恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

例大祭終わりました。

2017年07月30日 | 日記
恐山恒例の夏季例大祭は、24日に無事終了しました。ご参拝の皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 通常ですと、ひと夏に30℃を超える日が、数日程度しかない恐山ですが、今年は連日の30℃超え、その上警報まで出る大雨もあり、5日間天候が安定せず、ご参拝の皆様にはご迷惑をおかけしました。

写真は、大祭2日目、突然の霧に沈む恐山の様子です。晴れた日の景色も美しいですが、霧の恐山にも独特の風情があります。

 石の積みあがる参道を行くご婦人から、「なんだか、嘘のような風景ですね」と言われました。その言葉で、14年前初めて私がこの地に来たときも、まさに濃霧の最中で、見たこともない異様な光景に絶句したことを思い出しました。

もう一つの写真(共同通信社配信)は、中日に宇曾利湖畔のお地蔵さまの前で行った東日本大震災犠牲者の七回忌法要の様子です。震災から6年、仏事では七回忌に当たります。当日お参りに来られた方々をご案内して、焼香をいただきました。

 法要後、7、8人の女性のグループが近寄ってこられました。

「私たちは皆、被災者です。こんなご法要をしていただいて、本当に感謝します」

 彼女たちは帰り際、受付に「気持ちです」と、お布施をしてくださいました。

 その気持ちの中には、未だ癒えぬ様々な思いがあることでしょう。恐山がそれを預かることのできる場所であり続けることを、私は願っています。

宣伝です

2017年07月20日 | 日記
 前回の記事の追記で、拙著の新刊を紹介させていただきましたが、実はこれから秋にかけて、もう3冊でます。それぞれずいぶん前に依頼されていたのに、「まあ、そのうち何とかね」などと言を左右にして引き伸ばしていたら、とうとう3つの出版時期が重なってしまったのです。

 これから発刊のたびに追記するのも姑息な感じがするので、現在わかっている限りのことを一度に紹介させていただきます。要するに宣伝です。まことに恐縮です。

 明日(21日)には『禅僧が教える心がラクになる生き方』(アスコム)が出ます。

 前回記事で紹介した本とは大違いで、私を直接知っている人、拙著を読んだことのある人、話を聞いたことがある人は、まず全員が、この本のタイトルと装丁は著者が決めたものではないと思うでしょう。その通りです(私がストレートに「ラク」系統の話をするはずがない)。すべて出版社が決めました。

 この本の制作はある編集者の非常に熱心な要請から始まりました。いわく、

「南さんが面会希望の方と話しているような本を作りたい。だから色々とインタビューしてそれを本にしたい。そして、南さんの言葉をもっと多くの人に届けたい」

 このとき、私がグッときたのは、「もっと多くの人」という部分でした。どう見てもごく限られた範囲でウケているとしか思えない私の本や話を、本当に「多くの人」が読めるものにできるのか? どうやって? 私はここに激しく興味をそそられたのです。私は言いました。

「本当にそんなことができるなら、あなた方の言いなりになるから、そういうの作ってよ」

 というなりゆきで、できた本です。驚くべきことにオマケ(ダウンロード動画)付きです。なんでもやると言った以上、企画を断るわけにはいきませんでした。どうなるんでしょう、明日から。

 8月中には2冊目、いまだ題名不詳ですが、神道研究の専門家、鎌田東二氏との対談本(東京堂出版)が出版されます。

 氏からは、過去にあった神道の形而上学化の試みについて、多くのことを教わり貴重な学びの機会になりました。

 さらに『正法眼蔵』ではなく「道元禅師」を考えるとき、禅師の遺した詩文(漢詩や和歌など)をどう評価すべきか、大きな示唆を得ました。けだし、このことは、「考える実存」における論理と情操の問題として、今後さらに一般化できるかもしれません。

 立ち場が違うにもかかわらず、知的興奮を味わう対談ができたことは嬉しいことでした。神父さんに続き神主さん(鎌田氏は神職の資格を持っているそうです)との対談です。私には「異種格闘技」が向いているのか?

 3冊目は10月ごろになるのでしょうか、雑誌に連載していた「超越と実存」というタイトルの論考が本になります(新潮社)。

 これは、私の独断と偏見でゴータマ・ブッダから道元禅師までの仏教思想を串刺しにして論じるという、野蛮な試みをしたものです。

 正体は、私が東京で10年やっていた連続講義のダイジェスト(そのまたダイジェストか)。

 今後さらに仏教の言説に取り組むとき、足場としては役に立ちそうに思い、長い付き合いの編集者の老獪な説得にも乗せられて、力技もいいところの強引さで、まとめてしまいました。

 その彼に言われて書いた、ちょっと本編と不釣り合いなプロローグとエピローグは、思いのほか自分の素直な気持ちが出ていると思います。

 以上、宣伝でした。失礼いたしました。

それは無理筋

2017年07月10日 | 日記
 当ブログで私はしばしば、「悟り」や「涅槃」について、それは要するに特殊な体験なのだとして、その体験が事実起こったとしても、それが何であるかを釈尊が直接説明しない以上、結局のところわからない話だと言ってきました。

 となれば、釈尊以外の人間の「悟り」話は、所詮自分が「悟りだと思ったこと」にすぎません。すると後は、「悟り」言説の正当性および正統性を担保するシステム、これをどう構築するのかという理論的かつ技術的な問題、そして各々のシステムにどれくらいの支持が集まるのかという政治的な問題になるでしょう。

 初期経典には、この辺の事情がすでに意識されていただろうと思わせる記述があります。それは「解脱すると解脱したと知る」という文句が繰り返し出てくるからです。つまり、「解脱」すると、その瞬間に「解脱したとわかる智慧」が生じると言うのです。

 釈尊がこんなことをわざわざ言う必要はありません。彼は単に『解脱した』と言えばよいだけです。したがって、この文句はどう見ても別人の付加だと、私は思います。

 後代になると文句は「解脱」と「解脱知見」という仏教語に整理されますが、「解脱知見」とはまさに、釈尊でもない人間が初めて「悟り」「涅槃に入り」「解脱した」と称される境地に達したとき、彼のその特殊な経験がなぜ「悟り」「涅槃」「解脱」だとわかったのかと問われた場合の用心として、準備された概念でしょう。

 しかし、これはどう考えても無理な話です。「悟り」が何だかわからないのに「悟ったとわかった」と言うとき、その「わかった」が妄想ではないのかどうか判断する基準が、一切無いからです。

 いずれにしろ、「悟り」「涅槃」「解脱」を何らかの特殊な体験、心身状態、意識変様だと考えるなら、「解脱知見」などという後知恵的な無理筋の概念を持ち出さざるを得なくなるでしょう。


追記:
 
 『「悟り」は開けない』(KKベストセラーズ)という本を出しました。書名に自分のアイデアが採用されたのは、『老師と少年』(これはそれ以外に付けようがない)以来、2度目のことです。
 私が仏教をどう考えてきたのか、仏教を方法として何を考えているのかが、おおよそわかる本になっていると思います。