恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

垂直の孤独

2019年09月30日 | 日記
 単に一人でいることだけでは、孤独とは言えないでしょう。わかってほしいという思いがあっても、それを伝えられる相手がいないとき、わかってくれる人がいないと感じるときに、はじめて孤独になるのです。

 ですから、わかってくれる(わかってくれると思われる)相手が現れるなら、この孤独はほぼ解消するのでしょう。私に言わせれば、これは「横の孤独」です。

 これに対して、世の中には「縦の孤独」があります。それは、もはや他人に伝えたくても伝えようのない、隔絶した孤独です。死を前にした人間の孤独こそ、まさにそれ、「縦の孤独」でしょう。

 死が何であるか、原理的にわからない以上、それを「伝える」ことも原理的にできません。「死」を前に「自己」と呼ばれる実存は完全な単独者となるのであり、その孤独は誰にも共有できません。

 この「縦の孤独」に耐えられないなら、「わからない死」をわかる物語に仕立て直して「横の孤独」に変え、物語を共有することで孤独を解消するしかありません。東西の宗教的言説が果たしていた役割は、まさにこの物語の制作でしょう。

 しかし、「ニルヴァーナ」を標榜する仏教は、「わからない死」を「わかる物語」にしません。わからないままそれを受容することを、仏教は求めているのです。とすれば、我々は「縦の孤独」を自ら切開し、それまでの自己の実存の仕方を変更することで、その求めに応じなければならないでしょう。「修行」とはそのプロセスなのです。

思うんですが。

2019年09月20日 | 日記
 時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。

 先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。

 彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。

 その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。

「あなた、今のクリニックで苦情は?」

「ありません」

「院長から何か怒られた?」

「全然」

「じゃ、なぜ辞めなくちゃいけないの?」

「なんというか、自信が・・・」

「自分のテクニックに自信が無いの?」

「あまり器用じゃないし・・・。皆が僕を見ているようで・・・」

「あなたねえ、腕さえ良ければ、誰が見ていようと構わないでしょ。それに1年無事でやってるなら、基礎的なテクニックはあるんでしょう」

「かもしれません」

「だったらねえ、要は経験と勉強と練習でしょう。あなた自分の能力と時間のすべてを勉強と練習に注ぎ込んだことがあるの?」

「そのつもりだったんですが・・・」

「違うよ。本当にそうしてみてダメだと言うなら、もう自分で見切りをつけて、とっくに辞めてるよ。あなたね、今後3年すべてをつぎ込んで勉強し、寝る間も惜しんで練習しなさいよ。辞めるのは、それからだよ」

「あなた、父上のお仕事は?」

「歯医者なんです」

「なんだ、後継ぎか」

「違います。父は継ぐのに反対でした。この地方でこの業界は今後厳しいと。でも、僕は自分の意志で、この道を選んだんです」

「だったら、お父さんの医院を滑り止めにしなよ。最後にオヤジにお前の腕ではダメだと引導を渡してもらってから、見切りをつけて辞めればいい。実際、君は恵まれている。それまでは、自分が不器用だと言うなら、四の五の言わず、人の10倍努力して腕を鍛えなよ。そういう寿司職人知ってるよ。親方から見込みがないと言われながら、必死の努力で一人前になった人」

「あと・・・・、学会に行くと前の医院の院長や同僚と会うんですが、どうすれば・・・」

「あのねえ、そんなの挨拶して終わり! あなた、勉強に行ってるんで、付き合いに行ってるんじゃないでしょ。あとは無関係。もうどうでもいいの。学会で出世でもしたいの、あんたは?」

「いいえ・・」

「じゃ、彼らが今の君と何の関係があるの!」

 これは彼に限りません。4、5年前、私は、修行道場6年目の古参和尚で、当時29歳の修行僧から、相談があるんですがと言われたとき、その和尚曰く、

「ぼく、下の者(後輩の修行僧)が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」

 びっくり仰天!私が6年目と言えば、まさにダースベイダー時代。「下の者」なんぞ眼中に在りませんでした。

 どうしてこうも彼らはデリケートなのか。
 
 一つ思いつくのは、彼らは失敗を極端なまでに恐れているのではないか。ある集団や共同体の中で、自分が不協和音を出すことを、極端に気にしているのではないか。それは結局、その集団や共同体自体が、社会経済構造の変動と競争環境の激化にさらされて、余裕を失い、メンバー以上に組織自体が失敗を恐れているからではないか。

