恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

貧学道

2024年02月01日 | 日記
 道元禅師の言葉が修行者の心得を説いたものの一つに、次のようなものが有ります。

「龍牙云く、『学道は先づすべからく貧を学すべし。貧を学して貧なる後に道まさにしたし』と云へり。」(『正法眼蔵随聞記』巻5-10)

「龍牙」は、中国禅宗の龍牙居遁禅師のこと。出典は『禅門諸祖師偈頌』。仏道を学ぶ者は、衣食住の快適さを求めず、財物を貪らずに修行すべきであるという意味でしょうが、それにしても、「貧しさを学ぶ」とはどういうことか。

 他に禅師自らの、こんな言葉も。

「学道の人は先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。」(『正法眼蔵随聞記』巻4-9)

 要するに「修行者は、貧しくあるべきだ」というわけです。修行者が贅沢をしていて、まともな修行ができるはずがありませんし、世間が納得するわけもありませんが、それにしても、この教示は、ただ飢えと寒さに耐え抜けと言うがごとき、闇雲な根性論ではないでしょう。坐禅は夏涼しく、冬は暖かくして行うべきだ、と本人が言うぐらいですから。

 私は最近、禅師のこの「貧」という教示に、聊か思うところがあるのです。

 このところ、機会があって人に会うと、老若男女、極めて多くの人が、なんとなく疲弊しているように見えるのです。元気そうに見える人にも、どことなく不安げな気配があるように感じます。

 私はこの疲弊と不安の根底に、この社会を覆う「自己決定・自己責任」なる、愚昧な考え方の蔓延があると思います。この考え方の愚昧さは、自分が自己決定で生れて来たわけではないことを考えれば、すぐわかるでしょう。「自己決定・自己責任」は最終的に根拠が無く、底が抜けているのです。

 ところが、この考え方は、今や世の常識どころか倫理に近いレベルに達し、我々の行動を拘束しています。結果的に、人々を「決して失敗できない」という強迫観念に追い込むことになるのです。ならば、疲弊や不安は当たり前でしょう。

「自己決定・自己責任」が原則として貫徹されるべきは、商売や取引、つまり市場経済においてです。何を売り何を買うかは、本人の自由、即ち自己決定であり、商品相当の金を払い、価格に見合った商品を渡すのは、当事者の責任です。ここが揺らいでは市場経済は成り立ちません。

 問題は、商売の原則が市場を超えて、人間の在り方・生き方全体を覆い尽くし、まるで「道徳」か「倫理」のように機能していることなのです。

 では、なぜそうなるのか。それは社会が今なお、「経済成長」を「豊かさ」以外の目標を提示できず、それを「善」だとするイデオロギーに拘らざるを得ないからでしょう。「SDGs」も、「開発」を目指す以上は、結局は「成長」と同じ話で、これまでと別な方法で「豊かになろう」という発想にすぎません。

 この「成長」と「豊かさ」に到達する手段として、市場経済しかあり得ないと思うからこそ、「自己決定・自己決定」が金科玉条のごとく振る舞うという、馬鹿げた仕儀に到るのです。

 私は、この「国是」レベルの扱いをされる「成長」「豊かさ」の概念を、少なくとも今一回、検討し直したほうがよいと思います。そうでないと、AI技術、先端医療、宇宙開発などは、「成長」「豊かさ」を錦の御旗に、方向性を見失って暴走し、人類にとって壊滅的な厄災となりかねません。

 そう思う時、では「貧しさ」とは何か。もし「豊かさ」に危険があるなら、ひょっとすると「貧しさ」に救いがあるかもしれない。

 物資や金銭の窮乏が生活の危機に到るほどの「貧困」は、決して肯定すべきでも、許容すべきでもありません。が、しかし、先人が「貧しさを学ぶべきだ」「貧しくあるべきだ」と言う時の「貧しさ」の意味を、今深く考える意義は小さくないと、私は思います。

 いずれ、この件、愚見を申し述べたいと思います。