恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ようこそ

2015年08月30日 | 日記
 国際パフォーマンス・スタディーズ学会という集まりが青森市で行われ、参加した研究者の方々が100人ほど、恐山まで見学に来られました。彼らの研究テーマは、舞踏や演劇など、芸術的な身体表現が中心のようでした。青森出身の寺山修司、秋田出身の土方巽などがいる北東北なので、そのゆかりもあるのでしょう。

 それにしても、若干の通訳やボランティアを除くと、全員外国人です。もちろん、中には日本語が恐ろしく上手な方もいましたが、今回の共通語は英語です。私のブロークンイングリッシュでどうにかなるようなことではないのですが、通訳の方の助けをかりながら、なんとか英語で境内を案内し、質疑応答を地蔵殿で行いました(仏教プロパーの話は、通訳の流暢な英語よりも、私のブロークンイングリッシュのほうが通じやすい場合があるのです)。

 質疑応答は活発でした。ほとんどが研究者ですから、興味は多岐にわたり、時間が足りないほどでした。一つ紹介しましょう。

「イタコさんという霊媒師に降霊術を依頼しながら、お寺にメモリアルサービスも申し込むのは、どういうことでしょうか? 違いはなんですか?」

「死者との関係において、イタコさんの方法は直接的です。イタコさんは申込者と死者を口寄せという方法で直接媒介します。しかし、我々の法要はそもそも枠組みが違います。儀礼はあくまで仏様に対して行います。申込者の実際の意識は違っていても、法要本来の意味は、あくまで仏様へ奉げられる儀式です。申込者は、その儀礼の施主になった功徳を死者に振り向ける(回向する)という形で、死者と関係するのです」

 この問いは、別の仕方で日本人参拝者からも受けたことがあります。

「私も不思議なんですが、うちにはお寺にお墓がちゃんとあるし、お参りもするのに、どうして恐山に来たくなるんでしょうねえ・・・」

 実に感に堪えるという風情であるご婦人に訊かれました。

「お寺のお墓といえば、細かいところはともかく、なんとなく一定のマナーというか、お参りの仕方みたいなものを漠然と意識するでしょう。和尚さんにお経を読んでもらえば尚更です。しかし、亡くなった方への感情はひとそれぞれです。その思いは全部が全部、お参りのマナーの中に納まるわけではないかもしれない。その納まりきらないものを自由に出してよいところが、恐山のような場所じゃないですかね」

「ああ、そうかも。みんながそれぞれにそれぞれのお参りを自由にしているところが、いいんでしょうねえ」

 葬式や法事など儀礼を行うことで、ああちゃんとご供養できたと実感して満足する方もいれば、別の人が聞くとそれほど特別なことも言わないのに、イタコさんの口寄せを聞いて、たしかに故人と話ができたと喜ぶ人もいるのです。それは生きている他人との関係が様々であるのと、基本的に変わりません。そして、そのかかわり方に応じて、それぞれの故人の表情もあるのでしょう。

 今回参加された方の故国や故郷にも、様々な死者とのかかわり方があるはずです。恐山は国や宗教の違い以前の、人間と死者との根源的なかかわりを深いところから呼び覚ますのかもしれません。

 入山してくるときの好奇心に満ちた表情とは打って変わって、神妙な様子で売店でお守りを買っている参加者の横顔を見ていると、そんなふうに思ったことでした。

言えないことの言い方

2015年08月20日 | 日記
 何か「ある」なら、それがあることは証明できるでしょうが、そもそも「無い」ことは証明のしようがありません。アリバイ(不在証明)が、同時刻に別の場所に「いた」ことの証明で成り立つ所以です。

 では、「無い」ことの主張は、論理としていかにして行えばよいのでしょうか。

 一つは、「ある」ことの証明が原理的に不可能であることを示す。もう一つは、「ある」と主張すると論理的な矛盾が生ずることを指摘する。

 しかしがら、これら二つは、実際には「あるとは言えない」ことを主張できても、「無い」ことの論証にはなりません。ということは、「無い」ことの主張は、事実上、「ある」とは言えないが、「無い」とも言えない、という言い方によってなされるほかありません。これが、釈尊の教える「無記」のアイデアです。つまり、有無の判断をもろともに無効化するわけです。。