 だとすると、これは問題です。なぜなら、これからの社会は、前人未到の荒野を行くようなもので、これまでの手法は通用しません。次の世代のトライ・アンド・エラー、試行錯誤によって道を拓いてもらうしかないのです。

 それをこんなに委縮させてはいけない。私は、気の持ちようでどうにでもなる簡単な話に見えながら、何か深刻な問題に逢着した気がしました。

三つの難題

2019年09月10日 | 日記
 今後の社会における決定的な問題は、環境問題、AIとバイオテクノロジーの劇的進展から生じるでしょう。この件に関しては、過去の記事でも何度か触れましたが、ここでもう一度整理して起きたいと思います。なお今回は、環境問題には触れず、AIとバイオテクノロジーの発達から想像される我々の「実存」の問題に絞ります。

1.AI・バイオテクノロジーと「労働」
 私がここで問題とするのは、AIの進化が「人間の労働を奪う、人間が無用化する」、という「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ないということです。
 自分が何者であるかを、「職業」を拠りどころに意識していた実存は、次は何を拠りどころに「自己」を規定するのか。その規定のツールを誰がどう与えるのか。
 同じような事態は、バイオテクノロジーの発展による、寿命の極端な延長によってももたらされるでしょう。
 AIであれ人間であれ、この「拠りどころ」ツールを与える者が、次の時代の支配者となるはずです。

2.AI・バイオテクノロジーと「意識」の変容
 意識と脳の生理的過程の相互関係(または平行関係)を量子レベルにまで解析できれば、意識を電子チップにコピーするか、あるいは意識相互をダイレクトに接続したり、インターネットに接続して無限大に拡張することも可能でしょう。
 さらにバイオテクノロジーが肉体を改造するか機械と融合させ、拡張した意識を受容し得る身体を提供するなら、「自意識」はどのような変容を被るのでしょうか。それは「自意識」と呼びうるものなのでしょうか。

3.AI・バイオテクノロジーと「死」の消去
 2の状況は、意識の機械的身体へのコピーや、肉体の改造(脳移植)や製造(培養された肉体への意識の移植)を通じて、「死」を消去することに通じます。もし「死」が失われれば、「生」は意味と価値を失い(誰も死なないなら、「しなければならない」ことは無くなり、それはつまり「意味」も「価値」も無くなるということ)、実存の様式としての「自己」「人間」は無化する(「自意識には一つの身体」という従来の実存原則が失われる)ことでしょう。

 このとき、1は宗教に過大な負荷をかけることになるかもしれません。もし労働にかわるアイデンティティーの根拠を宗教に要求するなら、宗教は巨大な権力を手にすることになり、過酷なイデオロギー闘争の当事者になりかねません。
 
 2と3は、宗教、特に普遍宗教の存在意義を壊滅させるでしょう。最後にかろうじて残存するとすれば、人間が自然に組み込まれていた時代のアニミズムが、デジタルアニミズムやAIアニミズムに変貌して、生き延びた微弱な意識に「神」を提供するかもしれません。その「神」はもちろん、AIが生み出す巨大クラウドでしょう。

 では、この3つの問題に、仏教はどういうスタンスをとることができるでしょうか。いま私が漠然と考えているのは、以下のようなことです。

 一つは、「死の消去」は仏教の教えが肯定するものではないだろうということです。「ニルヴァーナ」を目指す仏教は、「死の受容」こそがテーマなのであり、そこに逆説的に「受容する自己」の存在意義がかかっています。
 
 他方、「自己」という実存様式(自意識をもつ実存)は、仏教にとって最終的な意味も価値も持ちません。そもそも仏教はヒューマニズムではないのです。
 ただし、仏教の狙いは、「自意識」を無化、あるいは無意味化することではありません(特定の意識状態・「境地」への到達を目的とするものではない)。そうではなくて、ニルヴァーナ(死の受容)に方向づけられた実存として、それ相応の自意識に改造することです。これが上述した逆説的な「自己」の存在意義なのです。

 いまだ十分な結論に至りませんが、これからも折に触れ、この問題を考えたいと思います。