恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「終わり」は始まったのか?

2012年10月30日 | インポート

 少子・高齢化がこのまま進行する場合、日本仏教における「檀家制度」が遠からず崩壊するか、少なくともいちじるしく脆弱になるのは確実で、したがって、これを基盤とするいわゆる「伝統教団」が消滅同然となるか、大きく組織構造を組み替えない限り存在意義を失うであろうことは、最早明らかです(ひと言おことわりしますが、私は「檀家制度が無くなった方がよい」と考えているわけではありません)。

 この事実は、「伝統教団」にとっては一大事ですが、仏教にとっては特に問題ではありません。その存亡などは、仏教2500年の歴史からみれば、些細なエピソードです。

 しかし、以下の報告は、仏教はおろか宗教も超え、「人間」の存在そのものを根源から問い直し、見方によっては決定的な「危機」に陥れると思います。

 昨年、南カルフォルニア大学のセオドア・バーガー教授が、脳における記憶を司る部位である海馬を模倣したICチップを製作することに成功し、それを用いてラットの記憶をコピーし再現することに成功したと報道されました。

 この時点で、それがヒトに応用できるか、記憶のみならず、思考や感情のコピーまでできるようになるのかなどは不明でした。それ以来、成り行きに注目していたのですが、続く記事はまだ目にしていません。ですが、そんなことはもう問題ではありません。開発された技術が示す可能性自体がすでに、我々にとって深刻な問いなのです。

 この技術は、おわかりのとおり、記憶を恣意的に共同化したり、増加・削除したりできることを示唆しています。

 ということは、ときとして仏教が説く「自他不二」とか「一切即一 一即一切」などは、たちどころに実現するということです(すると、一般に「アイデンティティー」という概念はどうなるのか?)。

 しかも記憶を簡単に操作できるということは、「自業自得」とか「因果の道理」の教えが「個人」単位で機能しなくなるということでしょう(すると、一般に権利や責任の概念はどうなるのか?)。

 ましてや、「教えを説く」ということなどは、かつてオウムの麻原言っていたように「データをインプット」することとまったく同然となるでしょう。修行のような実践にしても、結果として生じる脳内現象をデジタル化して入力したら、実際に行ったかどうかはほぼ無意味になるはずです(すると、一般に能力評価と資格付与の制度はどうなるのか?)。

 すぐに思いつくことをわずかに並べても、これが「仏教」に留まる話ではないことは一目瞭然です。ことは「人間であること」への根源的問いなのです。

 ここまでは見やすい道理でしょう。しかし、我々にとっての深刻な問いは、さらに別であり、これは将来の可能性ではなく、現下の問題です。すでに技術は存在し、今も発展しつつあり、その行き着く先も予見できるのです。

 ならば現下の問題とは、「この技術を開発し、人間に応用し、社会として許容してよいのか」ということです。 これを言い換えれば、我々がこれまで前提にしていた「人間であること」「社会」「倫理」「宗教」などを保持し続けるのか、そしてこの技術が開くであろう無限大の可能性を拒否するのかどうか、という問題です。

 正直に言いますと、私はいま判断しかねています。仏教が「人間であること」に価値をおいていないのは明らかです。しかし、技術はさらにあらゆる「価値」そのものの存在意義さえ問うものです(「価値」さえ一時の「思い込み」に過ぎないなら、「価値」など必要のない存在状態を製作すればよい。あるいは消去不能の「共有思考・行動コード」=「神」をインプットすればよい)。

 デジタル技術の究極の進歩の果てに、「人間」もその「苦」も消滅したとして、それは「ニルヴァーナ」と言えるのか、言ってよいのか。「仏教」や「宗教」は解決され、「人間」は解消し、「存在」への問いは終わるのか。

 私がいま自らに問う最大の問題はこれであり、おそらく最後になる問題だと思います。

 もう10年以上も前、ある少年が言いました。

「ねえ和尚さん、宗教って善い心や平和な心になろうっていうんでしょう。だったらやもうじき宗教は要らなくなるよ。科学が進んで、脳を手術して、みんなが善い心を持てるようになるよ」

