また痛ましい事件が起きました。亡くなられた方の無念とご遺族の悲嘆を思うと、やりきれない気持ちです。ご冥福をお祈りする以外にありません。
この種の無差別殺人事件が起きると、時として犯人が自死したり、「死刑になりたい」と言い出すことがあります。すると、大方の反応として、「お前一人で死ねばよい」という声があちらこちらから聞こえてきます。
しかし、ここには誤解があり、犯人にとっては一人で自死するのでは意味がないのです。なぜなら、彼の犯罪は、敢えて露骨に言えば、彼の「事業」だからです。「事業」である以上、それはたとえマイナスの意味でも、他者(社会)に認められねば「事業」になりません。
このタイプの犯人は、幼少期に家族関係に困難がある場合が多く、さらにその後の人間関係が希薄になりがちで、孤立した状況に長く陥る場合が多いように思います。
そのとき、付き合いのある人物が複数いるとしても、問題は、彼が他者から「認められている」という実感を得ていないことです。私の言う「孤立」とはこのことです。
そういう人物が、深い孤立の果てに「認められる事業」と妄想するのが、この種の無差別殺人なのでしょう。それが「事業」であることは、無差別殺人は決して衝動的になされないことを見れば、明白でしょう。衝動的な殺人は、それがまさに感情であるがゆえに、特定の誰かへの具体的な憎悪や怒りがない限り起こらないのです。
これに対して無差別殺人は、それなりの覚悟と準備(時には自己正当化の理論武装も含む)がないとできません。他者に「ショックを与え」それによって「認められる」だけの規模が必要である以上、それは計算された結果として「事業化」されるわけです。したがって、単純に「ひとりで死ね」などと言っても、まるでナンセンスにしかなりません(世間からの注目という事業の効果と、「自分を認めない社会への抗議・復讐」という事業の「マイナス」意義こそが、何よりも重要なのだから)。
犯人の所業は決して容認されるものではありませんが、最深の問題は事件に至るまでの「孤立」にあるのだと、私は思います。だとすると、これは単純に犯人を罰することだけでは解決にならず、「孤立」問題は社会的・政治的課題として取り組まれるべきです。
私がそう思うのは、この問題に一定の「社会的ひろがり」を感じるからです。そのひとつが、いわゆるヘイトスピーチです。
極端なヘイトスピーチを繰り返す人が、必ずしも無差別殺人者に見られるような「孤立」に陥っているわけではありません。むしろ相応の社会的立場や職業を持ち、人間関係も悪くない人のほうが多いでしょう。
しかしながら、自己評価が妙に高い、自己愛的傾向の強い人物、あるいは現在の境遇に恒常的なストレスや不安を感じている人は、相対的に他者から「認められている」感が不足しているでしょう。つまり、自意識的な「欲求不満」です。
この不満が攻撃性を招くと、攻撃を正当化する理屈(価値観やイデオロギー)を必要とします。すると、もはやことは具体的な感情の問題ではありません。他者への感情と見えるものは、イデオロギー的な「興奮」なのです。
たとえば、激しい民族差別的な主張をする者は、多くの場合、その民族に属する個人と付き合いがなく、実際の人物像を知りません。特定の個人から具体的な不利益や害を被った経験もほとんどないでしょう。ヒトラーのユダヤ人憎悪は、いかなるユダヤ人個人とも無関係だったにもかかわらず、ではなく、無関係だったがゆえに、「アウシュビッツ」にまで至ったのです。
彼らには、相手の主張を聞いた上で行う通常の対話や、それなりの根拠や証拠を用いる説得がほとんど通じません。対話や説得は拒絶して、強硬な主張を繰り返し、同じような主張をする人物同士で「認め合う」場を作って、内閉してしまいます。それは彼らの相対的「孤立」を逆説的に物語るでしょう。
EU離脱問題で挫折し、先ごろ辞任を表明したイギリスのメイ首相が、かつて「孤独問題担当大臣」を新設したと聞いたとき、このことに限っては「先見の明」を感じたものです。
