恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

例大祭、終わりました。

2015年07月30日 | 日記
 恐山の夏季例大祭は、今年も無事終了しました。ご参拝いただいた皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 ご存知の方もおられるかもしれませんが、私はいま、青森と東京と福井を毎月行き来しています。これも仕事に応じてのスケージューリングなので、どこにいつ、どのくらいいるのかは、常に変わってしまいます。

 そのせいで、「アポイント無し」で一度院代の顔を見てみたいという方にとっては、例大祭と秋季祭、その前後一週間くらいの間に、恐山に来ていただくことが一番確実な方法になってしまいます。

 今年は、法要受付のカウンターに坐っていたら、突然、ある中年女性の二人組から、

「ご朱印、お願いします。で、ね、南さんて、南直哉さんね、今、います?」

「ぼくですが・・・」

「えっ、あれ、まあ!・・・」

 お二人同時にのけぞられ、甲高い声に周囲の視線が集まります。

「やだあ、びっくりしたあ。こんな目の前に坐っているんだもの!」

「はあ、すみません。仕事なもんで」

 お二人とも拙著を読んで下さった方で、なおかつ知り合いの住職が私の修行時代の後輩のようでした。

 あと、本と言えば時々あるのが、拙著にサインしてほしいとおっしゃる方です。これが実は、非常に恥ずかしい。

「ご本はいつも楽しみに読ませてもらっています」なんて言われようものなら、あたふたして「それは恐縮です。で、どこからいらっしゃったんですか?」とにかく話題を変えようと焦ります。

 二度ほど「サイン会」めいたものしたことがあるのですが、この人が自分の本を読んだか、これから読むのかと思うと、どうしたものか、いたたまれない気分になったものです。

 さらに、一番参るのが、本の感想というか、質問というか、批評、あるいはご自身のご見解というか、はっきり見当のつかないお話を承ることで、これにはどう応対していいか、当惑してしまいます。少なくともこの手のお話は、受付の立ち話は似合わないでしょう。

 そこで、本の話題に限らず、私に面会ご希望の方に、申し上げます。今のところ最も間違いないのは、青森県むつ市・恐山か福井県福井市・霊泉寺に封書をいただくことです(霊泉寺の方がよりよいかな)。

 書面の内容は、お名前・「面会希望」のみの一文・連絡先電話番号、それだけで結構です。必ず当方より記載電話番号にお電話します。ただ、電話するまでに相応の日数(長くて一か月)がかかりますので、その点はご容赦下さい(ちなみに、私は突然に面識のない方から手紙やメールなどをいただいても、一切返事をしません。この面会希望の封書だけが例外です)。

 基本的に、日時と場所で妥協していただけたら、面会には何も支障ありません。お役にたてれば、光栄です。

 ともあれ、青森の例大祭は終わり、次は福井でお盆だ! ヘタをすると10度近い温度差だあ!

「輪廻」は無駄

2015年07月20日 | 日記
 最近、またしても私に「お前は輪廻を認めないのか」と迫ってくる人がいるので、あえて再度申し上げます。

 以前にも書いた通り、「輪廻」という教説は、所詮考え方の問題だと思います。だから、「輪廻からの解脱」とは、「輪廻という考え方からの解脱」だと考えればよいでしょう。

 だいたい、終始一貫した同一性を保つ「霊魂」みたいな、アイデンティティーを保証する何ものかが「生まれ変わり死に変わりする」という言い方・考え方は、どう見たって、無常・無我・無記・縁起をキー・コンセプトにする仏教のとるところではありません。

 すると、「いや、仏教では、輪廻するのは霊魂のようなものではない。そんなアートマン(我)同様の何かではなく、命の流れのような、個人を超えた大いなる意識ようなものが輪廻するのだ」などと言い出す人が出てきます。いわゆる「無我輪廻説」的な物言いをするのです。

 以前聞いた「無我輪廻説」は、川の流れにできる渦巻きを例に出すものでした。あるところでできた渦巻き(渦巻きA)が、流れの条件が変わって消え、流れの別のところに渦巻き(渦巻きB)が現れる。それが「輪廻」だと言うのです。

 しかし、それですませるなら、所詮「私の先祖は徳川家康です」レベルの話です。輪廻と言うからには、「このA(徳川家康)が、こっちのB(私)になったのだ。B(私)と見えるものは、実は以前のA(徳川家康)なのだ」という主張でない限りは、「輪廻」になりません。それ自体としては不変の実体性を持つ何かが「生まれ変わり、死に変わりする」のだと言わないなら、説として無意味です。

 ある神父さんが、「人類の圧倒的多数が前世を何も覚えていなくて、ごく稀な人にしか記憶がないなら、輪廻なんて教えは説いても無意味でしょう?」と言っていましたが、その通りです。いや、それでも「命が流れる」「意識が続く」と言うなら、「流れる」「続く」と言えばよいだけの話で、わざわざ「輪廻」などと言い出す必要は毛頭ありません。「無我輪廻説」などはほとんど詐称で、「無我持続説」が言い方として真っ当でしょう。

 仏教において、最もユニークにしてオリジナル、そして決定的に重要な教説は、無常・無我・無記・縁起であり、「輪廻」説は余計である上に理論的に無理筋で、無くて構わないし、無い方がよいのです。

 では、理論的に維持するのが無駄な「輪廻」説が、なぜ仏教に引き込まれて残存し、それどころか仏教の重要教説のような顔をして今なおのさばっているのでしょうか。

 理論的に余計なものが存在し続けるのは、実践的な需要があるからです。

 まず考えられるのは、人間に善悪を強制する道具としての意味です。善行を課し、悪行を禁じるとき、脅迫と利益誘導の手段として、「輪廻」のアイデアを使うのです。「善いことをすれば、良いところにうまれるよ。悪いことをすれば酷いところに生まれるよ」