「そうか。なら、それは善い心が要らなくなるときだね」

追記:次回の「仏教・私流」は11月29日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川別院にて行います。


人間/非人間

2012年10月20日 | インポート

 ある出版社の企画で、今年引退を表明された陸上のハードル競技選手、為末大氏と対談しました。以下は、そのときの私の発言の一部です(要旨)。

 昨今のスポーツ界には、いわゆるドーピング問題というのがありますが、これは結局のところ、何が問題なのでしょうか。どうして禁止されなければならないのでしょう。

 一つは、健康上有害だ、という懸念だと思います。ですが、これは有害でない薬物が発明されれば解決する問題で、いずれ可能になるでしょう。

 二つ目は、ズルい、フェアではない、ということです。しかし、これまた、フェアにすればすむ話です。つまり、薬物使用や人体改造何でもありの、たとえば、「水泳・男子100メートル・薬物使用自由形」とか、「柔道・女子・機械化率30パーセント級」など、条件をそろえた「フェア」な種目をつくればよいのです。

 そもそも、スポーツ競技は、「速い」とか「強い」とかいうことそれ自体に、意味を見出すものです。だからこそ、100メートルを9秒58で走ろうと9秒60で走ろうと、現実的にはまったくどうでもよい差異(だって、たった0.02秒!)に、決定的な価値(「金メダル」)を与えるわけです。

 もし、この「速さ」「強さ」自体に対する純粋な欲望を突き詰めようとするなら、薬物や人体改造を拒否する理由はありません(この局面において、薬物使用と人体改造には、本質的な違いがありません)。

 しかしながら、ここには動かし難い前提があります。それは「人間である」ということです。つまり、単に「速い」「強い」ではなく、「人間はどれだけ速く走ることができるのか」「人間はどれだけ強くなれるのか」ということが、「スポーツ」という営為のテーマであると、いま一度思い起こさねばなりません。

 ドーピング問題は、まさにこの「人間であること」の危機に直結します。先の例でいうなら、薬物使用の自由化は、機械化率何パーセントまでを「人間」の競技と認めるかが問われるような事態にまで、まっすぐ地続きだということです。

 ここに見られるような「人間/間」という区別の曖昧さ、すなわち「人間であること」の脆弱性は、かつても今も、我々の根源的な問いとして露出しています。

 かつての戦争では、日本の細菌戦部隊が実験材料としていた人たちを「マルタ(丸太)」と呼んでいたといいます。また、ヒトラーはユダヤ人の虐殺を「バクテリア」の駆除と考えていたようです。そう呼び、そう扱えるのは、端的に「間」と見ていたからでしょう。

 現在も、人工妊娠中絶がどの時点まで可能で、脳死の判定がどの時点で行われるかを問うことは、死なせても罪にならない範囲(=「間」の存在領域)を定めることと同じであり、それはすなわち、「人間である範囲」を恣意的に決定しようとしているのです。

 かくのごとく、「人間であること」は事実ではなくアイデアであり、アイデアである以上は、暫定的な条件における合意に依拠するしかないわけです。

 この意味で、ドーピング禁止が守ろうとしているものもまた、それ自体としては根拠を持たない、それが何なのか本当にはよくわからない、「人間」という存在の仕方なのです。 (以上)

追記:この対談は書籍として、来年出版されるそうです。


坐禅・私流

2012年10月10日 | インポート

 最近よく「あなたはどんなふうに坐禅しているんですか?」と訊かれます。坐禅や瞑想が、宗教的行法や一時的なスピリチュアルブームをこえ、もっとカジュアルな心身健康法のようなものに捉えられるようになってきたのかもしれません。

