこちから頻繁に聞こえていた頃は雑音同然だったものが、記録的興行成績をあげ、今もそれを更新し続けているアニメーション映画の主題歌とタイトルであると、最近ようやく知りました。

 さらについ先日、主題歌の全体を聞く機会があり、興味を持ってストーリーの粗筋を読んでみたら、これがまた、時々「自己啓発」系や「人生訓」系の書物に出てくる、「ありのままでよい」という類の安直な主張を考え直す上で、格好の材料だと思いました。

 まず第一に重要なのは、「ありのままである」ことは欲望であって価値ではない、ということです。それは基本的に、「ありのまま」であろうとする本人ではない他者に承認されたり共有されたりすることではありません。つまり「ありのままであるべき」とは、原理的に言えないのです。

  なぜなら、もし他者から承認されたり、共有されたりするものなら、その時点ですでに他者の評価や思惑に拘束されることになるからです。それは「ありのまま」の望みから程遠い事態でしょう。

  だから、雪の女王は城を飛び出して、誰もいないところで「魔力」を全開にして「ありのままで~~」と絶叫するのです。彼女は、まさに「他者の拘束」から離脱する欲望を歌い上げ、誰もいないところでしか「ありのまま」でいられない絶対的孤独を無自覚なまま表現しているわけです(自覚していたら、切なすぎて歌えないでしょう)。 

  ところが、ここで生じる決定的な矛盾は、「ありのまま」でいようとすると「自分」でいられなくなるという事実です(いわば、ある種の「自己疎外」的状況)。

  人が「ありのままいたい」という時の真意は、「ありのままの自分でいたい」ということでしょう。これは絶望的に不可能です。前に述べたとおり、人間が了解しうる「自己」は根底から「他者」によって構造化されているからです。

  たとえば、「ありのままの山」と言ったところで、その「山」を人間は言語機能で構造化された認識においてそう見ているのであって、それから外れた「山そのもの」の謂いではありません。というよりも、「山そのもの」も言語なのですから、それを超えた「そのもの」など、我々には知りようもありません。ということは、「ありのままの山」なんぞは、山ならぬ人間の勝手な錯覚に過ぎない、ということです。

  同じように、「自己」として実存する限り、人は「ありのままの自分」など知りようがなく、ならば、錯覚以外ではそうなりようがない、ということです。ということは、「ありのまま」とは所詮「何が何だかわからない」事態を言うのであり、女王の「魔力」はその象徴でしょう。

  思うに、我々に理解可能な「ありのままでありたい」という欲望の意味は、「いま自分であることが苦しいから、それから離脱したい」ということでしかなく、「自分であるために自分でありたくない」という究極の矛盾を言っているわけで、これはどう見ても「他者」が承認しうる「価値」にはなりません。

 ちなみに、日本語版主題歌の情緒性が強すぎる翻訳とは違って、英語の原文には以上の解釈に通じるセリフが散見されます。

「A kingdum of isolatiom, it looks like I'm the Queen」
 (たったひとりの王国、私は女王のようね)

「D'ont let them in, d'ont let them see, be the good girl you always  have to be」
 (誰も中に入れてはダメ、誰にも見せてはダメ、いつもよい子でいなければ)

「let it go, let it go, turn away and slam the door, I don't care what they're going to say」
 (ありのままでいい、ありのままでいいの、振り返ってドアを閉め、誰が何と言おうといいの)

「it's time to see what I can do to test the limit and break through, no right , no wrong,
no rules for me, I'm free!」
 (今こそ自分の力を知り、その限界を試して、それを超える。正しさも誤りも、何のルールも私にはない、私は自由なの!)

  拙い訳でまことに恐縮ですが、これらだけを見ても、日本語版とはかなりニュアンスが違うことはわかるでしょう。

  結局、「ありのままでよい」「ありのままでいるべきだ」という主張は、無責任な扇動や宣伝にはなり得ても、困難を抱える人へのアドバイスやサポートとしては、ほとんど役に立ちません。女王が城に帰るには、新たに「魔力」を制限する方法を発明して、「ありのまま」ではない「自分」を、それなりにもう一度作るしかないのです。


話の変え方

2014年06月30日 | インポート

「たとえば坐禅について、君は小難しい理屈を言うかと思うと、頭を冷やすためにするだの、リラックスの方法だのと、妙に簡単な話をする。方便と言えばそうかもしれないが、悪く言えば二枚舌じゃないのか?」

