恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「即」にご用心

2013年09月30日 | インポート

 仏教用語で時々持ち出される言葉に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というのがあります。仏教に多少興味のある人で、はじめてこの語を見たり聞いたりすれば、我々の心の迷いや欲望と仏の悟りがイコールだとか、人間の生き死にの現実が、そのまま仏教の究極の境地とされる涅槃と同じだとする理屈は、何のことだかわからないでしょう。

 これらは普通、次のような解説をされます。大乗仏教の「空」の教えによれば、すべての存在にはそのものとしての実体はない(無我)のだから、それは煩悩も菩提も同じくことで、共に空で無我という意味で等しい。つまり、両方とも「空の現れ」として同じである、というわけです。

 もう一つの理屈には、煩悩が有ればこそ、悟りも有るし、悟りがあるから煩悩も煩悩として自覚できる。お互い不即不離の関係だ、というようなパターンのものもあります。

 この二つのアイデアは、根本的なところで「空」の考え方を誤解しています。初めの理屈は、異なる二つの現象の無条件的同一性の根拠として「空」を設定し、その現れとして「煩悩」「菩提」を考える時点で、本質/現象の二元的観念論と同然です。つまり、「空」がそれ自体概念化された結果、形而上学的な「実体」の意味で、解釈の文脈に取り込まれてしまうのです。

 言葉の意味は文脈が規定します。文脈において同じ機能のものは、意味的に同一です。だとすれば、上述の意味で解された「空」は、結果的にプラトンの「イデア」やウパニシャッド哲学の「ブラフマン」と同じ振る舞いを文脈の中でするでしょう。それはつまり、「空」が「イデア」や「ブラフマン」になる、ということです。

 二番目の理屈も同じことです。これは「煩悩」概念も「菩提」概念もまともに検討せず、二つの概念を適当に組み合わせてパズル遊びをしているようなもので、理論的にも実践的にも、ほとんど役に立ちません。

 「即」の字解釈の要点は、このような「空」の概念化や、無批判な概念使用の拒否にあります。

 「煩悩即菩提」と言ったとき、それが「空」によって根拠づけられるのは、「煩悩」にも「菩提」にも実体や本質がない以上、ある方法にによって、つまり修行によって、「煩悩」は「菩提」に転換しうると考えるからです。すなわち、「煩悩即菩提」は修行によって転換を成し遂げた者だけが、結果的に言える言葉なのです。修行前や修行未熟の人間が己れの煩悩の言い訳に利用する話ではありません。

 このとき重要なのは、「空」はそれ自体に内容を持つ言葉ではない、ということです。「空」を「真理」だとか「真如」だとかいう概念と結び付けて、そこに意味や内容を与えてはいけません。なぜなら、「空」は言われるような意味や内容の無根拠性しか指示しないからです。

 けだし、「空」は言語批判の様式でしか言及できません。あえて言語化するなら、「〇〇は??である」という通常の言表は、そう言おうとしている事態を、常に捉えそこない、誤解させる・・・・そういう意味としてしか「空」には言及できないのです。

 ということは、修行者としては、「煩悩」や「菩提」と称されている存在様態が、まずどのように現象するのか、そしてそれは、いかなる条件でどのように成立するのかを、言語化の手前の視点(たとえば坐禅における「非思量」)を確保して認識し、条件の変更によって実際に「煩悩」を「菩提」に転換させてみて、初めてこれが「煩悩即菩提」の意味だと言えるでしょう。私はそう思います。


悪態です2

2013年09月20日 | インポート

 どうやら誰も真正面から言ってないような気がするので(すでにどこかに記事があったらゴメンナサイ)、オレが言うぞ。

 3.11大震災後、被災地の復興は一向に進まず、原発事故は先々の始末を見通せるどころか、汚染水をたれ流しながら、オリンピックなんぞと浮かれている場合か!!

 一番おかしな話は、「復興五輪」というお題目だ。東京でやる運動会の大はしゃぎが、被災地の復興の何の役に立つんだ! よもや東京に引っ張り込んでくるためだけの歌い文句じゃあるまいな?

 そう言う以上は、まさか7年後、被災地に仮設住宅は無いだろうな? 被災者も落ち着いた暮らしの中で運動会見物できるんだろうな? 汚染水の完全処理は当然として、土地の除染も終わり、廃炉に向かって着々と計画は実施されているんだろうな?

