恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

悩める人々

2011年07月30日 | インポート

 世の中には下らないことが沢山あるでしょうが、その中でも私が最も下らないと思うことの一つは、当事者でない者が、他人の悩みを比較衡量して、馬鹿げたご託宣を垂れることです。たとえば、

「何をウジウジ悩んでいるんだ!今度の大震災で被災した人の苦労を見ろ。お前の悩みなんて悩みの内に入らん!!」

みたいなことを言うことです。

 以前、ある少年が母親に「お前はなんでそんなことを悩んでいるんだ」と訊かれて、

「だって、悩んじゃうんだもん!」

と叫んだそうですが、どんな悩みでも、悩む本人には実際切実ななずなのです。

 まだ出家する前のサラリーマン時代に人から聞いた話です。

 ある漁師町出身の若者がいました。彼の父親も水産関係の仕事をしていて、港は幼いころから彼の遊び場でした。

 愛嬌があって元気な子供だった彼は、漁師さんたちにもずいぶん可愛がられたそうです。お昼時などには、漁師さんが、ありとあらゆるとれたての魚を刺身にして食べさせてくれたので、長じて後、彼はただの魚好きなどというレベルではなく、それはもはや水や空気と同じようなものになっていました。

 大学入学とともに上京した彼は、すぐに魚で苦労します。まず、刺身は「透き通っていないものは刺身ではない」と公言していたそうで、寿司や刺身は東京で一切食べず、帰省した時に一挙にストレスを発散させて食べまくっていました。

 焼き魚や煮魚は、自分で買ってきて調理していました。彼はわざわざ築地まで出向いて、素人離れした目の利きで、新鮮な魚を見抜いていたそうです。

 その彼が就職し、それなりに順調に会社員生活を続けて三、四年、大恋愛をします。互いに相思相愛、ほぼ理想に近い相手と巡り合ったというわけでしょう。

 その彼女の容貌・性格について私は聞きませんでしたが、誰もが唸ったのは、その料理の腕前だったといいます。とにかく子供のころから料理が好きで、料理学校にも何校か通い、出会ったころは、特に西洋料理はプロ顔負けだったそうです。

 ただ作るだけではなく、人にふるまうのも大好きで、彼が同僚や後輩を連れてくることを少しも嫌がらず、あり合わせの材料でも、驚くような品を出せるような人でした。ごちそうされた友人知人は全員、大絶賛。彼は「お前ほどの幸せ者はいない」と言われるのが常でした。

 ところが、ここに大問題がありました。彼女は魚がまったく、徹底して、完璧にダメだったのです。見るのも触るのも、匂いもダメ。その上、「魚的な音」(どういう音なのでしょうか?)もダメだというのです。

 ということはつまり、彼が愛してやまない秋刀魚のハラワタとか、塩じゃけの皮とか、ブリのかぶと煮の目玉とかは、彼女との食卓では、金輪際、決してお目にかかれないことになります。

 これは彼にとって「死ねと言われるのと同じ」ことですから、非常手段に出ます。会社帰りに立ち寄れる馴染みの居酒屋をつくり、そこで魚を食べるのです。ご主人に窮状を訴え、時に魚を持ち込み、自分で調理させてもらって、「生き延びるため」至福のひと時を確保したというわけです。

 そのためには、涙ぐましい努力もしました。匂いが服に付くのを避けるため、居酒屋に行く日には、着替えを用意したそうです。まるで、「不良高校生」の盛り場通いです。

 なぜ、そうまでするのか。彼は彼女に居酒屋通いを告白できなかったからです。新婚以来、彼女はそれこそ連日腕によりをかかけて、夫のために「ナニヌネノ風マミムメモ」というような、彼曰く「ややこしい名前の食い物」をいくつも用意して待っています。

 それを食べる前に、すでに居酒屋で魚をたらふく食べてきたなどと、とても言えないし、それを悟られるわけにもいかない。ほめつつ、感謝しつつ、おいしそうに食べなければならない。それは決して彼女から強制されているのではなく、彼は自ら義務と心得ているのです。いや、これは辛いでしょう。

