恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「夢も希望も」無くて大丈夫

2013年01月30日 | インポート

「あなたは、『夢や希望それに個性なんて要らない』と、あちこちで言っているそうですね」

「その言い方には語弊があります。私は『夢や希望や個性などは、無くてもかまわない』と言っているだけです」

「どうしてそう天邪鬼なことを言うんですか。性格悪いですね」

「もともと性格がよいとは思いませんし、天邪鬼と言われればなかなか反論もできませんが、私の場合、世間で疑いもなく正しくよいことのように大声で宣揚されるアイデアは、どうも信用できないのです」

「どうして?」

「圧倒的多数が是として主張するアイデアは、むしろ主張させられているというか、主張するように仕向けられているように思うのです」

「誰がそうさせているというのです?」

「特定の人間ではありません。いわば社会システムです。『夢や希望』、『個性』などの場合なら、市場経済のシステムです。私には、『夢や希望』、『個性』の主張が、市場経済が生み出し、市場経済を支持する、一種のイデオロギーのように思えるのです」

「どういうことですか?」

「つまりですね、市場経済のシステムが経済活動の領域を超えて、人間関係や個々の人間の在り方まで侵食し規定している結果、こういう主張が声高になされるのではないかと考えているわけです」

「具体的に言うと?」

「市場経済とは、要は取り引きのシステムです。その取り引きの意味は、交易や貿易のように、需要と供給に基づく交換のことでしょう。つまり、こちらに無いものがあちらに有るという差異を前提とする行為です」

「ああ、言いたいことがわかりました。市場を機能させる根源たる『差異』が人間関係に反映されると、それが『個性』と呼ばれるというわけですね」

「そうです。いまやその反映はさらに露骨です。『個性』が取り引き対象として商品化されると、普通『人材』と呼ばれます」

「なるほど。しかし、それは市場経済の社会では当然で、否定すべきではないでしょう」

「私は何も否定したいわけではありません。『人材』はまだ経済活動の範囲内に収まる概念です。しかし、最近『個性』にかわって世で言われる『キャラ』という言葉は、市場化がより強く感じられるのです」

「市場化とは?」

「つまりですね、たとえば、若い女性が、『私、お笑いキャラだから』みたいなことを言ったりしますね。そしてそれが『私のウリ』だと言う」

「そうか。『売れる個性』か」

「それは、もはや経済市場の話ではありません。これは友人関係の場での話でしょう。敢えて言えば、『友人市場』の話なのです。友人関係が市場に覆われ、意識が底から規定されているのです」

「では、夢と希望はどうだと言うのですか?」

「このアイデアが反映しているのは、投資です。投資は未来と現在の差異で利益を生み出す行為です。交易が空間的差異に基づくものだとすれば、時間的差異を商品化しているのです。未来の利益のため、現在に資本を投下する」

「ということは、『夢や希望に向かってガンバレ』というのと、同じ行動パターン」

「同じではありません。投資が原型なのです。ですから、『個性』に対して『人材』という言葉があるように、『夢や希望』には、『キャリアアップ』という言い方がある。より露骨になると『自分への投資』などと言う」

「あなたはやっぱり、市場経済を否定したいのでしょう?」

「仮に否定したくたって、もうできませんよ。我々は市場経済を前提に、生き方や考え方を決めていく以外に、当面の道はありません。このとき、問題は、市場経済とどう向き合うか、なのです。」

「それは、経済活動を超えて人間全体を覆いつつあるように見える市場を、意識的に牽制・相対化すべきだ、というような意味ですか?」

「簡単に言えばそうです。交易だろうが投資だろうが、すべての取り引きは、今ここに無いものに向かって我々を駆り立て続けます。したがって、我々の現在は萎え、阻喪し、市場化された人間は慢性的に『疲労』という実存の仕方をするでしょう」

「いまや、『夢や希望』、『個性』というアイデアは、そういう在り方を肯定し強化する」

「少なくとも、これらのアイデアに乗って頑張ってくれる人は、市場にとって好都合でしょう。しかし、我々にとっては、必ずしも好都合とばかりは言えない」

「だから、あなたは・・・・」

「そう。『夢や希望や個性なんて無くたってかまわない』と言うのです。そんなもの無くたって、人は堂々と、元気に生きられます。今から百年・二百年前の人々が、『夢や希望』『個性』を叫んで生きていたと思いますか?」