この種の無差別殺人事件が起きると、時として犯人が自死したり、「死刑になりたい」と言い出すことがあります。すると、大方の反応として、「お前一人で死ねばよい」という声があちらこちらから聞こえてきます。
しかし、ここには誤解があり、犯人にとっては一人で自死するのでは意味がないのです。なぜなら、彼の犯罪は、敢えて露骨に言えば、彼の「事業」だからです。「事業」である以上、それはたとえマイナスの意味でも、他者(社会)に認められねば「事業」になりません。
このタイプの犯人は、幼少期に家族関係に困難がある場合が多く、さらにその後の人間関係が希薄になりがちで、孤立した状況に長く陥る場合が多いように思います。
そのとき、付き合いのある人物が複数いるとしても、問題は、彼が他者から「認められている」という実感を得ていないことです。私の言う「孤立」とはこのことです。
そういう人物が、深い孤立の果てに「認められる事業」と妄想するのが、この種の無差別殺人なのでしょう。それが「事業」であることは、無差別殺人は決して衝動的になされないことを見れば、明白でしょう。衝動的な殺人は、それがまさに感情であるがゆえに、特定の誰かへの具体的な憎悪や怒りがない限り起こらないのです。
これに対して無差別殺人は、それなりの覚悟と準備(時には自己正当化の理論武装も含む)がないとできません。他者に「ショックを与え」それによって「認められる」だけの規模が必要である以上、それは計算された結果として「事業化」されるわけです。したがって、単純に「ひとりで死ね」などと言っても、まるでナンセンスにしかなりません(世間からの注目という事業の効果と、「自分を認めない社会への抗議・復讐」という事業の「マイナス」意義こそが、何よりも重要なのだから)。
犯人の所業は決して容認されるものではありませんが、最深の問題は事件に至るまでの「孤立」にあるのだと、私は思います。だとすると、これは単純に犯人を罰することだけでは解決にならず、「孤立」問題は社会的・政治的課題として取り組まれるべきです。
私がそう思うのは、この問題に一定の「社会的ひろがり」を感じるからです。そのひとつが、いわゆるヘイトスピーチです。
極端なヘイトスピーチを繰り返す人が、必ずしも無差別殺人者に見られるような「孤立」に陥っているわけではありません。むしろ相応の社会的立場や職業を持ち、人間関係も悪くない人のほうが多いでしょう。
しかしながら、自己評価が妙に高い、自己愛的傾向の強い人物、あるいは現在の境遇に恒常的なストレスや不安を感じている人は、相対的に他者から「認められている」感が不足しているでしょう。つまり、自意識的な「欲求不満」です。
この不満が攻撃性を招くと、攻撃を正当化する理屈(価値観やイデオロギー)を必要とします。すると、もはやことは具体的な感情の問題ではありません。他者への感情と見えるものは、イデオロギー的な「興奮」なのです。
たとえば、激しい民族差別的な主張をする者は、多くの場合、その民族に属する個人と付き合いがなく、実際の人物像を知りません。特定の個人から具体的な不利益や害を被った経験もほとんどないでしょう。ヒトラーのユダヤ人憎悪は、いかなるユダヤ人個人とも無関係だったにもかかわらず、ではなく、無関係だったがゆえに、「アウシュビッツ」にまで至ったのです。
彼らには、相手の主張を聞いた上で行う通常の対話や、それなりの根拠や証拠を用いる説得がほとんど通じません。対話や説得は拒絶して、強硬な主張を繰り返し、同じような主張をする人物同士で「認め合う」場を作って、内閉してしまいます。それは彼らの相対的「孤立」を逆説的に物語るでしょう。
EU離脱問題で挫折し、先ごろ辞任を表明したイギリスのメイ首相が、かつて「孤独問題担当大臣」を新設したと聞いたとき、このことに限っては「先見の明」を感じたものです。