恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「愚者」の定義

2015年11月30日 | 日記
 最近、某県の教育委員が、県内の特別支援学校を視察した後に、「妊娠初期に(障害の有無が)わかるようにできないのか。4か月以降はおろせない」「(障害児の教育に)ものすごい人数の方が従事していて、県としても予算が大変だろう」「生まれてきてからでは本当に大変」、などという趣旨の発言をしたと報道され、辞職する騒ぎになりました。

 この発言の根本的な愚かさは、自分の発言の出所に対する自覚が、まったく欠けていることです。

 発言は、一目瞭然、障害児には「コスト」がかかるから、早めに処理したほうがよいと言っているのです。そのコストは、親の負担、社会の負担はもちろん、ひょっとすると障碍者当人の「心理的負担」まで含めて言っているのかもしれません。いずれにしろ、この教育委員の言う「大変」はそういう「コスト」の話です。

 すなわち、この発言は、人間の実存より「コスト」が優先するという、資本主義自由市場の経済に根底から浸透された発言です(教育委員の本職が画廊の副社長とは象徴的。価格があってないような「商品」を扱うのだから、リアルで厳密な「コスト」理解をしていない可能性大)。

 するとこの話は当然、「コスト」のかかる実存全体の話になります。今やその筆頭は高齢者でしょう(「高齢化社会問題」)。

 この教育委員は71歳だそうですが、「コスト」を言うなら、たとえば「後期高齢者」(彼女も目前)の存在は、もはや家族や社会にとって「予算も大変」「本当に大変」です(「問題」と言うくらいだから)。「だから、75歳くらいで安楽死させたらどうか。それ以降は死ぬまで大変」、などとどこかの「偉い人」に発言されたら、この教育委員は賛同するのでしょうか。彼女にその覚悟があるなら、「大変」云々も「見上げた発言」と言えるかもしれません。

 これほど見やすい理屈がどうしてわからないのでしょうか。頭がわるいからか? 違います。この種の発言をする人物は、往々にして教育もあり地位もあるような、「利口な」者が多いのです。要するに「頭のいい」愚者というわけです。そういう彼らには、ある能力が決定的に欠けています。

 私が、これはどう見ても馬鹿だなあ、と本当に思う人間は、一種類しかありません。それは、自省・内省することができない者です。これには学歴も知識も職業も地位も、一切関係ありません。私の言う「愚者」とは、この能力に欠けている者に他なりません。

 この場合、自省・内省とは次のようなことだと、私は考えています。

一、自分の考えは間違っているかもしれないと、怖れをもつこと。

一、自分の考えとは正反対の考えがこの世にはあり得て、どちらが正しいか無条件に決める根拠はないと自覚すること。

一、自分の考えは、一定の条件下でのみ、正当化されるとわきまえること。

一、考えを正当化しうる条件について、検討を怠らないこと。

 以上4つは、実生活で失敗を重ねつつ仏教に学んで、ようやく辿り着いたアイデアです。今でもそうそう簡単には実践できませんが。

 さて、29日にも、今度は71歳の男性市議会議員が、同性愛者を「生物の根底を変える異常動物」だとツイッターで発言したそうです。この市議の「正常動物」の定義を知りたいところですが、おそらく生殖にかかわらない「性愛」は「異常」だと言いたいのでしょう。

 ところが、発情期のない人間の性愛は、すでに「異性愛」だろうと「同性愛」だろうと、生殖と直接結びついていません(常に子供をつくる気で性行為に及ぶ人物は、まずいないだろう)。すると、「異常」発言は、「生物の根底を変える」というような「生物学的」なものではなく、ただのイデオロギー(子のいる家族が「正しい」家族。「正しい」家族を持つのが「正しい」人間)か、もっと言えば趣味です。

 つまり「嫌いだ」という感情の問題にすぎません。だったら、そう言えばよいのです。世の中にそういう感覚を持つ人がいる「事実」は否めないでしょう。

 その「趣味」を「生物の根底を変える異常動物」などという浅薄な「理屈」にすりかえるところに、この人物の「愚かさ」が見えるのです。

「苦」と「解脱」

2015年11月20日 | 日記
 私の知人に、お母さんが認知症の方がいます。その症状が、おそらく前方向性記憶障害と言われているものの一種ではないかと思います。

 このお母さんの場合、過去の記憶も家族の認知も確かですし、話の筋も通っていて、日記も書いています。ただ、ある時点(認知症発症の時点でしょう)から以後、まったく記憶が積み上がらず、直近の記憶が2、3分ですっかり消えてしまうのです。

 最近では、骨折したことも、入院したことも忘れたんだそうです。

「なんで、こんなとこにいるのかねえ?」

「おばあちゃん、骨折したのよ。ここ病院」

「あれえ、そうなのかい。だから足がぐるぐる巻きなんだね」

しばらくするとまた、

「・・・なんで、こんなところにいるのかねえ?・・・」

 こんな調子。短時間の痛みは忘れてしまうので、ずっと同じ痛みが途切れず続いて初めて、「痛い」らしいのです。

 日記も、まさに書いているその時に見たり聞いたり感じたりしたことだけが、箇条書きのような文章になっていると、知人は言います。

 すると、結果的に彼女は、不平・不満・不安をほとんど持たない状態になっているはずです。もちろん、時々、気に入らないことがあるとその瞬間、「もうやだ! 死んだほうがまし!」とキレることもあるという話ですが、直後に忘れて、またニコニコしながらテレビを見ているのだそうです(見ていると言うより、映像と音声の流れを追っている)。

 では、このような彼女に、「苦しみ」はあるのか?

 もちろん、その時々に快・不快の感覚あるいは感情はあるでしょう。しかし、それは仏教が言う「苦」と言えるのか? 仏教がテーマとしている「苦」なのか(たとえば、「生老病死」)?