 したがって、ナーガールジュナが「空」の主張を『中論』で行うとき、帰謬法を使うのも当然です。釈尊は世界の起源や死後の存在など、形而上学的な問題への対応として「無記」を提示しましたが、ナーガールジュナは、これを我々の認識一般に拡張したのです。

 なぜそれが可能なのでしょうか。それは、人間の認識が言語によって行われるほかなく、言語はそれ自体が形而上学的に作用するからです。以前にも述べた如く、言語は「事実」そのものを表すものではありません(「火」という言葉は燃えない)。

 たとえ、「私の目の前の、このコップ」と言っても、言葉は、たった一つの具体物であるコップそのものを、決して言い表すことはできません(言葉が言い表すのは、そのものとの関係の仕方=意味です)。「私」「この」「コップ」という言葉は、別の時間に・別の場所で・別のコップにも使える以上、いかなる特定の個物も意味しないからです。すなわち、言語の「意味」は常に、超時間的、超空間的、超経験的な、要するに形而上学的な存在なのです。

 私が『中論』に注目し続けてきたのは、釈尊以来の「無常」「無我」「縁起」「空」の主張が、「なにもかも変わりゆく」とか、「あらゆるものがあらゆるものと繋がりあっている」、「大いなる生命と一体になる」などという、センチメンタルな「感想」とはまったく無縁な、「無記」のアイデアから展開された言語批判という、鋭利な論理によってなされているからです。

 と同時に、いささか胸の痛みを覚えるのは、言語批判を言語で行うほかはないという切なさが、すでにこの書物においてこれ以上ないほどリアルに表現されているからです。

 今日にいたるまで、釈尊の言葉は、私にとっての救いでした。『正法眼蔵』は課題でした。そして、『中論』は、最大の味方だったのです。

やじろべえ

2015年08月10日 | 日記
 初心者対象の坐禅指導をしたときの小話です。

 「坐禅をしたいという方がよくおっしゃることが二つあります。一つは、『いろいろ考えて疲れちゃったから、頭を真っ白にしたい』、もう一つは『何事にも動じることのない強い心を作りたい』ということです。

 最初の方は、言わばテクニカルな問題なので、『真っ白』をどういう状態と考えるかは人それぞれとして、『万事を休息』的状態に持ち込むのは、練習次第です。

 ところが後者については、『不動心』みたいな、岩のごとき盤石で、いかなる外力にさらされても平然としていられるような精神状態をイメージしているとすれば、それを『作り出す』ことは、ほとんど不可能です。

 大体、岩ならぬ人間が日々暮していて、何が起きてもまったく動揺しないなどということはありえません。そんな『不動心』を坐禅が作ることもできません。

 坐禅が作り出せる『不動心』があるとすれば、それは岩ではなく、やじろべえの『不動心』です。

 揺れはするが落ちない。振り幅は時に大きいが、襲ってくる力を何とかやりすごせれば、体勢を立て直すことはできる。このとき、人間である我々がやじろべえに習おうとすれば、大切なのは、まっすぐ安定しているときの状態をはっきり心身に記憶してるかどうかなのです。

 坐禅は、外側の物理的作用を遮断し(『静室宜しく、飲食節あり』)、内側の心的作用をギリギリまで低減させて(『心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて』)、やじろべえ的安定(実はこれが『万事を休息』する『真っ白』状態)をテクニカルに作り出し、これを心身に繰り返し記憶させることができます。

 すると結果的に、「動揺しない」心を作り出すころは無理でも、「動揺しても大丈夫」な心構えを準備する方便にはなるでしょう。つまり、やじろべえ的安定状態を知っているからこそ、動揺状態から暫時距離をとることができ、改めて対策を講ずるための余裕を作り出せるでしょう。

 ただ、言わせていただければ、概して坐禅は『人生』の役に立つようなことではありません。その『無益』さを意図的に自覚することで、世の『益』の持つ錯覚を解除しようとするのだと考えた方がよいでしょう。

 禅僧のよく使いたがる言い回しをすれば『無益の益』が坐禅の用です。」

 お粗末でした。