今はときめく言論人宮崎哲弥氏は、私の知る限り「仏教者」を公言する唯一の評論家です。
実は、私と彼とは、彼に誘われて何度かメディアでの対談をさせてもらうなど、かれこれ10年になんなんとする「腐れ縁」(宮崎氏談)の仲なのです。
最初の出会いは某出版社が企画した対談で、これはもちろん本になるはずだったのですが、その後メディアでの活動が以前に倍して多忙になった彼が、本の原稿を数年を経てもまったく校正できず、急遽私の単著(『賭ける仏教』)に衣替えして出版されるに至りました。
私は対談本として出されることを切望していたので、極めて残念な結果でしたが、彼にはこの対談が自身初の仏教書になるので、きちんと手を入れたかったらしく、それができなくなった以上は、自分の名前を冠する本にしたくなかったのでしょう。しかし、内容は惜しいので、私の単著にするよう強く要請してきたわけです。
以来私は、いずれは宮崎氏が渾身の仏教書を出すだろうと思って期待していましたが、今般ついに『仏教論争』(ちくま新書)が世に問われました。
この書は、仏教の核心中の核心コンセプトである「縁起」を、和辻哲郎など学者・有識者の論争を検討することで、犀利に分析した、実にユニークな書物です。まさに満を持したと言うべきものでしょう。
書物の優秀さはもちろんですが、私がいま言祝ぎたいのは、一貫して仏教を生きる軸に定めてきた、まさに「仏教者」と呼ぶにふさわしい言論人たる彼が、実に堂々たる「仏教書」をものし、一般読者および仏教界に大きな貢献をしたことです。
私は、現代日本において仏教がさらに多角的に活性化しつつあることを、彼のような立場の人間による、このような本の登場に、深く実感しています。
実は、私と彼とは、彼に誘われて何度かメディアでの対談をさせてもらうなど、かれこれ10年になんなんとする「腐れ縁」(宮崎氏談)の仲なのです。
最初の出会いは某出版社が企画した対談で、これはもちろん本になるはずだったのですが、その後メディアでの活動が以前に倍して多忙になった彼が、本の原稿を数年を経てもまったく校正できず、急遽私の単著(『賭ける仏教』)に衣替えして出版されるに至りました。
私は対談本として出されることを切望していたので、極めて残念な結果でしたが、彼にはこの対談が自身初の仏教書になるので、きちんと手を入れたかったらしく、それができなくなった以上は、自分の名前を冠する本にしたくなかったのでしょう。しかし、内容は惜しいので、私の単著にするよう強く要請してきたわけです。
以来私は、いずれは宮崎氏が渾身の仏教書を出すだろうと思って期待していましたが、今般ついに『仏教論争』(ちくま新書)が世に問われました。
この書は、仏教の核心中の核心コンセプトである「縁起」を、和辻哲郎など学者・有識者の論争を検討することで、犀利に分析した、実にユニークな書物です。まさに満を持したと言うべきものでしょう。
書物の優秀さはもちろんですが、私がいま言祝ぎたいのは、一貫して仏教を生きる軸に定めてきた、まさに「仏教者」と呼ぶにふさわしい言論人たる彼が、実に堂々たる「仏教書」をものし、一般読者および仏教界に大きな貢献をしたことです。
私は、現代日本において仏教がさらに多角的に活性化しつつあることを、彼のような立場の人間による、このような本の登場に、深く実感しています。