 そのことの是非はともかくとして、以前に本に書いたことではありますが、ここでもう一度、私が現在採用している坐禅法を紹介してみます。

 坐禅する場合の具体的な足の組み方・手の組み方・姿勢づくり、こういったことは、まず第一に、道元禅師の『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵』「坐禅儀」に従うのがベストです(ただ、組んだ手を左足の上に置くとありますが、必ずしもそれにこだわらず、下腹に手を引きつけ加減にしながら、ごく自然に肘が伸びて静止する位置にしておけばよいと思う)。これには解説本もたくさんでていますから、本ブログでは割愛します。

 私が強調しておきたいのは、それらの書物の中で道元禅師が言及する「正身端坐」ということの意味です。

 私はこの語を、身体状態に関しては、以下のように理解しています。

 ①上半身を真っ直ぐにする。左右に傾かない、前かがみにならない。後ろに反らない。

 ②徹底的に力を抜く。筋肉の緊張を解く。できるかぎり楽に坐る。

 ③呼吸をとにかく深く、可能な限り微弱な状態に安定させる(腹式呼吸)。

 このとき、最終目的は③であって、そのために①と②が必要なのです。

 ①について重要なのは、「真っ直ぐ坐る」と言われたからといって、胸を張り腰を入れて、弓なりに反りかえるような姿勢になってはダメだ、ということです。坐禅の経験や学習が足りない者が指導すると、すぐに胸を張れ、腰を入れろ、頭で天井を突くような気持ちで坐れなどと言いますが、これは坐禅の仕方として、拙劣極まりないものです。

 私が大切だと思うポイントは、まず、両耳が両肩の真上にくるようにして、顎を軽く引く。次に肩をやや内に入れ加減にする。そして、腰を入れるのではなく、伸ばすような具合にする。

 これらのポイントは、とにかく筋肉に余計な力を残さないためです。究極の理想を言えば、筋肉の支えを借りずに、骨格のバランスだけで「正身端坐」の姿勢を作ることでしょう。

 頭の位置がさだまり、顎が引かれると、喉や首周りの緊張が抜け、胸を張らず肩を入れると、胸の筋肉全体が緩みます。

 また、力を加えて腰を入れたりすると、全身にその力が波及して、無駄な疲労が蓄積されます。かといって、腰が抜けた状態になると、前かがみになります。前かがみになるとよくないのは、気道が圧迫されるのと、頭が前に落ちて首から背中にかけての筋肉が緊張し、身体的に疲れやすくなること。それとどういうわけか、余計な想念が出てきやすくなることです。

 これを避けるには、腰を軽く伸ばすように最小限の力をかけることを心がけるとよいと思います(若干の猫背は許容範囲です)。

 そして、肩・肘・手首・膝・足首から、関節を緩めるような気持ちで、意識的に力を抜き取ります。

 今申し上げたすべては、深く静かな呼吸状態を作り出し、維持するための技法です。とにかく気道を圧迫し、呼吸に負担がかかるようなことは絶対に避けねばなりません。

 次に「正身端坐」の精神状態(「非思量」)については、次のように導いていきます。

 まず第一段階では、上記の身体状態を作り出し、これを安定させることに意識を集中します。特に余分な力がどこかに残っていないか点検し、姿勢のブレを正すことが必要です。ただし、呼吸は、これを意識的に静めようとすると、かえって荒れることが多く、むしろ身体状態の安定に集中していけば、それにつれて自然に呼吸も落ち着いてくることがわかるでしょう。

 身体状態の安定がある程度得られたら、第二段階として、意識の方向を変え、まず最初に聴覚に向けます。

 どうするかと言うと、あらゆる音を無差別に、吸い取るように「拾う」のです。何の音かは一切判断しない。言わば、「聞く」のではなく「聞こえている」だけの状態に持ち込むわけです。そうすると、最初のうちは、自分のまわりにはこんなにも音が満ちているのかと驚くでしょう。

 これが深くなると、普段なら絶対に聞こえない程度の音が聞こえます。たとえば、線香の灰が落ちる音など(玄侑宗久師も言っていました。禅僧には多い経験だと思います。)。このレベルの「聞こえている」を換言すれば、「聞くことを聞いている」ような状態と言えるでしょう。