 1000兆円の借金を抱え、40兆円程度の収入なのに100兆円近い金を毎年使いつつ、子供は減る大人は老いるのこの国に、運動会へつぎ込む金と人材と時間があるなら、どうしてそれを震災と原発事故の大課題に一挙に投入しないのだ!!(原発現場の作業員の待遇と安全は本当に大丈夫なのか?)

 復興にも原発の始末にもようやく目処がつきました、ついては世界の皆様にご心配をいただいたお詫びとお礼方々、多少無理をしてでも東北の地にお客様をお招きして、一緒に運動会で盛り上がりましょう・・・・・・というのが、まともな筋の話だろう! いま東京の出る幕か!!

 枕詞のごとく飛び出した「スポーツの力」とやらは、要するに「スポーツ」の話だ。たかだか一過性の集団ヒステリーのごとき興奮(最近はそれほどでもないか)が、「国難」というべき状況が続くこの国のどこに、どのように役に立つというのだ? いったいぜんたい、どこから出てくる自信なんだ?

 選手が被災地の子供と遊んでいるのは結構な図だが、まさかその程度のことで「力」と言うのではあるまいな。その上「被災地に貢献」などと言おうものなら、仮設住宅のお年寄りが泣くぞ。

 前の都知事の戯言のころは気にもとめなかったが、3.11以後は話が違う。オレは、東京にオリンピックが来ると決まった今でも、反対だ! 反対だ!!

 時すでに遅しの悪態です。すみません。

 


自由のための不自由

2013年09月10日 | インポート

 最近、写経がちょっとしたブームになっています。もともと、紙や筆記道具がまともになかった時代、釈尊の言葉とされた経典は、丸暗記によって伝承され、広まりました。その後、活字印刷の発明までは、経典の書写こそ、伝承と布教に決定的な意味を持っていたのです。ですから、諸経典の中で写経の功徳が大いに讃えられているわけです。

 これまた最近流行している寺社仏閣の朱印集めですが、ご存じのとおり、元はと言えば、写経を奉納したことの証明書であり、ただのスタンプラリーではありません。

 昨今の写経は、一種の「癒し」系行事になっています。実際、やった人の多くが、「疲れたけどスッキリした」というような感想を述べます。

 上述のように、写経は本来「スッキリ」するための行為ではありませんが、そういう効用が副産物としてあることは事実です。

 たとえば、恐山では、お経を印刷した台紙の上に和紙を置き、これを筆ペンでなぞるという、簡略化した作法で写経していただきます。

 これを実際にやっていただくと、皆さん非常に真剣に、一生懸命取り組まれます。いわゆる「集中している」状態です。これがどうして「スッキリ」感になるのでしょう。 

 私が思うに、写経が「自由」を奪っているからです。

 写経は、することもその手順も、あらかじめ完全に決まっています。それをする者は、決められたとおりに行うだけで、選択の余地がありません。選択可能性が「自由」の内実だとするなら、「自由」の余地がないのです。

 選択するということは、迷うことです。迷うこととは考えることです。つまり、自由であるためには、迷い考えるストレスを精神的コストとして受忍する覚悟がいるのです。ということは、「自由」を奪われることは、同時にストレスからの解放を意味するわけです。

 写経の「集中」は、この解放を可能にします。それが「体は疲れたけれど気持ちはスッキリ」に通じるのでしょう。道元禅師が坐禅について言う「万事を休息する」ことの意味に、この「スッキリ」も含まれていると、私は思います。

 私は政治的社会的「自由」を尊重すべきものと考える立場ですが、その「自由」を維持するためには、「自由」のストレスを緩和しなければなりません。このストレスが溜まりに溜まると、「自由からの逃走」(という題名の有名な本があります)的事態になりかねません。

 そうならないために重要なのは、自らの選択として「不自由」を選び、自らの選択として「不自由」を解除できることです。いわば、「自由であるために不自由であることの自由」を確保すべきでしょう。

 この矛盾に満ちた在り様は、結局、自らの選択で生まれてきたわけではない、つまり原理的に不自由な存在が、それでも自由であろうとすることの、切ない意志の宿命でしょう。