恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

本、出ました。

2006年10月31日 | インポート

 恥ずかしながら、新著「老師と少年」が、一週間ほど前に出ました。すでにお読みいただいた方、ありがとうございした。ご感想をお聞かせいただければ、幸甚です。

 こんなことを言うのも、今回はいささか勝手が違うからなのです。私はこれまで、仏教に関する数冊の著書やいくつかの論文、エッセーなどを公にしているのですが、それらはみな、明確に書こうと思ったテーマがあり、相応の考えがありました。したがって、著書の出来については、ある程度見通しがつき、面白いと言う人もいれば、何だこれはと言う人もいるだろうと、割と鷹揚に構えていたのです。もっといえば、刊行されてしまえば、後のことは気にならなかったのです。

 ところが、この本は、そういうわけにいきませんでした。まず、これを仏教書とストレートには言いがたい。書店によっては文芸書コーナーにあると教えてくれる人もいましたが、そもそも「文学」になりえているのか、皆目わからない。

 となれば、誰かに読んでもらって、その感想を聞く以外、意味ある出版だったのかさえ、見当がつきません。ある人は「歴史に残る」と褒めてくれました。ある人は「原石だね。あとどう磨くのかね」と言ってくれました。それぞれ、ありがたかったです。ただ、さらに毀誉褒貶、色々な感想を聞かせていただければ、自分自身で、これを書いた意味をもっと納得しやすいだろうと思うわけです。どうぞよろしく。

 実は、私は、数年前から、いつの日か、あと20年くらいしたら、こういうものを書きたいと、漠然と思ってはいたのです。それを、いま書いてしまうことになったのは、新潮社の金寿煥さんという豪腕の編集者のおかげです。これはこれで、縁というもので、案外、この本は今でなければ書けなかったものなのでしょう。実際、彼の激励がなかったら、途中で書き続けるのを放棄したかもしれません。ある程度考えをまとめてから書くという作業に慣れていた私には、その場その場で言葉を手探りするような今回の書き方は、本当につらいものがありました。

 ついでに、ハプニングを一つ。3日ほど前、東京から新幹線に乗りました。しばらくして、偶然、隣に座っている30歳くらいの女性が広げている週刊誌が目に入りました。するとそこには、なんと、私の大きな顔写真が載った本の広告が!私は、あわてて持っていた新聞を必要以上に大きく開き、そのまま仙台で彼女が降りるまで、ほとんど身動きもせず、息を殺していました。

 偶然とはいえ、まさか、彼女も広告の人物がいま隣に座っているとは思わなかったでしょう。あのとき、「それ、僕です」と言ったらどうなったか。どうせロクなことにはならなかったでしょうけれど、ちょっと楽しい想像です。


記憶の墓

2006年10月26日 | インポート

Photo_40  恐山の岩場、「賽の河原」を巡り歩いていると、ところどころに、ひっそりと隠れるように、しかし、よく見るとかなりの数の、写真のようなものがあります。それは石板に戒名や人の名前、それに命日などを刻んだものです。わざわざ作って持って来たのでしょうか。あるいは表札と思しきものを立てていく人もいます。

 これらは一種のお墓なのでしょう。石板を立て、石を積み、お供えをし、中にはお賽銭を置く皿まで準備しているものもあります。倒れないように石板をセメントで固定したものさえあるのです。かと思うと、拾ってきた石に直接戒名や名前を書き込んで置いて行ったと思われるものもあります。

 恐山はこういうものを許しているわけではありません。本当のことを言えば、勝手にそこらじゅうにこういうものを立てられては困るのです。実際、墓石かと見まごうばかりに大きいものを立てられたときには、断然、撤去します。しかし、草の影や、目立たない場所にひっそり置かれたものを見ると、それを立てて行った人の心情が思われて、一挙に取り除いてしまう気持ちには、なかなかなれません。

 ここに石板を立てて行った人たちには、お墓がないわけではないでしょう。お寺か霊園に、自分や家族の遺骨を収めるお墓があるか、将来は用意しようと思っているはずです。では、なぜ、恐山にこういうものを持ってくるのでしょう。

 これらの「お墓」は、「終の棲家」、死んで後の我が家と言う意味のお墓とは違うのだと思います。これは、懐かしい人の記憶を納めている「お墓」なのではないでしょうか。遠方から参拝に来られる人の中には、「ここには本当に亡くなった人が来ているような気がする」と言う人がいます。恐山には、亡くなった人を強く、時には生々しくさえ思い出させる、ある種の磁力があるのかもしれません。その気持ちを静め、またいつか思い出す頼りにするため、人々はこのような「お墓」を立てていくのではないのでしょうか。Photo_42