 結婚前に彼女の魚嫌いがなぜわからなかったのかと友人が訊くと、ほとんど一目惚れで交際期間が短かった上に、見栄をはって派手なレストランばかりに連れて行ったんで、まったくわからかったと言います。

「そりゃ、和食はちょっと苦手、とか言ってましたよ。だからぼくも、デートのとき、何もわざわざ魚、魚と言うことはないと思って、洋食にしたんです。でも、あれほどまったくダメなんてわかりませんよ。ねえ、先輩、これじゃ、ぼく、おしまいには彼女と魚とどっちをとるか、みたいになってしまいます。あんまりバカバカしくて、誰にも言えません」

と、半泣きだったそうです。

 第三者からすれば、ほとんど笑い話で、いろんなアドバイスもできるでしょう。ただ、彼は毎日嬉々として自分のために料理してくれる新妻が心底愛おしいのでしょうし、言いそびれてしまった居酒屋通いもこう積み重なると、彼女を失望させてしまうことを恐れて、もはやそう簡単に言い出せないわけです。そう考えれば、彼自身にとっては、かなり深刻な事態でしょう。

 私は、こんな話を聞くたび、それが深刻か否かをとわず、どんな人のどんな悩みにも、どこか共感できるところがあるものだな、と思うのです。


恐山大卒塔婆開眼供養

2011年07月19日 | インポート

 Photo_2 さる7月3日、恐山山主が発願して建立した、東日本大震災犠牲者を追悼する卒塔婆の開眼式を執り行いました。

 遺族の方のみならず、恐山に参拝される多くの方々に、境内で追悼慰霊のお気持ちをささげていただくことを願い、山門前の参道脇に建てられたものです。

 当日は趣旨に賛同くださった本坊円通寺の檀信徒の皆さんや地域の方々、さらに一般参拝の方々にも参列焼香をいただきました。1

 5月の開山当初、ほとんど不可能だろうと思われた被災地からのお参りが、数は少ないながら連日あり、6月に入るとその数が目に見えて増え、さらに恐山の夏季例大祭(今月20日から24日)が近づくにつれ、団体での参拝もお迎えするようになりました。

 被災地では、行方不明の方々も今なお大勢おられ、寺院の被害もまた甚大で、犠牲者のお弔いや供養もままならない状況だと思います。

 したがって、お気持ちがあったとしても、恐山までのご参拝は、この一、二年、ほとんど無理だろうと、我々は考えていました。

 ところが、少なくない数の被災地からのお参りをいただき、我々もどうそのお気持ちに添うご供養をしていけばよいか、考える毎日です。

 境内で、あるいは法要の受付で、被災された方が「家が流されました」「父が亡くなりました」「職場が使い物になりません」という話を問わず語りになさいます。

 どう応対すればよいか、そのマニュアルは何もありません。それぞれの方にそれぞれの事情がおありでしょうし、お気持ちをそのものとして理解することは我々には決してできません。

 いまはただ、お話してくださることを有り難く思い、そのときの私たちの正直な思いから出る言葉のみを頼りに、お返事していくほかはないと思っています。

 


「人でなし」の宗教

2011年07月09日 | インポート

「答えのない(または、答えられない)問い」は存在しますが、「問いのない答え」は存在しません。それは「答え」の概念の定義から外れるからです。

 たとえば、「私はなぜ存在するのか」という問いは、原理的に答えられません。答えるとすれば、「問い」の水準を切り下げて、一定の視点から言語化の条件を課し、その条件に応じたアプローチ方法によって出てくる「答え」をもって、それ以上問うことを中止する以外にありません。

