少子・高齢化がこのまま進行する場合、日本仏教における「檀家制度」が遠からず崩壊するか、少なくともいちじるしく脆弱になるのは確実で、したがって、これを基盤とするいわゆる「伝統教団」が消滅同然となるか、大きく組織構造を組み替えない限り存在意義を失うであろうことは、最早明らかです(ひと言おことわりしますが、私は「檀家制度が無くなった方がよい」と考えているわけではありません)。
この事実は、「伝統教団」にとっては一大事ですが、仏教にとっては特に問題ではありません。その存亡などは、仏教2500年の歴史からみれば、些細なエピソードです。
しかし、以下の報告は、仏教はおろか宗教も超え、「人間」の存在そのものを根源から問い直し、見方によっては決定的な「危機」に陥れると思います。
昨年、南カルフォルニア大学のセオドア・バーガー教授が、脳における記憶を司る部位である海馬を模倣したICチップを製作することに成功し、それを用いてラットの記憶をコピーし再現することに成功したと報道されました。
この時点で、それがヒトに応用できるか、記憶のみならず、思考や感情のコピーまでできるようになるのかなどは不明でした。それ以来、成り行きに注目していたのですが、続く記事はまだ目にしていません。ですが、そんなことはもう問題ではありません。開発された技術が示す可能性自体がすでに、我々にとって深刻な問いなのです。
この技術は、おわかりのとおり、記憶を恣意的に共同化したり、増加・削除したりできることを示唆しています。
ということは、ときとして仏教が説く「自他不二」とか「一切即一 一即一切」などは、たちどころに実現するということです(すると、一般に「アイデンティティー」という概念はどうなるのか?)。
しかも記憶を簡単に操作できるということは、「自業自得」とか「因果の道理」の教えが「個人」単位で機能しなくなるということでしょう(すると、一般に権利や責任の概念はどうなるのか?)。
ましてや、「教えを説く」ということなどは、かつてオウムの麻原言っていたように「データをインプット」することとまったく同然となるでしょう。修行のような実践にしても、結果として生じる脳内現象をデジタル化して入力したら、実際に行ったかどうかはほぼ無意味になるはずです(すると、一般に能力評価と資格付与の制度はどうなるのか?)。
すぐに思いつくことをわずかに並べても、これが「仏教」に留まる話ではないことは一目瞭然です。ことは「人間であること」への根源的問いなのです。
ここまでは見やすい道理でしょう。しかし、我々にとっての深刻な問いは、さらに別であり、これは将来の可能性ではなく、現下の問題です。すでに技術は存在し、今も発展しつつあり、その行き着く先も予見できるのです。
ならば現下の問題とは、「この技術を開発し、人間に応用し、社会として許容してよいのか」ということです。 これを言い換えれば、我々がこれまで前提にしていた「人間であること」「社会」「倫理」「宗教」などを保持し続けるのか、そしてこの技術が開くであろう無限大の可能性を拒否するのかどうか、という問題です。
正直に言いますと、私はいま判断しかねています。仏教が「人間であること」に価値をおいていないのは明らかです。しかし、技術はさらにあらゆる「価値」そのものの存在意義さえ問うものです(「価値」さえ一時の「思い込み」に過ぎないなら、「価値」など必要のない存在状態を製作すればよい。あるいは消去不能の「共有思考・行動コード」=「神」をインプットすればよい)。
デジタル技術の究極の進歩の果てに、「人間」もその「苦」も消滅したとして、それは「ニルヴァーナ」と言えるのか、言ってよいのか。「仏教」や「宗教」は解決され、「人間」は解消し、「存在」への問いは終わるのか。
私がいま自らに問う最大の問題はこれであり、おそらく最後になる問題だと思います。
もう10年以上も前、ある少年が言いました。
「ねえ和尚さん、宗教って善い心や平和な心になろうっていうんでしょう。だったらやもうじき宗教は要らなくなるよ。科学が進んで、脳を手術して、みんなが善い心を持てるようになるよ」
「そうか。なら、それは善い心が要らなくなるときだね」
追記:次回の「仏教・私流」は11月29日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川別院にて行います。