高村薫という高名な小説家をご存知の方も多いでしょう。これまで主にミステリーの分野で大作傑作を数多く世に送り出してきた人です。先日、私はついに氏と対談することになりました。
わざわざ「ついに」と言うには、個人的に理由があります。
高村氏は最近15年ほど、読む側にすれば三部作と見ることのできる、『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』の大著を執筆・発表してきました。
実は、私はミステリーを読む習慣がないので、これまで氏の作品に触れたことがなかったのですが、『新リア王』が新聞連載され始めた頃から、困惑するような事情が出来するようになりました。
まず、永平寺で同期だった友人が、当時まだ永平寺にいた私に、新聞連載の切り抜きを大量に送ってよこして、この作品の主人公はお前がモデルだろう、高村氏と知り合いで、ここに出てくる永平寺の修行の様子はお前がネタ元だろうと言うのです。この作品は、主人公が曹洞宗の僧侶で、永平寺の修行や『正法眼蔵』の解釈などが、重要な役割を果たしていたのです。
私は高村氏と知り合いどころか、そのときまで作品を一行も読んでいませんでした。ただ、以前、『ファンシーダンス』という漫画本が出たときにも、私は登場人物にそっくりだと言われ、情報漏えいの「疑惑」を持たれたことがありました。
今度も浅はかな誤解だろうと思っていたのですが、読んでみると、驚くべき詳しさと的確さで本山の描写がなされ、なおかつ修行僧の私がいかにも言いそうなセリフが、主人公の言葉になって随所に出てきます。
なかでも決定的だと、私も思わざるを得なかったのは、主人公のあだ名が、よりによって「黒衣のダースベーダー」だということでした。私自身はその頃はっきり知らなかったのですが、若い修行僧たちは、私のことをひそかに「ダースベーダー」とか「ジェラシックパーク」と呼んでいたのです。 この小説が次第に話題に上りだすと、私は偉い老僧から呼び出されて、
「この小説の主人公は君か? みんなダースベーダーは南さんのあだ名だと言ってるぞ」
と、追求されたりしました。
三部作最後の『太陽を曳く馬』が出ると、「疑惑」は決定的になりました。この主人公は永平寺を去ると東京に出て、東京六本木にある大寺院の住職の支援を得て「サンガ」を開きます。そして、そこに集まった修行僧たちに「仏教とは問いだ」というような講釈を行うのです。
ここまでくると、どう見ても、私の知人、特に永平寺時代の私を知っている僧侶の誰かから取材をしているとしか思えません。
ことここに及んで、影響はさらに拡大しました。僧侶でもない人物が、あれだけの規模で仏教や『正法眼蔵』を論じているのに、なぜ曹洞宗の僧侶は黙っているのか、特に、どう見てもモデルにしか見えないお前は、何も言うことがないのか!・・・・・と、曹洞宗外の一般の方からも、きつく言われるようになったのです。なかにはレッキとした評論家もいて、メディアも数件、対談を打診してきました。
そこで、新潮社の『考える人』という雑誌が、4月に2度目の仏教特集をするので、対談をしてみないかと誘ってきたのに、今回意を決して乗ったわけです。
初対面の高村氏は、とても控えめな、しかし底の知れない奥深さを感じさせる、小柄な女性でした。
対談冒頭、私は、何を話すにしてもこれが先だと言う調子で、氏に訊きました。
「最初から失礼ですが、高村さんと対談することを知った友人知人から、是非これだけはハッキリさせてこいと言われてきたので、あえて伺いますが、主人公のモデルは私ですか? いくらなんでも、ダースベーダーという私のあだ名が使われるのは・・・・」
と言ったら、氏は突然、唖然呆然という表情のまま、両手を顔で覆っていいました。
「いえ、・・・何とも・・・どう言えばよいか、私、曹洞宗のお坊様に会うのは、今日、南さんが初めてです」
なんと! まるまる全部、想像だと言うのです!!
あなたのことは、著書を読んで知ってはいた。しかし、本山の様子にしても『眼蔵』解釈にしても、関係の本を読んで自分で考えたもの以外は何もない。モデルを作ると、当事者に迷惑をかけるかもしれないので、実在の人物をモデルにしたことはこれまで一度もない。
僧侶を主人公にしたときも、曹洞宗は偶然で、これまた誰にも迷惑をかけないように、実在の寺といっても、住職のいない寺を小説の舞台にしようと思って捜したら、それがたまたま青森県の曹洞宗の寺だったというだけ。
「ダースベーダー」は、永平寺に参拝したとき、修行僧が墨染めの衣の長い袖を翻して歩く姿を見て、似てるなあとふいに思いついた。我々の世代は「スターウォーズ」の印象が強烈だし、なかでもダースベーダーのインパクトは大きいから。
本当に恐れ入ってしまいました。驚くべきは一流作家の想像力のすごさです。氏は、過去にも、小説のモデルだと周囲も本人も信じた人物から抗議を受けたことがあるのだそうで、ご本人も、
「この度も、知らぬこととは言いながら、ご迷惑をおかけしました」
と言いつつ、やはり非常に驚いていました。
対談の載った雑誌は4月ごろ発売されます。おそるべき知的蓄積を背景にする高村氏の言葉にはすさまじい強度があり、私自身はとても触発され勉強になりました。興味のおありの方には、ご一読願いたく存じます。
それにしても、思い込みはいけません。そうなる理由はあったとしても、思い込みは恥ずかしいです。自戒、自戒。
追記:次回「仏教・私流」番外編は、2月21日(月)午後6時半より、東京赤坂の豊川稲荷別院にて、行います。