ある特殊な体験、たとえば「悟り」とか「奇跡」、あるいは「心霊現象」などと呼ばれるものは、なぜそのように認識されるのでしょう。あるいは、そのような体験は、どうして「悟り」などと語られるのでしょう。なにゆえに、それが許されるのでしょう。
私に言わせれば、「悟り」は、誰かが悟ったから、「悟り」と認識されたり語られたりするわけではありません。そうではなくて、ある人物が「悟った」と言ったから、それが「悟り」になったのです。ここに、権利の問題が生じます。つまり、それを「悟り」だと言う権利を持つ人物がいて、はじめて「悟り」は成り立つわけです。
禅門だと、一連の修行「手続き」を経た上で、「師家」と呼ばれるような、先に「悟った」とされる人物の認定によって、はじめてある者の特殊体験が「悟り」とされるシステムになっています。
「奇跡」もそうでしょう。詳しくは知りませんが、カトリックの場合、バチカンやその地方機関などが審査・判定した結果、「奇跡」と認められたものを「奇跡」と呼ぶはずです。それが「奇跡」かどうかは、体験自体が決めるのではないわけです。
遡って考えれば、たとえブッダだろうとキリストだろうと、彼らの経験や行為がそれ自体自動的に「悟り」や「奇跡」になったわけではありません。本人がそう語ったとしても、それが錯覚やトリックでない保証はありません。彼ら以外の誰かが、そう認めなければダメなのです。つまり、この時点でですでに、「悟り」「奇跡」体験そのものの話をしているわけではありません。
すると問題は、「悟り」体験・「奇跡」行為の当事者ではないのに、その認定や判断をする者の権利は、どのように承認されるのか、ということになるでしょう。そうなると、承認という行為も認識や判断に関わるもので、体験自体とは関わりませんから、もう完全に「悟り」も「奇跡」も観念です。しかも権利問題ですから、本質的には当事者間をめぐる政治的な判断です。
したがって、これらの特殊体験は、まさに「悟り」「奇跡」「心霊現象」と認められた瞬間に、それが「生き方」や「真理」を語るようなコンテクストに挿入されれば、完全にイデオロギー化するでしょう。
「悟り」「奇跡」が実は体験そのものの話ではないというなら、逆に言えば、どんな体験も、ものは言いようで「悟り」「奇跡」「心霊現象」になる、ということでしょう。
ときどき、たとえば教祖との性行為を「神との合一」や「ニルヴァーナ」のごとく語る、馬鹿げた教義のフトドキ集団が現れるのは、こういう事情によるのです。その弊害を避けるには、「悟り」「奇跡」を語る者の権利(体験や事実ではない)を批判的に徹底的に検討する必要があるでしょう。このとき、「悟った」本人や「奇跡」を行った当人の体験「談」は、特に、根本的に、どうでもよい話です。
結論。悟りたければ「悟り」はダメで、奇跡を信じたければ、「奇跡」を信じてはいけない。