恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「縁起」ノート

2018年06月30日 | 日記
 仏教の中心概念である「縁起」を考えるとき、以下の5つの意味を区別しながら考えたほうがよいと思います。


1、「原因ー結果」関係

 人間の思考規則としての因果律のことで、特に仏教的でもなく、仏教プロパーな概念でもありません。注意すべきは、それ自体が原理のごとく実在するのではなく、あくまで人間の基本的な思考方法だということです。

2、「十二支縁起」

 これは「無明」から「老死」までの12項の因果連鎖で実存を説明するもので、上座部ではこれらを過去・現在・未来に配当していわば胎生学的・実体的に理解(原因が結果を「引き起こす」)しますが、私は実存そのものの構造分析モデルだと考えます。ちなみに、私は「無明」を言語だと考えています。

3、「因果の道理」

 因果律を方法概念ではなく実体的な存在原理と考えて、「輪廻」や「業」の説明に適応するものです。原因・結果の両方に善悪・苦楽を絡めることで、一種の恫喝的論理を構成し、社会的差別を助長する著しい弊害があります。

4、「相依的縁起」

 大乗仏教の「空」の教えの実質をなすとされる縁起の考え方で、AがあるからBがある、同時にBがあるからAがある、したがってAもBもそれ自体で実体として存在するわけではない、と主張します。多くの場合、ナーガールジュナの縁起観だと説明されますが、最初から暗黙の内にAとBの存在が前提されている時点で、非「縁起」的です。

5、「『中論』的縁起」

 ナーガールジュナの『中論』で主題化されている、言語批判を方法として説かれる縁起説です。「行くものは行かない」というパラドキシカルな主張で典型的に示されるもので、私は「関係」を「行為」と考え、存在に関係は先立ち、行為が実存を規定するというアイデアを、『中論』から読み出しています。

 他にも必要な区別をお考えの方は、ご教示ください。

捕捉:自己同一性(自分は誰か)問題

2018年06月22日 | 日記
我々は「自己決定」で生まれてきません。身体も名前も他人の作物であり、言語も他人から植え込まれました。すなわち、「自己」は最初から、そしてその根底から、生物的にも社会的にも、他者に侵食されています。
「自己」とは、いわば、他者の用意した「器」であり、他人から課された「形式」です(「内容」ではない)。この器と形式に記憶を盛り、整序していくわけです。

 したがって、たとえば人物Aが突如記憶喪失となり、その後人物Bとして生きている内に、急に記憶が蘇って「自分はAだと」気がつたとき、仮に、彼が出会う人すべてが、彼の「Aである」ことを認めず、「B」として扱い続けたら、

 その人物は「B」として振る舞い続けないかぎり、ということは「B」であることを受け容れないかぎり、つまり「B」にならないかぎり、いずれ生きることができなくなるでしょう。

「Bである」ことを断固拒否するなら、彼は「A]の記憶を保持したまま、全他者からの「Bであること」の強制に耐えつつ、「AでもBでもない誰か」、あるいは「AでもBでもある誰か」としてしか生きられず、自己同一性は崩壊して社会関係を結べなくなってしまいます。

つまり、ある人物が「Aである」こと、すなわち自己同一性は、自分が「Aである」ことの思い込みの持続と、他者による「彼はAである」という承認によって確定し、維持されるのであり、そのどちらか、あるいはその両方を失えば、自己同一性は維持できません。(本ブログ記事「アンパンマンの哲学」参照)

みんな大好き

2018年06月20日 | 日記
「君も講演で言っていたが、坊さんが霊だの前世だの来世だの、はたまた輪廻だのという話をすると、俄然、聴衆は盛り上がるよな」

「そのとおり。みんな大好き。それまで浮かない顔で退屈そうに聞いていた人たちが、この話になると一斉に顔を上げ、ギラギラした目で話し手を見るもん」

「考えてみれば、梅雨が明けごろから、テレビ局だってヒュードロドロ系の『スペシャル』番組を定番で打つしな」

「以前、某テレビ局からすごい依頼をされたことがある」

「どんな?」

「幽霊の実況中継をしたいんだとさ」

「はあ?」

「ADらしき者いわく、いままでの心霊系番組はほとんど再現フィルムか、あるいは写真がせいぜいです。しかし、今回のウチは違います。恐山の岩場の奥にテントを張らせていただいて、霊が出るまで待ちます、だとさ。爆笑だぜ」