「うーん・・・」

「でも、一生懸命、堂々と生きていたと思いますよ。今だって、街に繰り出している『オバちゃん』グループは楽しそうですよ。彼女たちは『夢や希望』のために生きているのでしょうか。そこらへんを駆け回っている幼児や、公園で日向ぼっこしている老夫婦に、『個性』もヘッタクレもないでしょう」

「そういう言い方で、あなたは市場の圧力を緩和しようというわけですね」

「そんな力はありませんよ。ただ、『夢や希望や個性なんて無くたってかまわない』というアイデアが、誰かの切ない気持ちを少しは和ませることができないかと願っているのです。人は取り引きするために生まれて来るわけではありません。生まれて来れば取り引きすることもある、それだけのはずなのです」


夕焼けと「夕焼け」

2013年01月20日 | インポート

 たとえば、私が夕焼けを見て「きれいだ」と思ったとします。その後、一切何も言わなければ、そもそも何を見ていたのか、そして見てどう思ったのか、誰にもまったくわかりません。

 とすれば、それは他人にとっては、私が何も見なかったことと同じです。と、同時に、誰からも自分の判断に同意を得られないわけですから、私自身は見たのが確かに「美しい夕焼け」なのかただの幻想なのか、区別する根拠がなくなるでしょう。

 その一方で、あの日あの時あの場所で私が見たあの夕焼けは、誰とも共有できない経験ですから、それについて語られた言葉が、その一回性の経験を完全に捉えることは原理的にあり得ません(言葉はいつでもどこでも同じ意味で使えなければならない以上、一回性のものを一回性のものとして十全に表現することはできない)。

 とうことは、夕焼けが美しいという事実は、言葉に出さなければ「事実」として成り立たず、しかも成り立った「事実」は常に事実そのものではない、ということになります。

 すると、事実ではないことを、どういう手続きで「事実」として承認するかが、問題になります。どのような条件下で、どういうスタイルで語ったことが、「夕焼けが美しい」こととして合意されるのかが問題なのです。そして我々には、そう合意された「事実」以外に、「夕焼けが美しい」ことはないのです。

 だとすると・・・・

 たとえば、私が修行をして「悟った」とします。その後、一切何も言わなければ、そもそも何をしていたのか、そしてどう悟ったのか、誰にもまったくわかりません。

 とすれば、それは、他人にとっては私が何も悟らなかったことと同じです。と、同時に、誰からも自分の判断に同意を得られないわけですから、私自身は悟ったのが確かに「悟り」なのかただの幻想なのか、区別する根拠がなくなるでしょう。

 その一方で、あの日あの時あの場所で私が悟ったことは、誰とも共有できない経験ですから、それについて語られた言葉が、その一回性の経験を完全に捉えることは原理的にあり得ません(言葉はいつでもどこでも同じ意味で使えなければならない以上、一回性のものを一回性のものとして十全に表現することはできない)。

 とうことは、悟ったという事実は、言葉に出さなければ「事実」として成り立たず、しかも成り立った「事実」は常に事実そのものではない、ということになります。

 すると、事実ではないことを、どういう手続きで「事実」として承認するかが、問題になります。どのような条件下で、どういうスタイルで語ったことが、「悟った」こととして合意されるのかが問題なのです。そして我々には、そう合意された「事実」以外に、「悟った」ことはないのです。

 結論。

 言葉と言葉で意味されたものとの間、この間を見つめ続けることに、仏教の思想と実践が持つ根本的な課題があるのです。

 


「無常」の思考法

2013年01月10日 | インポート

 遅ればせにて恐縮ながら、明けましておめでとうございます。

 大晦日からお正月にかけて、深夜テレビをつけると、毎年どこかで映画をやっています。私の場合、傑作と言われたり評判の高かった作品は、こういう時に偶然見て、あらためて感心することが多いのです。

 今年も、除夜の鐘をつき終って、何気なくテレビを見たら、実に古色蒼然たる映画をやっていました。それが高倉健主演の「唐獅子牡丹」(1966年公開)だったのです。

 例よって非常に有名な作品でしょうが、見るのは初めて。これはすごい。勧善懲悪のステレオタイプ・ストーリーが驚くべき様式美で表現されていました。

 実際にはありえないような登場人物の振る舞いや態度を、極度に様式化して美的濃度を高め、見ている側に非常に強烈な印象を与えるもので、能や歌舞伎に直結する表現方法だと思いました。高倉健と池部良が雪の舞う中殴りこみに向かうシーンなど、まるで歌舞伎の花道です。おそらくこの独特の表現は、日本の子供向け特撮戦隊シリーズにまで通じているでしょう。

