恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ありふれた驚異

2022年10月01日 | 日記
 幼児期に病弱だった私は、幼稚園は「中退」の身の上で、小学校の最初の頃は、一週間登校して一週間休む、というような有様だったため、周囲の人間との「違い」に先鋭な意識を持たざるを得ませんでした。

 それはまず、「どうして自分はこれほど体が弱いのか」という問いになり、次に「どうして他の人は自分ほど体が弱くないのか」という疑問に結びつき、最終的に「なぜ自分は自分であって、他人ではないのか」という問題に構成されていきました。考えてみれば、これこそ私が生まれて初めて持った「哲学的」問いだったでしょう。

 しかし、この問いは病気と結びついているだけに、初期には体の問題に限定されていて、幼い頭で「違い」を考えても、出てくる結論は結局、「自分の体は他人の体とは別だから」という、ミもフタもないものにしかなりませんでした。

 とはいえ、この「別だから」は、問題の解決にはなりません。いわば人間の身体的な個別性という事実を述べるに過ぎないからです。

 ゆえに、「別であること」は問題のまま私の意識に沈んでいくことになります。

 そしてこのことが、後に面倒な本(哲学思想系)を読み出した頃、「主観」という概念に触れた途端に、強烈な生々しさで浮上してきたのです。

 思春期で自意識が昂進し始めた時期です。「別であること」が、体の問題から思想的問題に転換したわけです。

 自分の考えは自分だけのもの、他人は指一本触れられない。自分が見ているように世界を見ている者は誰もいない、客観的世界などどこにも無い。自分の存在は他のあらゆる存在とは決定的に違うのだ・・・・、というような、今思うと冷や汗がでるような恥ずかしい「思想」(思いつき)に興奮したものです。

 ある有名な哲学者が言った「存在するものが存在していることに驚け」というような文句を読んだ時には、多大な感銘を受け、戯言のような文章をノートに書きなぐった、地球の裏まで穴を掘って入りたいような、いたたまれない記憶があります。

 しばらくしてこの種の熱が下がってきたのは、それほど「主観」が独自で特別で驚異的なら、人間お互いに言葉が通じないだろうと気がついたからです。

 言葉が通じる以上、それほど違った考えや感情、感覚、すなわち違った「主観」を持つわけではないでしょう。

 もちろん、同じ物を見ても、見方によって違いが歴然と生じるでしょう。ただ、この「違い」の最終的な担保は、身体が別であること、その個別性にあるはずです。つまり、「主観性」の根本的なリアリティを支えているのは、身体の「個別性」というありふれた事実ではないか・・・そう思うと、子供の頃に学校を休んで寝ていた布団の中を思い出して、「形而上学的興奮」が一挙に冷めたような気がしたものです。

 私が面倒で抽象的な問題を考えるとき、常に「驚異的」アイデアを「ありふれた」経験に結びつけて考えるのは、「三つ子の魂」的なところがあるのだろうと思います。