恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

恐山の石

2023年09月01日 | 日記
 年に2、3回程度のことですが、恐山には時として妙な封筒が送られてきます。その中には石が一つ入っていて、

「申し訳ありません。そちらの石を持ち帰ってしまいました。お返しします」

というような、短い手紙と、決まって千円が同封されています。

 これはどういうことかというと、石の送り主は、いわゆる「祟り」を心配しているのです。

 現在の恐山は誰も言いませんが、おそらく昔は言っていただろうと想像されるのは、

「恐山の石とか花とか、そういうものをこっそり持ち帰ると、かならず良くないことが起るよ」

 みたいなセリフです。

 こういうセリフは、要は、現在の景勝地によくある「勝手にものを持ち帰らないでください」という看板と同じで、神社仏閣でも境内の景観保存などの必要上、ものの持ち出しを防ぐ方便で、長い間「脅し文句」として使われてきたのでしょう。

 この「脅し文句」を、いま恐山のお坊さんが言うことはありませんが、仄聞するに、団体旅行の添乗員さんや、バスガイドさん、タクシードライバーなどの方々が、お連れになる「お客様」に「忠告」として言っているようなのです。

 問題はここからです。そういう「迷信」は一切気にしない人の中には、「記念」に恐山の石を持ち帰る者もいるわけです。

 実際持ち帰っても、特に問題は起こらないでしょう。

 ただし、どんな人でも、どんな家でも、生きていれば、そのうち必ず何かよろしくない事が起きます。それがたまたま、恐山に行った後に立て続けに起こったりすると、当事者は

「なぜだろう?」

となるわけです。そして、すぐ思い当たる「合理的」理由が見つからないと、「迷信」を一切気にしない人でも、

「ひょっとして、あの石」、「そういえば、あの石」、「きっと、あの石」


と、連想が展開して、「申し訳ありません」+千円 になるわけです。

 人間には、動物と共通する、強烈な本能的欲求があります。即ち、睡眠欲・食欲・性欲です。ところが、人間には、これら共通の本能的欲求に匹敵するか、それらを凌駕する、人間しか持たない、圧倒的な欲望があります。即ち、「理由に対する欲望」です。

 思うに、「理由に対する欲望」の圧倒的な強度は、ある根源的な不安に由来します。その不安とは、「自分がなぜ生まれてきたのかわからない」という不安、自己の存在理由が見い出せない不安です。

 この存在理由が不明で、自己の底が抜けている不安は、あらゆる工夫にもかかわらず、埋めることはできません。その根源的不安が「理由への欲望」を恒常的に強烈に刺激し続けるのだと思います。

「迷信」が世に消えることなく、「カルト」がはびこり、「霊感商法」が未だに通用し続けるのは、「理由への欲望」と「根源的不安」が、いかにしても解消されない、人間の「宿業」だからでしょう。

 ちなみに、恐山のものを勝手に持ち出す行為は、それ自体が「良くないこと」ですから、決してしないように、ご協力ください。