恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

方向感覚

2020年08月30日 | 日記
 東日本大震災で混乱した前の政権を「悪夢のような」と嘲罵した長期政権は、コロナ禍で迷走を重ねた果てに、いきなり2日前に頓挫しました。「国難」と呼ばれるような危機や難局に際して、我が国の政治家や政権が、立場を問わずいかに脆弱かということが、よくわかりました(他の国でも似たようなものと言えなくもないが、ドイツなど、いくつかの女性政治家の政権はコロナ禍対策で支持を得ている)。

 この様子を見ていて、私が少しく考えたのは、政治と学問(主に科学)、あるいは政治家・官僚と専門家の関係です。このとき、原発や感染症に関わる学問や専門家は、天文学や物理学の場合と違って、政治・経済的領域(エネルギー問題、公衆衛生問題)に強く関与せざるを得ません。

 しかし、専門家とは、その名の通り、ある分野に限ってそこを深堀する人たちでしょうから、その知見自体は政治的経済的、あるいは社会的な大きな文脈から外れています。その文脈を見出し、当面の問題に彼らの知見を具体的に活用していくのが、政治家や官僚の役目でしょう。

 ところが今回のコロナ禍で、「専門家会議」が自ら「前のめりになった」とか「政策を決定しているような印象を与えてしまった」などと反省している有様は、政治家や官僚が科学的知見を効果的に現実に適用するだけの準備も能力も持っていないことを、端無くも露呈するものでした。

 この無様な状況は、以外に根深い問題だと思います。なぜなら、このような科学的知見の取り扱いの拙劣さは、根本的な問題として、政治家・官僚の側、特に政治家の多くに、世界観や歴史観、すなわち「教養」が致命的に欠落にしていることに起因しているのではないかと思うからです。

 もちろん、目前の危機的状況への対処は喫緊の問題でしょう。また、前例のないことでもあれば、誰がやっても中々成果はあがらないかもしれません。ですが、深刻な危機は往々にして目の前の問題ではすみませんし、そのすまない事態のほうが、実はもっと重要です。

 規模の大きな災害などは、その社会・共同体が潜在させてきた構造的な弱点や問題点を一挙に露わにします。それを確かに把握して解決へと導くには、それまでの経緯を読み、今後の展開を見通して、露呈した課題を社会的・歴史的文脈に位置づけ、共同体全体の方向性を見出し、行動を促さなければならないはずです。

 この文脈を読み、今後を見通す方向感覚を養うのに、不可欠なのが教養なのです。リーダーにそれが乏しいとき、これは彼に従う者の命運を左右する問題になりかねません。

 私は政治家を直接多く知るわけではありません。しかし、その範囲で言っても、昨今の政治家の器量には大きな不安を感じます。

 資料や書類を読んでも読書の習慣が無い政治家は多く、酷い者になると新聞さえ読まないのです。まるで「最近の若者」同然で、これが一国の「選良」「リーダー」ではまずいでしょう。

 もちろん活字を読むばかりが教養を養う道ではありません。しかし考える力を養い、社会や歴史を読み、自らの価値観や世界観を確立するには、ある程度の読書量は必須と言わざるを得ません。
 
 私の狭い知見でも、最近の政治家は損得とウケ狙いで行動しているようにしか見えないときがあります。時々宗教や哲学に関心があるように振る舞う者もいますが、その大半は自分の凡庸なアイデアを装飾するのに哲学や宗教の文句を使っているだけです(顧みると、数少ない例外は、大平正芳と中曽根康弘かもしれません。支持するかどうかは別ですが)。

 今回のコロナ禍は「歴史的転換点」になると、多くの人が言い、政治家もそう語ります。その転換がIT社会の進展程度に考えているなら、「歴史的」の名が泣くでしょう。事は、資本と自然と人間の運命の問題なのです。

 どう考えても、今の彼らの方向感覚は、私には心配の種にしかなりません。

 

 

 

 



鍬の使いみち

2020年08月20日 | 日記
思いつき禅問答シリーズ。

 老師が外から戻ってきた弟子の修行僧を見て言いました。

「どこから来たのか?」

「畑仕事を終えて帰りました」

「畑にはどのくらいの人が出て働いていたかね?」

 弟子はそれに答えず、持っていた鍬を地面に挿し込み、無言で手を胸の前に組み(叉手・しゃしゅ)、直立しました。すると、すかさず老師が言いました。

「南山の畑には大勢の人がいて、草刈りをしているよ」

 これを聞いた弟子は、鍬を担いでさっさと出ていきました。



 この問答、私は次のように解釈したいところです。

「どこから来たのか?」という問いは、禅問答では、存在するものの根拠を問うている場合が多いのです。したがって、この場合は、修行僧としての弟子の存在根拠を問うているわけです。