 つまり、これは遺骨を納めるお墓とは別の、思いを納めるお墓なのです。ある一つの「お墓」に供えられた石には、右の写真のような言葉が書かれていました。


怪談

2006年10月20日 | インポート

 夏ごろのお話です。用事があって宿坊に泊まりました。夜も11時ごろになって、さて寝ようかと、私は蒲団を敷き、洗面もすませ、蛍光灯を消して、寝床にもぐりこみました。すると、いきなり入り口の襖が、ガタッ、ガタガタッ、ガタガタガタッと、えらい勢いで揺れ出したのです。、びっくりして飛び起き、誰だっ!とばかりに襖を開け放ってみると、誰もいません。変だなと思いつつ、布団に入るとまた、ガタッ、ガタガタッが始まります。また飛び起きて開ける、誰もいない。その夜はこれを2時間くらい繰り返してしまいました。

 最後はあきらめて、ガタガタ鳴るままに寝ることにしたのですが、私はいささか嬉しかったのです。というのも、私はまことに残念ながら心霊現象とか超常現象の類に出会ったことがありません。しかもここは恐山です。ここで何もないと、我が生涯でこういうものに出会うことはほぼ絶望的でしょう。そう思っていたところに、この襖事件です。これほどハッキリした異常なのだから、何かあるだろう。私は明日スタッフにこの話をするのを楽しみに、いつのまにか寝てしまいました。

 翌朝、まだ寝ぼけマナコでぼんやりしているスタッフのところに、私は意気揚々と近づいて言いました。

「ついに出た!」 

「何がです?」 

「何だかわからないけど、何か出たんだ」 

「いったいどうしたんです」

「夜寝てたら、襖がひとりでにガタガタ動き出したんだ! 飛び起きて開けたけど、誰もいないんだ!!」

 するとスタッフは、驚くどころか、あ~あ、というような顔をして言いました。

「襖を開けたら音はしなくなって、閉めたらまた鳴ったんでしょ」

「そうだよ」

「あのー、院代さん。ここは硫黄のガスがあちこちから噴いてますね」

「そうだよ」

「するとですね、建物の中でも廊下と部屋の中では気圧が違ったりするんですね」

「気圧?!」

「そう、気圧。それがお化けの正体です」

 一件はあえなく落着してしまいました。が、後で私は考えました。これを心霊話に仕立て上げるのは簡単だな。このロケーションで、お坊さんである自分がこの話をすれば、スタッフがバラさない限り、聞いた人間は、まず心霊現象であることを疑わないだろう。

 私はこの世に常識や科学的説明が通用しない不思議な現象が数多くあることを否定しません。そのうちのいくつかは、「心霊」モデルで説明したほうが納得しやすいでしょう。それはそれで、かまわないのです。

 お坊さんとして私が言いたいことは別なのです。「心霊」の実在を信じたとして、それが当人の生き方にどう関わるのか、それこそが問題なのです。「心霊」の実在が自分の問題の何を解決するのか、よりよき行き方を導くのか。生活は明るくなり、他人との関係はより豊かに深くなるのか。肝心なのはそれでしょう。そういうこととまったく無関係なら、「心霊現象」はワイドショーの芸能ネタと変わらない話です。だから、実際、テレビで人気があるのかもしれませんね。


「中」のバランス

2006年10月12日 | インポート

 7・8・9日は、恐山の秋期祭でした。夏の大祭同様、悪天候で残念。台風と合体した低気圧のせいで、期間中は大雨と強風に見舞われ、それにもかかわらず参拝いただいた方々には本当にお気の毒なことでした。来年はなんとかよいお天気に恵まれるように祈るばかりです。

 その秋期祭直前、私は東京で哲学者の内田樹(うちだ・たつる)先生と対談する機会がありました。レヴィナスの研究などを土台に、社会的な問題にも鋭い思索を展開される先生については、いくつかの著作を通じてお名前だけ存じていまいたが、お会いするのは初めてでした。なんとなく、眉間に皺を寄せた感じの、厳しいお人柄の人物かなと思っていたら、さにあらず。元気な横丁のお父さん、みたいな方でした(先生、失礼!)。

