恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

友の本

2018年05月30日 | 日記
 今はときめく言論人宮崎哲弥氏は、私の知る限り「仏教者」を公言する唯一の評論家です。

 実は、私と彼とは、彼に誘われて何度かメディアでの対談をさせてもらうなど、かれこれ10年になんなんとする「腐れ縁」(宮崎氏談)の仲なのです。

 最初の出会いは某出版社が企画した対談で、これはもちろん本になるはずだったのですが、その後メディアでの活動が以前に倍して多忙になった彼が、本の原稿を数年を経てもまったく校正できず、急遽私の単著(『賭ける仏教』)に衣替えして出版されるに至りました。

 私は対談本として出されることを切望していたので、極めて残念な結果でしたが、彼にはこの対談が自身初の仏教書になるので、きちんと手を入れたかったらしく、それができなくなった以上は、自分の名前を冠する本にしたくなかったのでしょう。しかし、内容は惜しいので、私の単著にするよう強く要請してきたわけです。

 以来私は、いずれは宮崎氏が渾身の仏教書を出すだろうと思って期待していましたが、今般ついに『仏教論争』(ちくま新書)が世に問われました。

 この書は、仏教の核心中の核心コンセプトである「縁起」を、和辻哲郎など学者・有識者の論争を検討することで、犀利に分析した、実にユニークな書物です。まさに満を持したと言うべきものでしょう。

 書物の優秀さはもちろんですが、私がいま言祝ぎたいのは、一貫して仏教を生きる軸に定めてきた、まさに「仏教者」と呼ぶにふさわしい言論人たる彼が、実に堂々たる「仏教書」をものし、一般読者および仏教界に大きな貢献をしたことです。

 私は、現代日本において仏教がさらに多角的に活性化しつつあることを、彼のような立場の人間による、このような本の登場に、深く実感しています。

悲しみの意味

2018年05月20日 | 日記
 子供のころに、非常に大きい精神的ダメージを受けた人がいました。そのダメージは、幼い心では消化し切れないものだったので、彼はそのダメージそのものを封印します。

 すなわち、「もうすんだこと、もう気にしない」と自分に暗示をかけ続け、他人に対しては常に明るく振る舞い、自分の中の暗さと影を外部に一切見えないように努力したのです。

 しかし、この無理な心理的プレシャーは、ついに心身にはけ口としての様々な症状を引き起こしました。 不眠、抑鬱、自傷、過呼吸エトセトラ。

 その後、彼は様々な医療機関やカウンセラーのもとに通いましたが、一向に状態は改善しません。切羽詰まって、当てにしていたわけでもなく、ある寺の住職を訪ねてみました。

 すると、住職は彼にこう言いました。

「あなたは、その一番つらい経験を、一番わかってほしいと思う人に打ち明けたこととがありますか?」

「今更そんなことをしても無駄です」

「違います。相手がどう感じるかなど、もうどうでもいいのです。あなたが他人に自分の辛さを言葉にして出し、心から泣くことが大事だと、私は思うのです」

 その人は住職の言い分に納得したわけではなかったのですが、ある日、なんとなくそういう気分になって、結婚相手に自分の経験を打ち明けました。

 すると、どうなったか。

 彼は話しました。話していたら、急に涙が出てきたそうです。あれ?あれ?、と内心驚いていたら、今度は遠くから波が寄せてくるように、悲しみが彼の心を飲み込んでいったのです。

 この日を境に、その人の心身の症状は改善に向かい始めます。完全に消えることはなかったにしろ、それまでよりずっと、気持ちが自由に軽くなったのです。

 この話で重要なのは、感情から行為や身体反応が起きるのでなく、言って泣くという行動が、初めて悲しみという感情を呼び起こし、心身の状態を変えたということです。

 おそらく、それまでの彼の最大の問題は、ダメージを受けたという事実を否認し続けていたことなのでしょう。

 言葉で他人に語るという行為は、この否認の解除であり、自己の実存の損傷を認めることです。泣くという反応が起きるのは、意識の下で否認がいかに心理的な無理を強いていたかの証拠です。そこからの解放が涙という形で身体に表現されたのだと思います。

 悲しみとは、喪失の感情です。ならば、自己の損傷、つまり実存から大切な何かが失われていることを自ら認め・自覚しない限り、悲しめるわけがありません。

 すなわち、悲しみとは、損傷した自己をその自己が赦し、受け容れる行為なのです。それがちゃんとあってはじめて、人は「立ち直る」ことができる、「立ち直り」始めるのです。

開山しました。

2018年05月10日 | 日記
  


 さる5月1日、恐山は無事、本年度の開山を迎えることができました。写真は、恐山の僧侶、石原さんが境内唯一の桜から撮影した山門と大尽山です。今年は下北半島もゴールデンウイーク前には満開になりました。

 以下は、開山に際して私が参拝の皆様に行ったご挨拶です。


 皆様、ようこそお参りいただきました。今年は平成30年、平成最後の年の、最初の法要にご参加いただいたことになります。私事で恐縮ながら、私は今年還暦でございまして、これまでの人生、後半まるごと平成に重なりました。

 とはいえ、霊場恐山とご本尊地蔵菩薩様は1200年になんなんとする歴史を持ちます。それにくらべれば、30年などあっという間でしょうが、それでも、私にも皆様にも、それぞれに悲喜こもごも、様々な出来事や変化があったことと存じます。

 しかしながら、世の中には、いかに物事に移り変わりがあろうとも、我々が同じように大切にしたいこと、大事に守り続けたいこともあるはずです。

 私が思うに、仏教の立場で大切にしなければならないものとは、まずは人の縁、人間関係ではないでしょうか。

 このとき、大切にすべき人間関係が仲良しで、好きな人との間だけのことなら、事は簡単でしょうし、取り立てて「すべき」教えとして強調する必要もないでしょう。人情の赴くに任せればすむ話です。

 問題は、嫌いな人、気の合わない人、相性の良くない人との関係をどうするか、でしょう。これを頭から無視する、関係は断ち切ると言うなら、それは俗世の話にはなっても、仏教の教えにはならないと、私は思います。

 第一、世の中にはたとえ嫌いでも、気が合わなくても、一緒にいなければならない人がいるものです。それは家族にも親族にも、隣近所にも職場にもいるでしょう。

 とすれば、この関係をどう工夫していくか、断ち切らず持ちこたえていく、なんとかやり過ごして、少しでも良い方向に変えていく努力が必要であり、ここにはある意味で、もっとも切実で厳しい「修行」があるわけです。

 おそらく「幸福」とは、この苦さに満ちた営みの果てにようやく姿を現してくるものではないでしょうか。

 この1年の皆様のご多幸を心よりお祈りいたします。