「本気で言ってるのか?」

「番組作る程度には本気だったんだろ」

「なにか、そのテレビ局大丈夫か、って気分になるな」

「ただね、ぼくはね、幽霊が本当にいるかいないかはどうでもいい話なの。そうでなくて、ぼくが興味深く思うのは、なぜ人はみなこの話がこれほど好きなのか、ってこと」

「なるほど」

「こういう番組、飽きずに繰り返されるでしょ。またそれを見ている人も半信半疑だけど、見るでしょ。見る人いるから、作るんでしょ」

「つまり需要があるから供給がある」

「だから『霊感商法』も成り立つ。まさに需要と供給」

「そうだな」

「となると、ぼくはその需要の正体が気になるの」

「どう思うんだ?」

「まあ、簡単だな。誕生と死という大イベントを超えて、自意識の連続性と同一性を根拠づけるものへの欲望だな」

「で、仏教の核心的教えはそれを設定しない」

「というより、『無明』と呼んで肯定しない」

「そんな根拠がないとすると、ないものを欲望できるのか?」

「ないとは断定しない。だから、欲望は消えずに、対象を喪失したまま無限大に膨らんで、裏口から『根拠』を引き込もうとするんだろ」

「根拠は仮説か?」

「当たり前だ。自意識の同一性は本人の記憶と周辺他者の承認だけで構成されている。よしんば記憶が現世を超えて連続しても、他人の承認は連続しない。同一性が維持できるはずがない。あるいは本人の錯覚や妄想と区別できない」

「前世や来世、あるいは輪廻は自意識の問題なのか?」

「あのねえ、自意識の連続性や同一性と無関係なら、そもそも、こんな話をしなきゃいけない理由があるの?」

「ないだろうなあ」

「そう。だから、こういう話から解脱しなきゃいけないの、仏教は」

「幽霊がいても?」

「いても、いなくても」



追記:

 この度の大阪・京都方面の地震によりお亡くなりなった方々に、心よりお悔やみを申し上げ、被災した皆様が一日も早く平穏な毎日を取り戻されることを、深く祈念いたします。

違いがわかる男?

2018年06月10日 | 日記
 いわゆる初期経典といわれるものの中には、「え?」と面食らうような内容のものがあります。

 たとえば、『相応部』に出て来る「家長チッタ」と呼ばれる在家の人物は、仏教で言う「四禅」という瞑想の最高位、「第四禅」にまで至ります。

 この「第四禅」とは、ゴータマ・ブッダがこの禅定からニルヴァーナに入ったとされる境地ですが、するとこのチッタもニルヴァーナに入ったのでしょうか?

 それを証拠立てるように、家長チッタは、自分がブッダより先に逝去すれば、ブッダが次のように予言するだろう告げます。

「それによって家長チッタが再びこの世に戻ってくるような繫縛は存在しない」 

 すると聞いていた外道の修行者が

「白衣を纏う在家者が、このような人間の理法を超えた、知識と見解における真の聖者の卓越した境地である安住に到達し得ると言う」

 と述べ、チッタを賞賛します。

 この記述は、いかにも在家者チッタが逝去にあたりニルヴァーナに入ったように読めます。
 
 もしそうだとすると、仏教の究極目標であるニルヴァーナに到達するのに、出家と在家の区別はほとんど無意味だということになるでしょう。
 
 大乗仏教の経典『維摩経』は、在家修行者の境地が出家修行者のそれをしのぐことを、ドラマティックに物語りますが、そのような思想の淵源が、このチッタにも垣間見えます。

 かりに究極目標の実現において差がないとして、それでも出家と在家に違いがあるとすれば、それははどこに見られるべきでしょうか? この差は無意味で、特に出家などする必要はないのでしょうか?

 けだし、問題なのは最終目標ではありません。その過程です。

 「出家」というライフスタイルの根本的な特徴は、ざっと、性交の禁止、労働の禁止、所有の制限の三つ、あえて付け加えれば定住生活の拒否でしょう。

 性交・労働・所有・定住は、人間が存在すること・生きることを肯定し、前提とした上でなされる行為です。その存在や生を否定し批判しながら、なお死なずに存在し生きているなら、それは実践として、人間の存在や生の根拠を根底から問う態度に転換します。

 というよりも、事実は逆で、それを根源的に問う人間が最終的に到達するライフスタイルが「出家」だということです。

 ここで誤解してはいけないのは、これが現実の振る舞いというより、原理的な思想の問題だということです。実際に「出家」してもそれを問わない人はいるでしょうし、「在家」であろうと問う人はいるでしょう。

 しかしながら、いま私が言いたいのは、そういう「事実」問題ではなく「理念」の問題であり、敢えて言えば、誰であれ「問う」人を「出家」と呼び、「問わない」人を「在家」と呼ぼうということです。

 この問いは、歴史的には、「問う」出家がその生存を「問わない」在家に全面的に依存する(托鉢・布施)という矛盾において、開始されました。これを思想的に評価するなら、問うこと自体に確実な根拠も全面的な正当性もないことを象徴的に意味すると、私は考えます(問わなければいけない理由は何もない)。

 だからこそ、「問う」意志こそが問題になるのです。そして、まさにいかなる根拠もなく問い続ける行為にこそ、「諸行無常」が実存として現成するのであり、そこに「出家」が現実化するわけです。