最近よく世間で聞く言葉に「共生」と「多様性」があります。この言葉にどのような意味を読み取るかは、人それぞれかもしれせんが、私はこれはそう簡単に扱える文句ではないと思います。
我々の社会の問題として「共生」と言うなら、その最も直接的な意味は、自己と自己ではない誰か、つまり他者との「共生」でしょう。だとすると、「多様性」とは、その他者が人種、民族、言語、文化的・宗教的背景などで様々に異なることを言うのだと思います。だとすれば、話の要点は、「多様な他者との共生」ということになり、これは簡単なことではなく、その実現には、すでに言われているように「寛容さ」、もっとはっきり言えば忍耐が必要だと思います。
なぜなら、そもそも、「他者」とは根源的に「わからない」存在だからです。このわからなさは、死のごとき「絶対的わからなさ」とは、すこし性格が違います。他者のわからなさは、原理的な理解不可能性ではなく、わかるところもあればわからないところもある、そのわかるところが突然わからなくなったり、わからなかったところが急にわかるようになったりする、わかる/わからないの区別自体がわからないという、そういう意味での根源的、あるいは絶対的なわからなさなのです。
そのような「他者のわからなさ」のもっとも端的な事態は「裏切り」です。言い換えれば、「他者」が「他者」である所以の一つは、それが「裏切る(ことがある)」実存だということです。
そして、「他者」の他者性を決めるもう一つの致命的な在り方は、それが「自己を課す」あるいは「自己の根拠となる」実存だと言うことです。
すると、「自己」とは、「裏切る(かもしれない)実存に課される、あるいはそれを根拠とする」実存だということになります。つまり、「共生」は、そもそもするかしないかという選択の問題ではなく、初めから忍耐を要する「自己」の存在条件であり、それが「多様」になれば、ますます「手間がかかる」「面倒な」事態になるのは当然です。
「裏切る(かもしれない)他者」を存在条件として生きることは、すでに大きな負荷が「自己」にかかることを意味します。それはすなわち、自分の思いどおりにならない他者と、工夫しながら付き合っていくしか、我々に生きる道がないことを意味するからです。
そう考えたとき、私が思い当たるのは、ある種の人々の「ペット」に対する態度です。
ペットに対して、度外れとしか思えない「愛情」を注ぐ人々がいますが、この「愛情」は、いわば「他者」の消去を欲望しているのではないかと、私は思います。
以前、小型の室内犬にドレスのような「洋服」を着せ、頭の数個の「リボン」を付けている「飼い主」と話をしたことがありますが、そのとき私が「そんなにかわいいもんですか?」と訊くと、相手は即座に
「そりゃそうですよ。この子は私を裏切りませんから!」
この言葉を、「裏切らないから愛する」と解釈すれば、その裏側には「自分の言うことを聞くから愛する」という意思があるでしょう。それはすなわち、相手を支配したいという欲望の存在を意味します。
支配とは「他者」の他者性の剥奪であり、「他者」が他者であることの否定です。「愛情」の最深部には、そのような欲望が潜在すると、私は思います。するとペットへの「愛情」は、「他者」の負荷を代償し相殺する行為とも言えるでしょう。
もし「他者」の他者性の肯定、すなわち「裏切る(かもしれない)他者を自己の根拠として認める」態度があるとすれば、それは「愛」ではなく「敬意」です。人は尊敬する人物を自分の「思いどおり」にしたいとは思わないでしょう。むしろ、「自分があのような人になれたら」と思うはずです。
その「敬意」の最たるものを、たとえ法然上人に騙されてもかまわないと言い切った、親鸞聖人の態度に、私は見るのです。
我々の社会の問題として「共生」と言うなら、その最も直接的な意味は、自己と自己ではない誰か、つまり他者との「共生」でしょう。だとすると、「多様性」とは、その他者が人種、民族、言語、文化的・宗教的背景などで様々に異なることを言うのだと思います。だとすれば、話の要点は、「多様な他者との共生」ということになり、これは簡単なことではなく、その実現には、すでに言われているように「寛容さ」、もっとはっきり言えば忍耐が必要だと思います。
なぜなら、そもそも、「他者」とは根源的に「わからない」存在だからです。このわからなさは、死のごとき「絶対的わからなさ」とは、すこし性格が違います。他者のわからなさは、原理的な理解不可能性ではなく、わかるところもあればわからないところもある、そのわかるところが突然わからなくなったり、わからなかったところが急にわかるようになったりする、わかる/わからないの区別自体がわからないという、そういう意味での根源的、あるいは絶対的なわからなさなのです。
そのような「他者のわからなさ」のもっとも端的な事態は「裏切り」です。言い換えれば、「他者」が「他者」である所以の一つは、それが「裏切る(ことがある)」実存だということです。
そして、「他者」の他者性を決めるもう一つの致命的な在り方は、それが「自己を課す」あるいは「自己の根拠となる」実存だと言うことです。
すると、「自己」とは、「裏切る(かもしれない)実存に課される、あるいはそれを根拠とする」実存だということになります。つまり、「共生」は、そもそもするかしないかという選択の問題ではなく、初めから忍耐を要する「自己」の存在条件であり、それが「多様」になれば、ますます「手間がかかる」「面倒な」事態になるのは当然です。
「裏切る(かもしれない)他者」を存在条件として生きることは、すでに大きな負荷が「自己」にかかることを意味します。それはすなわち、自分の思いどおりにならない他者と、工夫しながら付き合っていくしか、我々に生きる道がないことを意味するからです。
そう考えたとき、私が思い当たるのは、ある種の人々の「ペット」に対する態度です。
ペットに対して、度外れとしか思えない「愛情」を注ぐ人々がいますが、この「愛情」は、いわば「他者」の消去を欲望しているのではないかと、私は思います。
以前、小型の室内犬にドレスのような「洋服」を着せ、頭の数個の「リボン」を付けている「飼い主」と話をしたことがありますが、そのとき私が「そんなにかわいいもんですか?」と訊くと、相手は即座に
「そりゃそうですよ。この子は私を裏切りませんから!」
この言葉を、「裏切らないから愛する」と解釈すれば、その裏側には「自分の言うことを聞くから愛する」という意思があるでしょう。それはすなわち、相手を支配したいという欲望の存在を意味します。
支配とは「他者」の他者性の剥奪であり、「他者」が他者であることの否定です。「愛情」の最深部には、そのような欲望が潜在すると、私は思います。するとペットへの「愛情」は、「他者」の負荷を代償し相殺する行為とも言えるでしょう。
もし「他者」の他者性の肯定、すなわち「裏切る(かもしれない)他者を自己の根拠として認める」態度があるとすれば、それは「愛」ではなく「敬意」です。人は尊敬する人物を自分の「思いどおり」にしたいとは思わないでしょう。むしろ、「自分があのような人になれたら」と思うはずです。
その「敬意」の最たるものを、たとえ法然上人に騙されてもかまわないと言い切った、親鸞聖人の態度に、私は見るのです。