恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「死」幻想

2017年11月30日 | 日記
 いずれ死ぬはずの未来、まだ死んでいない現在、既に死んだ過去。「自己」という時間は死から流れる。

 「神」と「真理」は死の影である。

 死についての語りは、その内容ではなく、語る欲望と語り方に意味がある。

 死の「恐怖」は、「それがわかるはずなのにわからない」と錯覚することから生じる。

 ある種の人間は、死の「不安」を眺めているうちに、それに慣れる。

 死は観念。生はイメージ。その裂け目のリアル。

 古今東西、大抵の人間がしているのは死の話ではない。死ぬまでの心配と死んでからの成り行きである。誰も死の話はしていない。

 死と、死者と、遺体と、死体と、その違いを区別してから、話を始めるほうがよい。

 死と言葉と意識。親のいない三つ子。

「死ぬ準備」を本気でしようという人は、死が準備可能だと考える時点で、自分が「死ぬ」とは思っていない。

「死」の終わり、それが死である。

Mさんへ

2017年11月20日 | 日記
 お父上を突然に亡くされたとのこと、お悲しみはさぞ深いと思います。偶々、私が最近にお会いした方は二人とも、長い介護の後、父上や母上を失った直後でした。しかもお二方とも「一人っ子」です。看取りは大変だったでしょうし、喪失感も大きいでしょう。

 おなた同様、あのお二人も、「死んでしまったとは思えない。まだ自分の近くにいる気がする」とおっしゃっていましたが、実にそのとおりでしょう。ある人物が亡くなって、その身体が目の前から消えても、関係性は消えません。生きていようが死んでいようが、「親」は「親」です。

 あなたの父上はまだ「死者」として立ち上がっていません。「死者」が立ち上がり、その「死者」と新しい関係を結ぶことこそが「弔い」の意味です。だから、「弔い」は長く続く。時間がかかって当たり前です。

 ですから、悲しみを無理に止めようとしてはいけません。「あのとき、こうしておけばよかった、もっとできることがあったはずだ」という思いも、そのままにしておいてよいのです。

 感情の流れは、無理やり堰き止めれば溢れてしまいます。そして、水路を設けて流さないと、これまた方向を失って収拾がつかなくなるかもしれません。

 この場合の「水路」とは、あなたの日常です。どれほど感情が動揺していても、生活のパターンを決して変えないことです。日課と仕事のペースを守り、いわば首から上と首から下を切り離すのです。そして、日常の仕事が終わり、一人の時間が出来たときには、思うままに泣き、後悔があるなら、後悔すればよいと思います。

 お腹は空きますか? 眠れますか? いささか残酷なことを言うようですが、どれほど悲しくても切なくても、食べられて眠れれば、大丈夫です。たとえ眠れなくても食べられれば、それで大丈夫です。しかし、食欲が無くなり眠れなくなったら、これは、心療内科等、しかるべき医療機関に相談した方がよいかもしれません。

 いずれにしろ、この「弔い」には時間と手間と根気がいるものです。すぐに「立ち直る」必要はまったくありません。「クヨクヨ」しながら、時に涙ぐみながら、それなりの時間を過ごすべきです。あんまり早く立ち直ったら、故人もがっかりするかも。

 いつか、必ず、「もしお母さんなら、こういうとき何て言うだろう。お父さんなら、どうするだろう」と思う時が来ます。これは「死者」からの呼びかけです。「死者」が立ち上がり、「死者」との新しい関係が紡がれ始めたのです。

 この「弔い」の過程で、自分の悲しみを話せる相手がいるなら、それはとても貴重です。言葉が感情に輪郭を与え、少しずつ取り扱いやすくしていくからです。そういう人が身近にいるなら、大切にしなければいけません。

 故人を思い出す以上の供養はありません。お墓参りもその一つですし、恐山に来て下さるのもよいかもしれません。しかし何よりも、自分の感情を決して否定せず、変に手を加えず、そのままに抱いて日々を生きる。今はそれをなすべき時なのだと、私は思います。

閉山しました

2017年11月10日 | 日記
      

 10月31日、今年も恐山は無事閉山日を迎えることができました。掲載の写真は、恐山の御用達でもある写真店「みなみや」さんの工藤氏から提供していただいた、閉山直前の宇曽利山湖の秋景色です。プロの写真はやはり違いますね。

 ここ3年くらい、開山している半年間、毎月恐山に来られる方がいます。しかも、常に4、5日の連泊。年のころは40歳前後か。従業員にはひそかに「Oちゃん」と呼ばれ(従業員は60代以上がほとんど)、泊まる部屋も決まっています。現在、恐山唯一の「常連さん」。

 5日も何をしているのか? わかりません。部屋にいることが多いのか、ほとんど見かけません。気がつくと、何度も温泉に入ったり出たり、境内をぶらぶらし、時々自分の車で出かけ、夕方帰ってくることもあるようです(ただ、朝のお勤めには必ず参加)。

 毎日、同じ朝食と夕食を食べ続けています(昼食は出ない)。市内のコンビニに買い出しに行くこともあるらしい。毎月5日もいるんだから、特別に日替わりのメニューにしてあげたらという意見もあったのですが、なんとなく、「ほっといた方がいいんでないの」、というところに落ち着いてしまいました。

 関東の人ですが(恐山まで自家用車で来る!)、それ以外は職業もふくめ正体不明です。本人も話さないし、我々も訊かない。

 しかし、今年、吐血して死にかけたそうです。倒れて気絶しているところを、たまたま訪ねてきた父上に発見され、一命をとりとめたと言います。父上いわく、「恐山に行ってる功徳だな」

 驚いたのは、かなり長い入院の直後(退院翌々日らしい)に、また恐山にやってきたことです。吐血の話はそのとき客室係が聞いたのです。

 というわけで、我々の間では、彼は独身で(そうでなければ、「毎月恐山」は許されまい)、IT系企業の経営者で(吐血するほど激しい競争の最前線にいる)、想像を絶するストレスにさらされている心身を恐山で癒している(それ以外の「5日滞在」は考えられない)、ということになっています。

 一度、境内で和尚さんとすれ違った時に、

「皆さんは、僕が気楽なぼんぼんで、遊んで暮らしていると思ってるんでしょうが、本当に、本当に大変なんですよ」

 と、しみじみ言っていたそうです。とんでもない。我々は真逆なことを思っています。

 またある日、客室係に、

「僕は毎月恐山に来る日を決めて、それを楽しみに頑張るんです」

 と話していたそうです。

 そういう方にも恐山に来ていただけるわけで、有り難く思う次第です。