 もうひとつ、映画には面白いシーンが出てきました。石材採掘を生業とする「ヤクザ」集団の悪玉組親分と善玉組番頭役が、石の採掘利権をめぐって対立したときの会話です。

悪玉親分「石工あがりのどこが悪ぃんだい! わしゃあなぁ、12の歳から岩にへばりついて生きてきた。そりゃ、ずいぶんと辛い思いもした。すきっ腹で牛のようにこき使われて、何べん血を流したかわかりゃしねぇ。そのたんびに思っただよ。おれも今に親方になってやるとな。そいつがいけねえと言うのかい!」

善玉番頭「おめえさんは自分がやっていることが間違っているとは思わねぇのかい? おめぇさんには自分以外の人間は目に入ぇんねいのかい?!」

悪玉親分「強いものが弱いものに勝つのは当たり前だ。口惜しかったらやり返せばいいんだ!」

 この会話は、見ようによれば、昨今の経済事情で言うなら、「新自由主義」と「共同体主義」の対立です。映画公開の1966年と言えば、戦後の高度成長の真っ只中で、新自由主義的主張は、すでに頭角を現してきてはいたものの、まだ悪役の領分で、番頭が代表するムラ社会の倫理が、社会一般でリアルに機能していたということでしょう。

 歳月は流れ、今や悪玉親分の言い分は、どうみても単純に「悪」と決め付けられません。だいたい、社会・経済的に必ずしも恵まれない境遇であるにもかかわらず、特に若い世代に、親分と同じ考えを支持する人たちが大勢いるのです。

 私は何もここで、世の中の善悪は簡単に変わる、ああ無常だなあ・・・、などという間延びした話をしたいのではありません。

 私に言わせれば、仏教の「無常」とは、この種の漠然とした感傷とは無縁です。それはむしろ、論理の問題、考え方の問題なのです。

 私は常々、宗教的教義や哲学の観念などは、ただ概念の理解ですませず、なるべく具体的な事柄に即して承知するように心がけています。

 「無常」とか「無我」という教えにしてもそうで、たとえば何かものを考えとき、私は次のような思考方法を採用することで、教えの実践としています。

 まず、何が問題なのかハッキリ言語化する。誰にとって、どういう類いの問題なのかを考える。知的好奇心の対象か、あるいは解決しないと誰かに不利益やダメージが生じる問題なのか、など。

 次に、その問題に対して何らかのアイデアを出す。それが出たらすぐ、それとはまるで違う理屈を考える。どちらも「正解」とはしない。なぜなら、「正解」かどうかは、時と場合によるから。

 続いて、最後に「正解」が成立する「時と場合」を集中的に考える。そもそも問題はどのような「時と場合」において生じているのか。その「時と場合」はどのくらい持続するのか、または今後どう変化する可能性があるのか。「正解」は「問題」と同じ「時と場合」にありえるのか、など。

 その後、大した根拠も無く思考を打ち切り、「正解」を決める。それに大した根拠が無いことと、にもかかわらず決定した責任(そこに至るまでの思考プロセスをできるだけ記憶しておく努力も責任のうち)を、重々わきまえておく。

 以上から、私の言う「正解」は、説得と納得の言語空間に、賞味期限付きでしか成立せず、およそ「絶対的真理」の一方的宣布とは無縁です(「真理」と「非真理」を分けるのは、結局、思い入れと好みによる言説です)。

 私にとっては、仏教そのものも同じことです。世の中には、仏教をまるで知らなくても、元気で明るく生きている人が大勢います。実に結構なことです。彼らには仏教が提示する問題はなく、だから説得も納得も必要なく、したがって「正解」も考える余地がありません。

 もし、彼らの「時と場合」が変わったとき、ひょっとしたら仏教のアイデアが有効になるかもしれません。ただし、有効になるのは、それが「真理」だからではありません。所詮「時と場合」によるのです。

 ということは、「新自由主義」を主張しているまさにそのとき、「共同体主義」を掲げるまさにその刹那、アイデアの限界を自覚しているまさにそのことが、私に言わせれば「無常」の理解だというわけです。

 皆様の本年のご健勝を祈念申し上げます。