 この状態は、感覚の作用として受動態です。聴覚は視覚などと比較して極めて受動的ですが、この性質を全開にするわけです。

 したがって、こうなった時には、眼は見開いていて、すべてが見えてはいますが、もう何も見ていません。特定の「見る対象」はありません。

 これがある程度できたら、第三段階として、聴覚で起きている受動的な感覚状態を、身体全部に拡大します。聴覚から意識を身体に振り替え、さらに身体内部にまで引き込んで、結果として、身体全体を内側から感じる、あるいは感じられるようにするのです。

 皮膚の表面(というよりも身体内外の境界)にも何かが感じられるでしょうし、内臓も動いています。そうした感覚を、これまた、それが何であるかを判断することなく、ただ徹底的に感受するわけです。つまり、私の行う坐禅は、「精神集中」ではなく「感覚開放」なのです。

 この行為は「観察」ではありません。「観察」は「観察結果」を言語化できる行為で、そこには自意識が働いています。私が言っているのは、この類の「観察」やビッパサーナ瞑想が言う「ラべリング」のような、能動的な意識作用ではなく、「ただ感受する」とでも言う、ギリギリ受動的な意識状態です。

 この状態がある程度持続すると、身体がまるごと感覚の束、あるいは塊のように感じられてきます。あらゆる感覚が入り混じりながら点滅しているような印象です。問題は次で、この「感覚の束」を呼吸に預けるというか、乗せる、同調させるのです。

 そうは言っても、これは意志的にすることは困難で、実際には乗る・同調するのを待つのです。もし乗ると、この感覚の束には、呼吸のつくるリズムが発生します。すると、感覚の束は、一定のリズムを持つ「波動」になります。

 この「波動」状態が生まれると、私の場合かなりの確率で、突然「ガクッ」というか「ドン」という感じで、ある衝撃とともに、いきなり体の重心が底抜けするように落ちます。と同時に、仕切りが切れるがごとく、感覚が膨張して「外」に溢れだし、身体内外の区別が消失してしまいます(これは無我夢中的恍惚状態ではありません。きわめて明瞭な、冴えきった感覚体験です)。

 ここでは最早「私である」ことの意味は解体され、自意識は融解してしまいます。この状態は人によっては強烈な快感になるので、これに執着して中毒になる危険もあります(いわゆる「禅病」「魔境」)。

 この「融解」状態は、必ずしも「波動」状態の最後に発生するとは限らず、もっと手前の段階で起きることもあります。この方法で繰り返して実践していると、早く現れやすくなりますが、そのことに意味はありません。

 あと、「感覚の束」が呼吸になかなか乗らないとき、人為的に乗せる方法があります(成功する確率は低い。「人為」の能動性が、それまで維持されていた受動状態を破るから)。それは、すでに腹式呼吸をしている下腹を意識的にゆっくり膨らませて息を吸い、次に下腹を徐々に絞るようにして息を吐く、これを数回繰り返すことです。この呼吸を最初は大きめに、次第に小さくしていく。すると、乗らなかった「束」が乗ってくることがあります。

 私がここにご紹介した方法を使って坐禅をする目的は、一つだけです。以前にも書きましたが、人間の自意識は、特定の身体技法で解体することができると、体験的に実証することです。それはすなわち、我々の自意識は、一定条件における行為様式から構成され仮設されている、暫定的な事態だと認識することなのです。

 くどいことを承知で繰り返しますが、「波動」状態や「融解」現象は、「悟り」でも「見性」でもありません。ましてや「本来の自己」ではさらさらありません。そう語ることは語り手の自由ですが、私はナンセンスだと思います。

 ちなみに、「波動」「融解」のような意識の変性状態では、時として特異な感覚が体験できる場合がありますが(意識が体を抜けるような感じ、あるいは下腹に熱源が生まれて何かが上昇してくる感じ)、これも「悟り」と同じで、どう意味づけ、どう語り出すのかは人の勝手ですが、それ自体に意味はありません。ただ、そうなるというだけのことです。

 以上、とりあえずご参考まで。