「対機説法という言葉があるのを知っているか?」

「ああ。お坊さんが相手に合わせて、つまり相手の立場や理解力に合わせて教えを説くことだろう」

「ぼくはね、相手に合わせて説くんじゃないの。相手の問題に合わせて言うの」

「どう違うんだ」

「『悟り』とか、『身心脱落』とか言い出す相手なら、小難しい理屈で話せばいいじゃない。だけど『最近煮詰まってて、頭を空っぽにしたい』とか、『職場のストレスがひどくて、何とかしたい』とか言う人に、『悟り』もへったくれもないでしょ。坐禅がそれなりに役に立ちそうだと思ったら、問題の範囲内で紹介すればいいだけさ」

「なんだか不誠実だなあ」

「そう思うのは、君が仏教の『真理』みたいなものがあると思うからでしょ。お坊さんたる者、たとえ言い方を変えてでも、その『真理』がきちんと伝わるように説かないとダメ、みたいに」

「そうだよ」

「ところが、僕は『真理』なんてどうでもいいの。『真理』を説かれて面白くもなく役にも立たず、共感もできないなら、その『真理』がダメなのさ。僕の場合、およそ見たり聞いたり読んだりすることに堪えるのは、面白いか、役に立つか、共感するか、そうでなければ生活上必要なもの。それだけ」

「仏教もそうなのか」

「そのとおり」

「それじゃあ、なんかインチキ臭いぞ。時々、まったく畑違いの分野を生業にしていた人物が突然出家して、道徳とも処世術ともつかぬような話を仏教で粉飾して言い出したりするけど、あれと同じになるんじゃないか?」

「なぜいけないの? そういう話が役に立つ人もいるでしょう。その彼に、すごく偉い老師が弁舌を尽くして『真理』を語っても、通じなかったら無意味でしょ。彼に通じないのは、言い方じゃないよ。彼の抱えてる問題に関係ないからさ」

「でもなあ・・・」

「ただね、『粉飾』話をそうだと見破る方法はあるな」

「どういう?」

「自分の立場を権威づけたり、自分の言いたいことを言うのに仏教を利用しているだけの者は、仏教の最も基本になる教えをリアルに語ることができない。たとえば『空』とか『縁起』とかについて。ほとんどが受け売りか、いつかどこかで聞いたような話だ。『空とは、とらわれない心のことだ』『縁起の教えとは、ご縁を大切に日々感謝して暮らすことだ』なんていう類のもの」

「ではリアルに語るというのは?」

「仏教の言葉が語り手自身の体験に刺さっている。だから、その痛みから発する言葉で、教えをいくらでも具体的に語ることができる」

「わかりやすいということか?」

「違う! わかりやすい仏教などないし、そんなものは要らない。あるべきはリアルな仏教だ」

「では、仏教のリアルとは」

「<私が存在する>、そのことの『苦』に刺さるかどうかだと、僕は思うね」

追記:次回の講座「仏教・私流」は9月30日(火)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


「仏教は科学」ではない

2014年06月20日 | インポート

 あるものがそのようなものであることの根拠、これを「実体」と言うなら、仏教はそれを認めません。その「実体」を「我(アートマン)」と呼ぶとすれば、すべての存在は「非我」だと言うことは、人間はいかにしても「我」を認識できないという意味になり、認識できないならそれを論じることは全く無意味でしょうから、もはやそれは無いも同然、すなわち「無我」ということになるでしょう。

 この「非我」「無我」「空」という考え方は、仏教のごく初期、ゴータマ・ブッダの言葉にも表現されている教説ですが、この教説が陥りやすく、かつ最もわかりやすい解釈は、要素分割主義的なアイデアです。

 すなわち、「車」そのもに「実体」はなく、部品の寄せ集めで「車」になっているように、この世のあらゆる存在は、五蘊(色・受・想・行・識)の寄せ集めに過ぎない、と考えるのです。この考え方は、ゴータマ・ブッダの弟子とされる者もすでに説いています。

 議論をさらに大規模かつ精緻に展開すれば、『倶舎論』の「五位七十五法」になるでしょう。つまり、五蘊をさらに七十五の要素(ダルマ・法)に分割して、その組み合わせで、あらゆる存在を理解したことにするのです。

 この方法は、観測可能な対象を量的単位に分割して、その相互関係を数学的手法で記述して理解しようとする、「近代科学」の手法とよく似ています(したがって、「仏教は(心の)科学である」という類の、安直で何を言いたいのかよくわからない主張にも、「三分の理」程度はあると言えるでしょう)。

 しかし、この考え方においては、言うまでもなく、「ダルマ」は「非我」や「無我」ではあり得ません。これが「実体」でなければそもそも理論にならないからです。

 後に大乗仏教から批判されたのは正にその「実体」視する考え方であり、その意味では、大乗仏教がカウンターで提出した「空」の理解は、ゴータマ・ブッダの教説への回帰と言えるでしょう。