 このような取り引きレベルの話は、所詮世間の問題です。つまり、当時の在家者に生きている間の「処世術」として説く必要があったし、その需要もあったから、当時のゴータマ・ブッダ教団は「輪廻」説を必要と需要の範囲で使ったのでしょう。

 だとすれば、こんなものを未だに我々が引き継いでいることは、著しく志の低い話です。理論的に無駄な「輪廻」説など放擲して、仏教は仏教でオリジナルな倫理説、善悪観を提出すればよいのです。私は、この倫理をめぐる議論が、今後仏教の中から数多く現れることに大なる期待を持っています。

 もう一つ、「輪廻」説の実践上の需要は、非常に切実でとくに苦しい境遇にある人、たとえば人種や民族、身分や心身の障害など、生まれ・出自によって差別されたり抑圧されたりしている人が、自分の在り方を自己肯定する必要がある場合と、別の誰かが彼に自己肯定させようとする場合に、顕著に出てきます。

 つまり、「なぜ自分は今、これほどつらい境遇にあるのか。どんな理由があるのか」という疑問に答える理屈として、需要があるわけです。自己の実存に対して理由や根拠を求める欲望というのは、人間にとっては致命的なことでしょう。それがつらい実存状況なら尚更です。そのとき、「輪廻」説というのは、非常に耳に入りやすいのです。

 そして、この辛い境遇をその当事者に黙って甘受させたいと思う第三者にとっても、これは非常に便利な理屈です。つまり、その境遇は「自己責任」だと言って放置できるからです。

 ということは、「輪廻」説は、「社会的強者」が「社会的弱者」を支配し・隷属させるイデオロギーとして、重要な役割を果たし得るわけです。インドにおいて、「カースト制度」が「輪廻」説とがっちりセットになり、かつて「強制隔離」措置の対象となった「ハンセン氏病」が「天罰」や「前世の因縁」で説明されていた(私はハンセン病治癒者から体験談を直接聞きました)ことを思えば、すぐにわかる話です。

 だったら、「かースト制度」に反旗を翻した仏教が、「輪廻」説を後生大事にしている理由はいささかもありません。「業・因果」説は仏教に必須(このことは、また後日考えます)ですが、「輪廻」説は違います。ゴータマ・ブッダ自身が生前説いていようといまいと、これは仏教にとって本筋の教えでも大事なアイデアでもありません。「輪廻」説は仏教に要りません。我々はまさにそれから「解脱」すべきでしょう。

彼の深き欲望

2015年07月08日 | 日記
 1997年に神戸で児童殺傷事件を起こした少年の手記を読みました。読み終えて、私はつくづく考えてしまいました。

 手記には際立った特徴があります。それは、事件を起こして審判を受けて後、社会に再び出るまでの、医療少年院での生活や治療・更生教育の実態が、ほとんどスッポリ抜け落ちていることです。本書を出版する社会的意義は、それ抜きにはありえないでしょう。

 ところが、それについては何も言及がなく、まず前半部では、事件について極めてリアルな描写と真剣な自己分析が、それ相当の文章力で書き出されています。そして後半で、少年院から社会に出て以後の、職を転々とする、ほとんど放浪に近い生活が苦渋とともに語られています。

 社会に出た彼の苦しさとは、要するに次のように述べられることです。

「自分の過去を隠したまま『別な人間』として周りの人たちに近付きすぎると、本当の自分をつい忘れてしまうことがある。でもこうやってふとした拍子に、自己は何者で、何をしてきた人間なのかを思い出すと、いきなり崖から突き落とされたような気持になる。どんなに頑張っても、必死に努力しても、一度一線を越えてしまった者は、もう決して、二度と、絶対に、他の人たちと同じ地平に立つことはできないのだと思い知る」

 つまり、彼においては、少年院で治療・教育された自分は「本当の自分」ではないか、「本当の自分」に組み込まれていないわけです。それどころか、「別の人間」なのでしょう。

 彼にとってリアルで「本当の自分」とは、まさに「一度一線を越えてしまった者」です。これこそが今なお彼のアイデンティティー、すなわち「自分は何者」であるかを決めるものであり、それがアイデンティティーとして確立するためには、「一度一線を越えた者」として他者から認められなければなりません(「私はAである」ということは、自分がそう思っている事実と、他者がそう認知している事実の一致である)。

 だからこそ、彼は事件の詳細を、異様な熱を帯びた、さらに言うと聊か自己陶酔的な筆致で書けるし、書かないわけにはいかなかったのです。と、同時に、書いたものが他者に読まれて認知されなければ、「本当の自分」は「本当の自分」になり得ません。たとえそれが「他の人たちと同じ地平に立つことはできない」犯罪者の「自分」であったとしても。


 これを書いて出版する欲望の強度に比べれば、巻末の被害者遺族に対する謝罪の言葉の空虚さが際立つのは当然でしょう。謝罪はまだ「本当の自分」の外側にあるからです。

 今回の出版は、まさに我々「人間」と呼ばれる実存の、「自己であること」の宿命的な困難と欲望、それはすなわち「他者に認められること」の致命的な必要と渇望を、悲惨なほど露わにしているように、私には思えます。

 本名では書かない、あるいは書けない「A」の、裂けた実存の「苦」。彼に「本当の自分」など要らない。要るのは、「業」を引き受ける決断なのだ。その彼を、孤立させるべきではないのである。

 被害者遺族の心情に悖る出版の経緯への批判は当然としてなお、私はそう思います。