恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

権利の問題

2011年02月20日 | インポート

 ある特殊な体験、たとえば「悟り」とか「奇跡」、あるいは「心霊現象」などと呼ばれるものは、なぜそのように認識されるのでしょう。あるいは、そのような体験は、どうして「悟り」などと語られるのでしょう。なにゆえに、それが許されるのでしょう。

 私に言わせれば、「悟り」は、誰かが悟ったから、「悟り」と認識されたり語られたりするわけではありません。そうではなくて、ある人物が「悟った」と言ったから、それが「悟り」になったのです。ここに、権利の問題が生じます。つまり、それを「悟り」だと言う権利を持つ人物がいて、はじめて「悟り」は成り立つわけです。

 禅門だと、一連の修行「手続き」を経た上で、「師家」と呼ばれるような、先に「悟った」とされる人物の認定によって、はじめてある者の特殊体験が「悟り」とされるシステムになっています。

「奇跡」もそうでしょう。詳しくは知りませんが、カトリックの場合、バチカンやその地方機関などが審査・判定した結果、「奇跡」と認められたものを「奇跡」と呼ぶはずです。それが「奇跡」かどうかは、体験自体が決めるのではないわけです。

 遡って考えれば、たとえブッダだろうとキリストだろうと、彼らの経験や行為がそれ自体自動的に「悟り」や「奇跡」になったわけではありません。本人がそう語ったとしても、それが錯覚やトリックでない保証はありません。彼ら以外の誰かが、そう認めなければダメなのです。つまり、この時点でですでに、「悟り」「奇跡」体験そのものの話をしているわけではありません。

 すると問題は、「悟り」体験・「奇跡」行為の当事者ではないのに、その認定や判断をする者の権利は、どのように承認されるのか、ということになるでしょう。そうなると、承認という行為も認識や判断に関わるもので、体験自体とは関わりませんから、もう完全に「悟り」も「奇跡」も観念です。しかも権利問題ですから、本質的には当事者間をめぐる政治的な判断です。

 したがって、これらの特殊体験は、まさに「悟り」「奇跡」「心霊現象」と認められた瞬間に、それが「生き方」や「真理」を語るようなコンテクストに挿入されれば、完全にイデオロギー化するでしょう。

 「悟り」「奇跡」が実は体験そのものの話ではないというなら、逆に言えば、どんな体験も、ものは言いようで「悟り」「奇跡」「心霊現象」になる、ということでしょう。

 ときどき、たとえば教祖との性行為を「神との合一」や「ニルヴァーナ」のごとく語る、馬鹿げた教義のフトドキ集団が現れるのは、こういう事情によるのです。その弊害を避けるには、「悟り」「奇跡」を語る者の権利(体験や事実ではない)を批判的に徹底的に検討する必要があるでしょう。このとき、「悟った」本人や「奇跡」を行った当人の体験「談」は、特に、根本的に、どうでもよい話です。

 結論。悟りたければ「悟り」はダメで、奇跡を信じたければ、「奇跡」を信じてはいけない。


暗闇のダイアローグ

2011年02月10日 | インポート

その1

「どうして人は死ぬのですか?」

「生きているからです」

「何のために生きるのでしょう?」

「死ぬためです」

「だったら、なぜ人は人と関わるのでしょうか?」

「関わるのが人間というものだからです」

「見事なお答えです。ひどく馬鹿げていますが」

「人生はすばらしい、とでも言ってほしいのですか?」

その2

「やさしい悪魔、っていると思いませんか?」

「思います。残酷な天使もね」

「では、そういう天使と悪魔をあやつる神とは、どういう神ですかね?」

「無能でしょうね」

「無能?」

「何もしないほうがましだと、知っているんですよ」

その3

「つまらない、ささいな幸福があるだけで、人はどうして大変な不幸に耐えられるのでしょうか?」

「そうでもなかったら、誰も生きることを受け入れられませんからね」

「ほかに受け入れる術はありませんかね」

「あります。忘れることです」

「それは大変・・・・・」

「むずかしい。だから、ささいな幸福でなんとか耐えようとするのです」

その4

「この文章の真意はなんでしょうか?」

「そんなものはありません。書かれたもの、話されたものにあるのは、解釈だけです」

「真意はどこにもないのですか」

「書いているとき、話しているとき、その最中にだけあります。だから誰にも決してわかりません」

「書いている本人にもですか?」

「当たり前でしょう。彼はそのとき、まだ書いているんですから」