 ここで私が特に重要だと考えるのは、単に「ダルマ」は「実体」でないと主張することではありません。問題はその考え方自体にあります。

 要素分割主義は、分割する思考の「正しさ」を無条件に前提にしています。ですが、この「正しさ」にはいかなる根拠もありません。

 つまり、要素分割主義の肯定は、分割を考える思考に根拠を設定して「実体」視することになり、ここに根本的な錯誤があります。

 思考は言語の機能です。ということは、要素分割主義は、ついには言語機能の全面肯定になり、およそ仏教の考え方に背馳します。

「<われは考えて、ある>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ」

「ことばで表現されるものを(真実であると)考えているだけの人々は、ことばで表現されるものの(領域の)うちに安住し(執着し)ている。かれらは言葉で表現されるものの(の本質)を知らないから、死にとりつかれてしまうのである」

 ゴータマブッダの言葉とされる、これら初期経典の翻訳(中村元訳)が原文に忠実なら、どうみても要素分割主義的理解はダメでしょう。結局、翻訳文のようなアイデアの理論化は、ナーガールジュナの登場を待たなければならなかったのです。


大失言

2014年06月10日 | インポート

 修行僧時代、私のいた道場には夏と冬の2回、「結制安居(けっせいあんご)」と呼ばれる、外出を原則的に禁止して修行に集中するという、いわば修行強化期間がありました(100日間です)。

 この期間中、特別に「首座寮(しゅそりょう)」という部署が設けられ、そこには住職から任命されて修行僧のリーダーとなる「首座」、その後見役としての「書記」、さらに二人の身の回りの世話を務める「弁事(べんじ)」の3人が所属します。

 当時、首座は入門2、3年目の修行僧、書記は4年目以上、弁事はだいたい1、2年目の修行僧がなるのが普通でした。書記と弁事は、首座が選んで決めます。

 ということは、どちらが先に入門したかが絶対的な意味を持つ道場の人間関係において、首座は表看板として重要でも、修行僧全体に対する実質的かつ絶大な権力は、書記が持つことになります(書記が最高権力者なんて、どこぞの独裁国家のようだな、と思った記憶があります)。

 私は修行4年目の夏、この書記役をしたことがあります。当時任命された首座に「今回はグッと締まった安居にしたいんで、直哉さん、書記お願いしますよ」と頼まれたのです。

 私はまず、立場が下の者からのお願いごとに弱い。今も、後輩から講演など依頼されると、ほとんど断れません。

 次に、「締まった安居にしたいんで」という一句に参った。ヨシ、と意気に感じたわけです(その結果、あの夏安居の若い修行僧は大変な「災難」にあったわけですが)。

 もう一つ、私も2年目で首座をしたので、書記を頼みに行って断られる辛さを知っていたのです。私の頼みを引き受けてくれた当時の書記和尚さんには、今でも全く頭が上がりません。ですから、一発でオーケーして、首座の負担を少しでも取り除いてやりたかったのです。

 まだ「ダースベイダー」とは言われていなかったと思いますが、「道場原理主義者」を自認して調子に乗っていた頃です。書記を務めることに決まって、私のテンションは全面的かつ無際限に上がっていきました。

 そして、いよいよ結制安居初日、私は、修行僧総出で行う朝の回廊掃除の直後、集まった修行僧を前に仁王立ちして、有無を言わさぬ勢いで訓令しました。

「よいか! 今回の夏安居は、有り難くもご開山高祖大師(こうそだいし:道元禅師のことです)の膝下、全員一丸、鉄の意志で修行を貫徹する!!

 ゆえに、これに臨んで病気をする怪我をするなど、とんでもない裏切り行為である!

 よく聞け! この安居中、病気なら肺炎、怪我なら骨折以上でない限り、病院にも行かせない!! このことを全山に周知徹底せよ!!!

 わかったか!(全員のハイの大音声) 声が小さい!! わかったか!!!(ハイの絶叫)」

 ずいぶん後になって、あの時の修行僧に訊いてみたら、彼は言っていました。

「あの時は、皆でこれは大変なことになったと、真っ暗な気持ちになりました」

 ところが、あろうことか、こう大見得を切った直後、解散して首座寮に戻る途中の敷居に躓いて、私は右足の小指を骨折してしまったのです。

 ポキッと乾いた音が聞こえた時、本当に全身から冷や汗がでました。

「書記おっさん(和尚の略称)、どうします?」

 思ってもみない事態に、首座も弁事も途方に暮れた顔で言いますが、本当に途方に暮れていたのはこっちです。すでに小指は親指大に腫れています。しかし、あの大見得の後で、とても骨折しましたなんぞと言えません。