 あるいは、彼女は「欲望」を持つのか? 本能的・生理的欲求とは水準がまるで違う「欲望」、その根本である「思い通りにしたい」という意思と感情は、彼女に働いているのか?

 本能的・生理的欲求それ自体は仏教の問題ではありません。トカゲや昆虫の「生き方」は、仏教の関わるところではありません。そうではなくて、これを「欲望」に構成する「思い」の作用こそが、問題なのです(「若くありたい」とも思わない限り、「老い」は「苦」にならない)。

「思う」ためには、物事の比較対照と因果関係の把握が不可欠です(と言うより、それをすることを思考という)。しかし、これは一定の記憶能力が前提の話です。その能力が不十分なままで、「思い通りにしたい」という自覚を、「欲望」「煩悩」レベルの強度で持つことは不可能でしょう。

 だとすると、「欲望」を「苦」の根源と考え、そこから「解脱する」という思考パターンに乗る限りは、彼女は事実上、「解脱」したも同然になります。そうでなくても、少なくとも、もはや仏教や宗教が「導き」「救う」対象にはならないでしょう(彼女にどうやって「教え」を説くというのか? そもそも、どこにそんなことをする必要があるのか?)。

 このことは、仏教の基本概念である「無明」を「根源的欲望」とか「本能的生存欲求」などと言ってすませているナイーブな考え方を、きわめて見当違いなものにします。それが「思う」ことと無関係なら、「苦」の原因になりません。

「無明」の核心は、「思う」こと、すなわち言語と意識にあります。それと無縁な、あるいは意識と言語がほとんど関わらない感覚や情動は、「苦」を生み出す「欲望」とは言えないのです。

 すると結局、言語の機能と作用に対する自覚と批判を方法論的に遂行し、これを通じて「欲望」を構成する「意識」のコントロールに努力することが、言語内(=意識的)存在である者における、仏教修行の内実ということになるでしょう(「解脱」が「記憶障害」とは違うなら)。

 ちなみに、彼女は日頃、あれこれ世話をしてくれる息子夫婦に「ありがとうね、ありがとうね」と言いながら、私の見る限り、穏やかに暮らしています。

閉山しました

2015年11月10日 | 日記


 その人は、最初から最後まで、涙ながらの話でした。

「和尚さん、私の両親と娘は、この半年の間にみな交通事故でなくなってしまいました。もう一人の娘も重傷で、一時は生死を彷徨うありさまでした。いまだに信じられません。そのうえ、事故は全部17日に起こったのです。そんなことってあるものなのでしょうか」

 私は、この方の言いたいことがよくわかりました。とんでもない衝撃だっただろうと思います。そして、そのすべてが同じ日なら、何かあるのではないかと思って当然でしょう。

「奥さん。私が今、そんなことはただの偶然だ、何も心配することはないと言っても、決して気持ちは落ち着かないでしょう」

「は、・・・、はい」

「もう誰かに相談されたのですか?」

「ええ、地元のいろいろ見える人に・・・」

「いわゆる拝み屋さんみたいなひとですか?」

「はい」

「なんて言われたんですか?」

「来月また同じ日に事故で人が死ぬって・・・」

 私はいつもながら、本当につまらないことを言う拝み屋だなァと思いました。しかし、このタイミングでそう言われたら、言われた方のインパクトは大きいでしょう。

「そんことを言われては、奥さんは今、ご心配でしょうね」

「はい・・・」

「で、自分が拝めば大丈夫だ、みたいなことを言われたんでしょう?」

「そうです。お祓いすればと・・・」

「いくらです? 料金」

「1万円だと・・・」

「あのね、奥さんね。あなたは、私がそんな拝み屋はインチキだ、そんなことは決してないと言っても、やっぱり心配ですよね」

「・・・」

「奥さん。あなたは遠方から恐山まで来られてお泊りになるからには、明日の暮らしにも困るという生活ではないでしょう。1万円くらいなら、出せるお金ではないですか?」

「はい、まあ・・・」

「だったら、やってもらえばよいと思いますよ。ただし・・・」

「はい」

「それはあくまで気休めです。何も起こらければ、ああよかったなと思ってすませればよい。拝み屋の『超能力』などと思う必要はありません。そんなものを証明する術はありません」

「そうなんですか」

「万一、来月事故が起こったら、直ちに拝み屋さんと縁を切りなさい。事故は偶然だということになる。そして、その拝み屋さんはもちろん、同じような人間に二度と近づかないことです。事故がまた起こったのはあなたの信仰心が足りないからだとか、自分が拝めば大丈夫だとか言う者の話には、決して乗ってはいけません」

「はい・・・」

「私は、あなたにはもっと他にすることがあるように思いますよ。今のたまらないような悲しみと切なさを、しっかりと抱きしめていることです。そしてあなたと共に悲しんでくれる人との縁を大切にするのです」

 彼女は声をあげてのむせび泣きになりました。

 私は、拝み屋の煽った彼女の不安と心配が、悲しみと切なさを抑圧していることこそ、問題だと思ったのです。

「奥さん。いま奥さんにある事実は、ご両親と娘さんを失った悲しみということだけです。これだけが、確かな事実でしょう。あとは全部、人それぞれの考え方、露骨に言えば、ものは言い様ということに過ぎません。亡くなられた人のことを思うなら、あなたの悲しみより大切なことはありません。いまその悲しみを抱える勇気を持つことが、あなたのなすべきことだと思います。次のことは、その後におのずから開けていくのではないでしょうか」

 今年最後の恐山宿泊者の女性でした。写真はその日のものです。今年は紅葉が早く、閉山前にずいぶんと落葉しました。

 本年ご参拝いただいた方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。