恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

孤立の果て(「自己」という欲望2)

2019年05月30日 | 日記
 また痛ましい事件が起きました。亡くなられた方の無念とご遺族の悲嘆を思うと、やりきれない気持ちです。ご冥福をお祈りする以外にありません。

 この種の無差別殺人事件が起きると、時として犯人が自死したり、「死刑になりたい」と言い出すことがあります。すると、大方の反応として、「お前一人で死ねばよい」という声があちらこちらから聞こえてきます。

 しかし、ここには誤解があり、犯人にとっては一人で自死するのでは意味がないのです。なぜなら、彼の犯罪は、敢えて露骨に言えば、彼の「事業」だからです。「事業」である以上、それはたとえマイナスの意味でも、他者(社会)に認められねば「事業」になりません。

 このタイプの犯人は、幼少期に家族関係に困難がある場合が多く、さらにその後の人間関係が希薄になりがちで、孤立した状況に長く陥る場合が多いように思います。

 そのとき、付き合いのある人物が複数いるとしても、問題は、彼が他者から「認められている」という実感を得ていないことです。私の言う「孤立」とはこのことです。

 そういう人物が、深い孤立の果てに「認められる事業」と妄想するのが、この種の無差別殺人なのでしょう。それが「事業」であることは、無差別殺人は決して衝動的になされないことを見れば、明白でしょう。衝動的な殺人は、それがまさに感情であるがゆえに、特定の誰かへの具体的な憎悪や怒りがない限り起こらないのです。

 これに対して無差別殺人は、それなりの覚悟と準備(時には自己正当化の理論武装も含む)がないとできません。他者に「ショックを与え」それによって「認められる」だけの規模が必要である以上、それは計算された結果として「事業化」されるわけです。したがって、単純に「ひとりで死ね」などと言っても、まるでナンセンスにしかなりません(世間からの注目という事業の効果と、「自分を認めない社会への抗議・復讐」という事業の「マイナス」意義こそが、何よりも重要なのだから)。

 犯人の所業は決して容認されるものではありませんが、最深の問題は事件に至るまでの「孤立」にあるのだと、私は思います。だとすると、これは単純に犯人を罰することだけでは解決にならず、「孤立」問題は社会的・政治的課題として取り組まれるべきです。

 私がそう思うのは、この問題に一定の「社会的ひろがり」を感じるからです。そのひとつが、いわゆるヘイトスピーチです。

 極端なヘイトスピーチを繰り返す人が、必ずしも無差別殺人者に見られるような「孤立」に陥っているわけではありません。むしろ相応の社会的立場や職業を持ち、人間関係も悪くない人のほうが多いでしょう。

 しかしながら、自己評価が妙に高い、自己愛的傾向の強い人物、あるいは現在の境遇に恒常的なストレスや不安を感じている人は、相対的に他者から「認められている」感が不足しているでしょう。つまり、自意識的な「欲求不満」です。

 この不満が攻撃性を招くと、攻撃を正当化する理屈(価値観やイデオロギー)を必要とします。すると、もはやことは具体的な感情の問題ではありません。他者への感情と見えるものは、イデオロギー的な「興奮」なのです。

 たとえば、激しい民族差別的な主張をする者は、多くの場合、その民族に属する個人と付き合いがなく、実際の人物像を知りません。特定の個人から具体的な不利益や害を被った経験もほとんどないでしょう。ヒトラーのユダヤ人憎悪は、いかなるユダヤ人個人とも無関係だったにもかかわらず、ではなく、無関係だったがゆえに、「アウシュビッツ」にまで至ったのです。

 彼らには、相手の主張を聞いた上で行う通常の対話や、それなりの根拠や証拠を用いる説得がほとんど通じません。対話や説得は拒絶して、強硬な主張を繰り返し、同じような主張をする人物同士で「認め合う」場を作って、内閉してしまいます。それは彼らの相対的「孤立」を逆説的に物語るでしょう。

 EU離脱問題で挫折し、先ごろ辞任を表明したイギリスのメイ首相が、かつて「孤独問題担当大臣」を新設したと聞いたとき、このことに限っては「先見の明」を感じたものです。

 

「今」と「而今」

2019年05月20日 | 日記
 時として、「いま・ここ」に集中するのが禅の教えだとか、「いま・ここ・自己」に徹底するのが仏教だとかいう言い方がされますが、私はこれはあまりにナイーブだろうと思います。というのは、その「いま」「ここ」「自己」が具体的にどのような事態を言うのか、皆目わからないからです。

 このような言い方がされるとき、「いま」は、均質に流れる川のような時間がそれ自体としてあって(絶対時間)、それを微分して析出された「点的時間」(瞬間)を漠然と考えているのでしょう。同じように、何もかもが位置づけられる巨大な箱の如き空間(絶対空間)があり、これを極限まで限定した局所的空間として「ここ」はイメージされていて、この座標的な時空間に、それ自体として存在する「自己」が位置づけられているのでしょう。

 ところが、仏教においては、涅槃や悟りを目指して修行する以上、その「いま」「ここ」は未来のどこかに初めから開かれていて、「成仏」を目指すというなら、「自己」は予め脱落されなければならないものとして設定されます。しかも「今ここの自己」と称される実存は、常にすでに、業的実存として自覚されるべき存在様式で現成するわけです。