 ということはつまり、我々は自らの存在をそれ自体として肯定する根拠も条件も欠いている、ということになります。

 私は、「宗教」と呼ばれるものの根底には、このような人間の存在の無根拠性に対する苛烈な認識があると思います。もっと言えば、「人間」の在り方をそのまま肯定するような宗教は、宗教の詐称に過ぎず、「処世術」と呼ぶべきだと思います。その根源において、「ヒューマニズム」は処世術にはありえても、宗教にはありえません。

 旧約聖書の神の人間に対する振る舞いは、ほとんどサディスティックなほどであり、自らに対する徹底的、全面的、無条件的服従を強いながら、いつまでも飽くことなく人間を「試し」続けます。

 新約聖書のイエスも、あっさり磔刑になってしまいます。一度磔にならないかぎり、「神の子」にはなれない仕掛けです。 

 他方、仏教は、そもそもが「解脱」させようとする教えなのですから、ハナから「人間」のままではだめなのです。

 つまり、宗教がまず第一に教示しているのは、存在が存在の条件として抱え込んでいる「存在の否定」性です。この否定性から逆照射して存在の「存在の仕方」を問うことこそ、およそ宗教が人間に課す使命だろうと、私は思います。


妄想終末論

2011年07月01日 | インポート

 世の中に大きな災難があったり、そうでなくても、なんとなく閉塞感が高まってくると、いろいろなバージョンの人類「終末論」や「滅亡論」がどこからともなく出てくるものです。

 聖書の「黙示録」やノストラダムスの「予言」などは、この種のものの「古典」でしょうが、人の思いつきは色々です。

 私も中学生の頃、ひとつ思いついたことがあります。

 当時の理科の教師が、授業中に大昔の生き物の話をしていたついでに、こんなことを言いました。

「生物のある種が進化し、繁栄した果てに、滅亡する。その滅亡の前には、様々な奇形的形態のものが増えてくる。巻貝であるアンモナイトの巻きが崩れて妙な形態になったり、マンモスの牙が異常に巨大になったり、曲がりがおかしくなったり。恐竜だって、考えてみれば、あれほどの巨大化は、生物としておかしいよな」

 およそ、こんなことだったと思います。彼の説の当否はともかくとして、そのとき、私が瞬間的に思いついたのは、もしそうなら、ひょっとすると、人類自体がこれまで地球上に現れてきた生物における滅亡前の「奇形」なのではないか、ということでした。

 私が何を「奇形」だと感じたかというと、それは「言葉」の存在、そして「自意識」でした。そんなものをこれほどあからさまにもっている生物は、人類だけでしょう。なぜ、こんなものがあるのか、どうして必要なのか、いくら考えてもわかりませでした。

 そのうえ、当時、米ソ(旧ソビエト連邦)の持っている核兵器の総量は地球を数回破壊できるほどのものだ、などと新聞かなにかで読み、実は地球自体に意識があって、最終的に地球が「自殺」するために人類を進化させたのではないか、と思ったりしました。

 まったくばかげた妄想ですが、こういう妄想は決して消えてなくなることはありません。なぜなら、妄想はある欲望に基づいているのであり、その欲望が解消しない以上、無くなるわけがないのです。

 では、その欲望とは何か。それは他人と一緒に死ぬ欲望です。おそらく、「死を共にする」ことが、我々の最も深い苦しみ、「孤独であること」の究極的な解決になる、と錯覚するから、それを欲望するのでしょう。

「死を共にする」が錯覚であることは言うまでもなく、したがって、世に出回る「終末論」もすべて、冗談以上でも以下でもない代物、ということです。確かに人類にも地球にも終末は来るでしょう。しかし、その「論」が娯楽ではなく、大真面目で人に語られるなら、それは単に馬鹿げている以上に有害です。

 仏教がつまらぬ「終末論」を持たないことは、当たり前ながら、まことに慶賀すべきことだと思います(いわゆる「末法」思想は、人類や地球、宇宙の「滅亡」や「終末」とは何の関係もありません)。

追記:次回「仏教・私流」は、7・8月は休み、9月15日(水)午後6時半より、東京・赤坂の豊川稲荷別院にて、行います。