 私は覚悟を決めました。包帯などを巻いて坐禅堂や仏殿などに入ることは禁止されていて、かといってあの頃はテーピングに適当なバンデージのような物はありませんでした。

 結局ガムテープでつま先をぐるぐる巻きにして、長めの着物と早足で、負傷をごまかそうとしました。建物の中は薄暗いところが多かったので。

 幸いに、坐禅と法要での正座は、我慢できないほどの激痛ではありませんでした。問題は朝。

 首座寮のメンバーは毎日交代で、3時半の起床時に、鈴を振りながら階段だらけの伽藍を全力疾走して、起床を知らせる仕事があったのです。

 これは、どうにも無理でした。歩くのがやっとなのに走るなんて。

 3人は鳩首合議。致し方なく採用した対策はキセルでした。つまり、目立つ最初の10メートルと最後の10メートルを私が走り、バトンタッチ式に鈴を弁事に渡して代走させるという、実に姑息な手段でした。

 私はこの方法で何とか一か月を誤魔化しました。今思っても汗がにじむような大失言、大失敗です。

 しかし、あのとき、100人近くいて、私たち3人と身近に接していた一年目の修行僧は、一切何も言いませんでした。最後まで私の指示を遵守し、書記として立ててくれました。

 言っていたのを私が知らなかっただけかもしれませんが、あの頃の私は、あえて知らぬふりをしてくれたのだと思っていましたし、今もそう思っています。

 一か月もキセルをしていたのですから、わからないはずがありません。「恩に着る」という言葉がありますが、腹に沁み渡る実感としてそう思ったのは、あの夏安居の入門一年目の修行僧に対してが初めてです。

 いまでも当時の一年目の修行僧に会うと、どことなく負い目を感じる私ですが、この夏安居では他にも大失言があり、いずれ機会があったら紹介しようと思います。

  あるとき、失言者いわく、

 「口は災いの元だな」

  後輩いわく、

 「その災いがなかったら、直哉さんじゃありませんよ」

追記1:次回「仏教私流」は6月23日午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

追記2:「中国禅」講義のレジュメを提供してくださった方々、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

 


「超越」論的行為論

2014年05月30日 | インポート

 仏教を語るときに最大の困難は、一番大事なことがまるでわからないことです。

 まず、ゴータマ・ブッダがまさに「悟った」時、彼に何が起こっていたのか、全然わからない。それについて、語っていない。彼が話しているのは、「悟り」の前と後のことだけです。

 さらに、「ニルヴァーナ」についても、それが何であるのか、わからない。たとえば、「生存が尽きて二度と生まれ変わらない」と言われても、それがどういう「状態」なのか、まったく知りようがありません。

 しかし、仏教者である以上は、この二つが「わからない」ではすみません。すると、どうするのか。「わかったかのように」語るしかないでしょう。

 「オレはわかる」と言い出す者が出てきても、彼が「わかったこと」がブッダの「悟り」や「ニルヴァーナ」と「同じ」であることは原理的に証明できませんから、「わかったふり」をしていることと区別できません。

  結果、「悟り」や「ニルヴァーナ」については、「わかったような」言説が際限なく積み重なり、どれが「本物」かは、言説そのものではなく、その言説を成り立たせるシステムがどの程度支持されるかで決まるほかありません。つまり、そうして決まった「本物」は、「悟り」とも「ニルヴァーナ」とも無関係なのです。

  この事情は仏教に限りません。「絶対の真理」「万物の根源」「絶対神」みたいなものを語る場合は、すべて同じことです。もし人間にそれらが「わかった」とすれば、それは「絶対」の話でも「万物」のことでもないでしょう。

  ということは、何を語ろうと、仏教にしろ他の言説にしろ、一番肝心なことに言葉は届かないわけですから、次のアイデアは、肝心なことに届くと想定される、言語以外の方法に賭けることです(坐禅、念仏、祈祷、儀式等々)。それさえ届くかどうかは誰にもわかりません。わからなくても、その方法を実行してみる。

 ということは、このとき使用される「方法」は「方法」ではなくなります。「方法」と言う以上は、「使用目的」に規定されて初めて「方法」でしょう。ところが、「わからない」ことを目的にはできませんから、そのために用いられる「方法」は「方法」ではありえません。それはつまり、「目的」-「方法」関係を脱落して、「ただ行う」ことになります。

 仮にこのあたりの事情を明晰に自覚してなお「ただ行う」と言うなら、それは我々の「現実」を構成する意味連関から外れることになるでしょうから、非意味的行為として「超越的」でしょう。

 「只管打坐」について「超越性」を語ろうするなら、そういうことであろうと私は考えます。

   ______________________

「その『超越性』をもう少し言うと?」

「自意識解体的、あるいは言語解体的で在り続ける、ということですね。私にとっては、『超越』という語にそれ以外の意味はありません」

「つまらない話ですね」

「当たり前でしょ。坐禅が面白いとでも?」