国際パフォーマンス・スタディーズ学会という集まりが青森市で行われ、参加した研究者の方々が100人ほど、恐山まで見学に来られました。彼らの研究テーマは、舞踏や演劇など、芸術的な身体表現が中心のようでした。青森出身の寺山修司、秋田出身の土方巽などがいる北東北なので、そのゆかりもあるのでしょう。
それにしても、若干の通訳やボランティアを除くと、全員外国人です。もちろん、中には日本語が恐ろしく上手な方もいましたが、今回の共通語は英語です。私のブロークンイングリッシュでどうにかなるようなことではないのですが、通訳の方の助けをかりながら、なんとか英語で境内を案内し、質疑応答を地蔵殿で行いました(仏教プロパーの話は、通訳の流暢な英語よりも、私のブロークンイングリッシュのほうが通じやすい場合があるのです)。
質疑応答は活発でした。ほとんどが研究者ですから、興味は多岐にわたり、時間が足りないほどでした。一つ紹介しましょう。
「イタコさんという霊媒師に降霊術を依頼しながら、お寺にメモリアルサービスも申し込むのは、どういうことでしょうか? 違いはなんですか?」
「死者との関係において、イタコさんの方法は直接的です。イタコさんは申込者と死者を口寄せという方法で直接媒介します。しかし、我々の法要はそもそも枠組みが違います。儀礼はあくまで仏様に対して行います。申込者の実際の意識は違っていても、法要本来の意味は、あくまで仏様へ奉げられる儀式です。申込者は、その儀礼の施主になった功徳を死者に振り向ける(回向する)という形で、死者と関係するのです」
この問いは、別の仕方で日本人参拝者からも受けたことがあります。
「私も不思議なんですが、うちにはお寺にお墓がちゃんとあるし、お参りもするのに、どうして恐山に来たくなるんでしょうねえ・・・」
実に感に堪えるという風情であるご婦人に訊かれました。
「お寺のお墓といえば、細かいところはともかく、なんとなく一定のマナーというか、お参りの仕方みたいなものを漠然と意識するでしょう。和尚さんにお経を読んでもらえば尚更です。しかし、亡くなった方への感情はひとそれぞれです。その思いは全部が全部、お参りのマナーの中に納まるわけではないかもしれない。その納まりきらないものを自由に出してよいところが、恐山のような場所じゃないですかね」
「ああ、そうかも。みんながそれぞれにそれぞれのお参りを自由にしているところが、いいんでしょうねえ」
葬式や法事など儀礼を行うことで、ああちゃんとご供養できたと実感して満足する方もいれば、別の人が聞くとそれほど特別なことも言わないのに、イタコさんの口寄せを聞いて、たしかに故人と話ができたと喜ぶ人もいるのです。それは生きている他人との関係が様々であるのと、基本的に変わりません。そして、そのかかわり方に応じて、それぞれの故人の表情もあるのでしょう。
今回参加された方の故国や故郷にも、様々な死者とのかかわり方があるはずです。恐山は国や宗教の違い以前の、人間と死者との根源的なかかわりを深いところから呼び覚ますのかもしれません。
入山してくるときの好奇心に満ちた表情とは打って変わって、神妙な様子で売店でお守りを買っている参加者の横顔を見ていると、そんなふうに思ったことでした。
それにしても、若干の通訳やボランティアを除くと、全員外国人です。もちろん、中には日本語が恐ろしく上手な方もいましたが、今回の共通語は英語です。私のブロークンイングリッシュでどうにかなるようなことではないのですが、通訳の方の助けをかりながら、なんとか英語で境内を案内し、質疑応答を地蔵殿で行いました(仏教プロパーの話は、通訳の流暢な英語よりも、私のブロークンイングリッシュのほうが通じやすい場合があるのです)。
質疑応答は活発でした。ほとんどが研究者ですから、興味は多岐にわたり、時間が足りないほどでした。一つ紹介しましょう。
「イタコさんという霊媒師に降霊術を依頼しながら、お寺にメモリアルサービスも申し込むのは、どういうことでしょうか? 違いはなんですか?」
「死者との関係において、イタコさんの方法は直接的です。イタコさんは申込者と死者を口寄せという方法で直接媒介します。しかし、我々の法要はそもそも枠組みが違います。儀礼はあくまで仏様に対して行います。申込者の実際の意識は違っていても、法要本来の意味は、あくまで仏様へ奉げられる儀式です。申込者は、その儀礼の施主になった功徳を死者に振り向ける(回向する)という形で、死者と関係するのです」
この問いは、別の仕方で日本人参拝者からも受けたことがあります。
「私も不思議なんですが、うちにはお寺にお墓がちゃんとあるし、お参りもするのに、どうして恐山に来たくなるんでしょうねえ・・・」
実に感に堪えるという風情であるご婦人に訊かれました。
「お寺のお墓といえば、細かいところはともかく、なんとなく一定のマナーというか、お参りの仕方みたいなものを漠然と意識するでしょう。和尚さんにお経を読んでもらえば尚更です。しかし、亡くなった方への感情はひとそれぞれです。その思いは全部が全部、お参りのマナーの中に納まるわけではないかもしれない。その納まりきらないものを自由に出してよいところが、恐山のような場所じゃないですかね」
「ああ、そうかも。みんながそれぞれにそれぞれのお参りを自由にしているところが、いいんでしょうねえ」
葬式や法事など儀礼を行うことで、ああちゃんとご供養できたと実感して満足する方もいれば、別の人が聞くとそれほど特別なことも言わないのに、イタコさんの口寄せを聞いて、たしかに故人と話ができたと喜ぶ人もいるのです。それは生きている他人との関係が様々であるのと、基本的に変わりません。そして、そのかかわり方に応じて、それぞれの故人の表情もあるのでしょう。
今回参加された方の故国や故郷にも、様々な死者とのかかわり方があるはずです。恐山は国や宗教の違い以前の、人間と死者との根源的なかかわりを深いところから呼び覚ますのかもしれません。
入山してくるときの好奇心に満ちた表情とは打って変わって、神妙な様子で売店でお守りを買っている参加者の横顔を見ていると、そんなふうに思ったことでした。