 このとき、「『涅槃』や『悟り』を目指して修行する」というとき、その「涅槃」や「悟り」が何であるか確定できないとなると、現実に出来ることは、無限遠に退く「涅槃」「悟り」に方向づけられながら、「修行」プログラムをただ反復するしかありません。

 具体的には、「涅槃」「悟り」を誓願して、それまでの自己の在り方を懺悔し、さらにまた発心し修行するという繰り返しです(いわゆる「行持道環」)。

 このような一定の行動パターンの反復は、直線的に流れる時間イメージから規定される「前後」関係を次第に無効化します。ということは、意識の形式としての時間が溶解していくということです。と同時に、その反復がどこでも可能であるなら、空間的な局所性(ここ)も無意味になるでしょう(「身心脱落」的事態)。

 同じような現象は、坐禅でも起こります。言語作用の極限までの絞り込みは、自意識を解体し、「自己」の連続性としてプログラムされる「いま」「ここ」(今ここにいるのは常に自己)を解除していきます(「非思量」的事態)。

 私は、この事態が道元禅師の言う「而今」と近いだろうと思います。すなわち、「而今」とは、我々が通常する使用する「今」という言葉が意味する点的現在を言うのではなく、むしろそのような点的「いま」・局所的「ここ」が構成される時間・空間意識の機序を解除したときに現成する事態、一定の条件下で直線的な時間の構成を可能にするような、「原時間性」とも呼ぶべき事態だと考えます。

 おそらくは、日常的に意識される「いま」「ここ」も、「自己」同様、他者に媒介されて成立する観念でしょう。他者との共同の、あるいは同調を必要とする行動がなければ、そもそも「いま」「ここ」などと考える必要もありません。

「いま、よろしいですか?」「いいですよ」というやりとりや、「ここで待っててね」「わかった」というような会話や、その会話を要請する行動を前提にして初めて、「いま」「ここ」が時間的に析出されるわけです。ということは、時間と空間と自己、「いま・ここ・自己」は根源的に社会化され、共同的に構成されていることになるでしょう。

開山しました。

2019年05月10日 | 日記
 恐山は本年も5月1日、無事開山の日を迎えました。

 今年は改元の日と10連休と開山日が重なるという異例な1日となり、特に御朱印を求める参拝の方々は、6人の和尚さんが総出で書き続けても、閉門時間まで長い行列ができ、1時間以上お待たせすることになってしまいました。ところが、後で明治神宮ではなんと10時間!!待ちという報道があったことを知り、仰天してしまいました。

 以下は、私が本年最初の法要で行ったご挨拶です。

 皆さま、本日は恐山にようこそお参りいただきました。

 令和最初の日が恐山の開山日と重なり、いささかの感慨がございます。ご参拝の皆様の中にも、そのようなご感想をお持ちいただいている方がおられるかもしれません。

 すでに元号決定の日以降、テレビなどのメディア、あるいはデパートや商店街などご商売の現場では、今日の新天皇即位と改元をめぐって、大変な喧噪でございました。

 しかし、考えてみれば、それは日本人の頭の中だけの区切りで、そう考えれば、実際の我々に毎日に、長い連休になったこと以外、大した変化もありません。

 我々は依然として、明日のことを慮りながら、昨日したことを前提に、今日なすべきことをなさねばなりません。

このとき、そういう我々の営みは常に他の人々とのご縁のなかにあります。いわば、明日の希望も、昨日の反省も、今日の判断も、その縁をどうしたいのか、どうしたのか、どうするのか、ということ以外にありません。

 そして、もう一つ思うべきは、それは今共に生きている人との縁だけではないことです。我々の生は膨大な過去の死者の果てに、その積み重なりの先にあるのであり、同時に次の世代の始まりに位置しています。

 つまり、我々の生は死者ぐるみの生であり、次世代に開かれている生だということでしょう。

 同じように、令和の時代も平成ぐるみでしかありえず、令和の次の時代も令和を引き継がざるを得ません。

 そう思うと、恐山での、将来ご家族の無事を祈願し、既に亡くなったお身内の方々を供養することは、今の我々自身の生の営みそのものを祈願し・供養することと同じであり、さらには、今日皆様にお積み頂いた功徳が、遠く過去と未来の世代に及ぶことを願い信じていただきたいと思う次第です。

 皆さま、本日はご参拝まことにありがとうございました。

番外:坐禅と講話の会 2019

2019年05月06日 | 恐山の参拝
 本年(令和元年)も、院代の主催による坐禅と講話の会を、下記のとおり2回・1泊2日で行います。


▼期日

 第1回:6月15・16日、第2回:9月28・29日

▼スケジュール

 午後3時までにご到着下さい。

 スケジュール説明後、坐禅指導。夕食後、講話。

 翌朝午前4時半、坐禅。その後、朝のお勤め参加。朝食後、座談会。午前10時終了。終了後、希望者には恐山僧侶による山内拝観があります。

▼お申込み

 5月6日午前9時より受付を行います。恐山寺務所または宿坊に、「坐禅と講話の会に参加希望」と必ずお伝えください。

 各回定員20名にて締め切りとさせていただきます。(電話:0175-22-3825)

▼お願い

 服装は自由ですが、坐禅を行いますので、トレパンなど、下半身を締め付けないものをご用意ください(ジーンズでの坐禅は不可)。

▼参加料

 宿坊宿泊の費用12.000円(入山料別)のみお願いします。