 ずいぶん長いこと合気道を修行されているそうで、無駄の無い、実にスッキリした容姿をしておられ、肉体的にも知的にも体力がみなぎっている感じがしました。

 対談は3時間に及び、談論風発、久しぶりに爽快・愉快な気分を味わいましたが、最中、特に印象に残った先生の言葉に「バランス」があります。私が、「レヴィナスの研究者なんて聞くと、こう陰陰滅滅とした感じの人かなと思ったりしますが、先生は全然違いますね」と言うと、

「うーん。ぼくは何であれ偏るのがいやなんでね。たとえば哲学の難しい本をしばらくうんうん言いながら読んだら、今度は合気道なんかやって、体を使うんです。そう、こっちの端と向こうの端を振り子のようにゆらゆら揺れながら、バランスとってる感じかなあ」

 私は、なるほどなぁと思いました。仏教には「中道」という教えがあり、儒教には「中庸」という言葉があります。この「中」は、右と左を足して二で割った真ん中に立つ、というような静的で単調なものではないのでしょう。むしろ、先生のような実践、つまり、進むべき方向を目指してダイナミックに揺れながら、様々な問題に直面しつつ、心身の軸線を見出していくような営みなのかもしれません。

 この対談は、新潮社の『波』という雑誌に掲載される予定です。

 


草の願い

2006年10月06日 | インポート

Photo_38 「賽の河原」と称される恐山の岩場を巡ると、あちこちに写真のように草が結んであります。私より上の世代がこれを見れば、ほとんどの人が、一度は自分もやったことのあるイタズラを思い出すでしょう。私も子供の頃公園でやりました。草をアーチのように結んでおいて、誰かの足を引っ掛けようというわけです。しかし、なぜ恐山にそれがあるのでしょう。

Photo_39 私も初めて見たときは、てっきりイタズラだと思い、案内してくれた人に「どこにもつまらない悪さをする人がいるものですね」と言ったら、彼はいわく、「違いますよ。もしただのイタズラなら、こんなにいっぱいあるわけないでしょう。イタズラになりません」。たしかに無数の草のアーチがありました。

 これはイタズラではありません。それこそ「賽の河原」の話に由来しているのです。もともとの「賽の河原」のストーリーは、いろいろなバリエーションがあるものの、基本的には、次のようなものです。

 生まれて来れなかった子供や、幼くして亡くなった子供は、死後「三途の川」にある「賽の河原」に生まれ変わる。その河原で、この世でできなかった親孝行や積めなかった功徳の代わりに、石を積み上げて仏様に供養して、その功徳を両親に回向しようとする。ところが、石が積みあがって山になると、鬼が現れてその石の山を蹴散らし、崩してしまう。すると、子供らは泣く泣く、最初から積みなおす。「賽の河原の石積み」が報われない努力の喩えに使われるのは、この物語に由来する。

 ざっとこんなところなのですが、実はこの話、インドの仏教にも中国の仏教にもありません。およそ仏教の経典に出てきません。この話は室町時代くらいに出来たと思われる日本製の仏教説話なのです。

 この話が、恐山になると、こうなるのです。生まれて来れなかった子供や、幼くして亡くなった子供が一生懸命石を積む。鬼が出てきて蹴散らかす。子供たち、怖がって逃げる。鬼、面白がって追っかける。この鬼を転ばそうとして、草を結ぶ、というわけです。

 となると、誰が草を結んでいくかは、想像がつくでしょう。子供を亡くした親たちなのです。若い親には、「賽の河原」の話など何も知らない人もいるでしょう。その人たちは誰かに「子供の供養に恐山に行くなら、草を結んで来るんだよ」とだけ言われたのかもしれません。

 無数の草のアーチを見ていると、人をこうさせないではおかない何か、ただの想像力とは言いがたい、もっとリアルな、心の底からせり上げてくる力の存在を、私は感じざるを得ないのです。


師よ!

2006年10月02日 | インポート

 福井にいます。近所の子(4歳くらい)が寺に来ました。その時の会話。

「ねぇ、どうして、ナムナム(「南無」=お坊さんのこと)になったん?」

「うーん・・・・、いろいろ悩むところがあってね」

「悩むって何?」

「うーん・・・、ほら、困るとか、辛いとか、いやだなとか、あるだろ」

「だったら、寝りゃいいじゃん! 寝ちゃえば楽じゃん! 母ちゃんが言っとる」

「そうだなあ! でも、目が覚めちゃうなあ」

「また寝ればいいじゃん!」

「でも、寝てばかりもいられないだろ」

「違うよ! また寝られると思えば元気が出るだろ!!」

師よ!!!