 修行僧の修行僧たる所以は、修行して悟ることです。ですから、老師は最初に弟子に向かって、「お前の修行はどうなっているのだ?」と問いかけたのです。

 これに対して弟子は畑仕事に喩えて、「修行の結果(畑仕事)、悟りました(帰りました)」と答えているのです。

 そこで、老師も弟子に対して、自分の悟りの境地を言ってみろと、畑の人出の様子に喩えて訊いたわけです。

 ところが、悟りの境地そのものは言語化できません。だから、弟子は無言で立っていたのです。

 その様子を見た老師は、その言語化できない境地を認めた上で、それでも言語化し続けない限り、悟り自体が無意味であることを教えようと、さらに努力を促します。「南山」の人出の話の意味は、これです。

 弟子が鍬を担いで出て行ったのは、老師の教えを受け、さらに続く修行と悟りとその言語化の反復こそが、仏教の核心であることを示すためなのです。つまり、鍬とは言語のことなのだと、私は思います。

マスクと手洗いの思想

2020年08月10日 | 日記
 およそ古今東西ひろしと言えども、思想・哲学を説くと言われる書物で、歯磨きや洗面、風呂の入り方や排泄の仕方をテーマに自説を開陳しているものは、まず『正法眼蔵』以外にないでしょう。そこには、それら行為の理由たる、浄不浄、すなわち清潔/不潔、きれい/汚いの区別をめぐって、興味深い議論が展開されています。

 普通に考えれば、汚れを除き、身ぎれいにするために、人は洗うわけしょう。つまり、不浄・不潔を厭い、浄・清潔なる我が身を確保しようとするわけです。

 これに対して、一切は無常で無我だとする仏教の立場をとる者は、時としてその浄不浄の区別を批判します。つまり、そんな区別に根拠も実体もない。いたずらに不浄を嫌い、浄に拘るのは、無知ゆえの煩悩なのだと、主張します。

 大体、体の表面、皮膚一枚洗ってきれいにしたところで、その下はどうなのだ。五臓六腑は汚くないのか。洗わなくてよいのか。さらに言えば、洗う水の浄不浄は問わなくていいのか。結局、浄も空、不浄も空、浄不浄の区別など、妄想に過ぎない。

 というわけで、昔の禅者には、剃髪もせず顔も洗わず、歯も磨かず、爪も切らない猛者がいました。実際長髪長爪の頂相(禅僧の肖像画)も残っていますし、考えてみれば有名な一休禅師の肖像画も有髪で髭面です。

 道元禅師は、このような考え方を真っ向から否定します。その議論の要は、我々が常識的に持っている浄不浄の概念的区別には根拠がなく、それは正に空であると認めたうえで、なお修行僧は作法通りに髪を剃り、顔を洗い、入浴して排泄すべきなのだと考えるところにあります。これを言い換えれば、汚いものを洗ってきれいにするのではなく、洗う行為とその方法が、きれい/汚いの意味を決めるのだということです。

 洗う水の浄不浄について、『眼蔵』にはこうあります(筆者訳)。

「水がどうして本来清浄だと言えようか。あるいはまた、もともと不浄であろうか。本来清浄だとか不浄だとか、そんなことはその水をどこから持って来たかによって、清浄になるとも言えないし、不浄になるとも言えない。ただ諸仏諸祖師が伝えてきた仏法の修行と(その教えの)証明(『仏祖の修証』)を引き継いで護る時、そこに水を用いて洗い清め、水をもって身を浄めるという仏法があるのだ。この洗い清めによって仏法を修行し証明する時、日常の概念で理解している浄を超越し、不浄も脱却し、浄でも不浄でもないという判断も脱落しなければならない」

「浄でも不浄でもないという判断も脱落しなければならない」というのは、一切空だから浄も不浄もない、洗う必要などさらさらないという態度の否定でしょう。浄も不浄もないにもかかわらず、あえて洗うのが仏法の修行者なのです。

 ここで言う「仏法」を縁起の教えと考えるなら、私にはこう解釈したいところです。

 縁起の教えの核心に「他者に課された自己」「他者を根拠とする自己」を見るならば、汚れていようがいまいが、そんな判断とは無関係に、身を浄め清潔を保つのは、自らが相対する他者への敬意で在り、それを根拠とする自己の存在への敬意でしょう。この縁起の教えを尊重してただ「洗う」時、そこに仏教の「浄不浄」が現成するわけです。

 マスクをしても手洗いをしても、外出や移動を自粛しても、ウイルスに感染する時はするでしょう。しかし、それでもマスクをし手洗いするのは、自分の安全(浄)だけを確保するのではなく、まずもって他者に感染させないためだと思うなら、それは縁起の教えの実践だろうと、私は思います。