恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「遠さ」の功徳

2017年02月20日 | 日記
 私と同世代のある男性は、サラリーマンをしながら、目の不自由な父親とずっと暮らしてきました。彼は一人っ子で、母親は8年前になくなり、転居を繰り返した父親には、いわゆる親戚付き合いがほとんどなく、結果的にこの二人世帯は孤立に近い状態だったと思われます。

 数年前からは、認知障害とまでは言わなくても、父親の記憶や判断には曖昧さが目立つようになり、90歳を過ぎた最近では耳がほとんど聴こえない状態だそうです。

 しかも、おそらくは現在よりもずっと露骨できびしかったであろう、若いころの視覚障碍者への差別的扱いのせいか、他人に対する深い猜疑心が身についてしまって、息子である彼の世話しか受け付けないのだそうです。施設入所とまではいかなくても、デイサービスや自宅でのケアなど、公的その他の様々な介護サービスを部分的にでも利用したいと思っても、彼らをまったく受け付けず、「他人の世話にはならない!」「息子が親の面倒を見るのは当たり前だ!」の一点張りだそうです。

 耳の聴こえが悪くなってからは、意志の疎通がいっそう難しくなり、会社に出勤しているとき以外はほとんどつきっきりでいないと、父親は感情が不安定になり、まだ立って歩けるだけに、いつ何をするかわからない怖さがあると、彼は言いました。

「頑張ったんですが、もう限界です。そんなことを思ってはいけないんですが、死んでほしいと思うときも。最近は怖くてニュースが見られません。介護がらみの殺人事件が報じられると、自分もしてしまいそうで」

「限界も限界、その状態、もう危険ですよ。殺人などはともかく、あなたが倒れたら父上もアウト、共倒れでしょう」

「職場でも顔つきが変わってきていると言われてます。持病も悪化してきましたし」

 そう言いながら、彼は父親の死を非常に怖れていました。両親から十分な愛情を注がれて育ち、ずっと独身の彼には、いまや唯一の身内である父親は単に大切なだけではなく、矛盾するようですが、この苦しい生活の支えでもあるのです。ですから、私が「もう限界」だと言っても

「でも、父親がどうしても嫌がることを無理強いするのは、あまりに可哀そうで」

 すでに自治体の福祉関係の人や父親の主治医なども、二人の苦境を心配して、何度も足を運びサービスを受けるように説得しているようなのですが、状況は好転していません。

 話を聞き終えて、私は問題が父親である以上に、「可哀そうで」と言う彼にあると考えました。今や彼は濃密な父親との関係に支配されて、窒息寸前なのです。私は断言しました。

「ダメです。可哀そうでも、第三者を入れなさい。デイサービスなど利用して、あなた自身が一人になれる時間を必ず作るべきです。それができなければ、早晩お二人は共倒れです」

「わかっているんですが・・・」

「それだけではダメです。父親には自分の苦しさをもう一度正直に話して、了解されなくても物理的にデイサービスの場所に連れていくべきです。そして、移動先の世話を受け入れなくても、職員に事情を話して、半日くらいは滞在させてもらうのです」

「やはり、そうすべきでしょうか」

「どうしても必要です。これは、何より父上のためです。父上に深い愛情を持つ貴方が、その愛情のとおりに暖かく父上に接するには、休息の時間が是非とも必要です。父上が平穏な最期を迎えるためには、それこそ貴方が今しなければならないことなのです」

 おそらく、私が言ったようなことは、彼自身が十分承知で、周囲からは何度も助言されたことでしょう。しかし、自分自身の考えや、あまりに近い関係の人からの助言、あるいは助言して当たり前の人からの意見は、往々にして有効ではありません。

 そのような人がそういうことを言うのは、立場上(つまり、利害関係や役割関係において)当然のことで、自分たちの「特殊な事情」を考慮した上での「客観的」意見には聞こえないからです。
 
 私のような「見ず知らず」の言い分が時として効くのは、関係が「遠い」からです。その「遠さ」が、自分の置かれた「特殊な事情」の困難を「客観的」に彼に認識させる機会となるのでしょう。生きていると、「親身」ではないアドバイスが役に立つときもあるのです。

 以後、彼は近況の連絡をしてくれます。


時間と言語

2017年02月10日 | 日記
ゴータマ・ブッダの言葉を伝えるとされる初期経典に、次のような趣旨の話があります。

<言葉には「かつて存在した」「いま存在している」「これから存在するだろう」というように、過去・現在・未来の時制がある。このことは、立派な修行者はみな承認していることである。
 しかるに、無因論者(因果律を認めない者)・非行為論者(「業」を説かない者)・虚無論者(偶然主義者)らは、この時制を否定して当たり前なのに、そうしない。世間から時制を否定する者だと非難されるからである>

 この話が面白いのは、我々が意識する時間の秩序と因果律(「原因ー結果」概念)の相関性を明瞭に述べているからです。このとき、私が思うに、過去・現在・未来の時制が成立しているから、因果律を設定できるのではありません。

 自らの体験を、因果律で秩序づけるから、そこに前後関係が創発され、過去・現在・未来と一方向に「流れる」、線形イメージの「時間」が現象するのです。つまり、「流れる」線形時間は、言語が構成するわけです。

 ということは、言語の作用を減殺すれば、「流れる」「時間」は消失するでしょう。すると、どうなるか。

 けだし、『正法眼蔵』「有時」の巻はこう言います。過去・現在・未来という秩序を持つ「時間」は解体され、感覚される事象がいかなる方向性も持たずにただ持続し・遷移し続ける「而今(しきん・にこん)」が現成します。そして遷移し続ける「而今」の運動は「経歴(きょうりゃく)」と呼ばれます。

 このとき、事象がその「上」や「中」に展開する「流れる」「時間」それ自体の存在は否定されて、事象と「而今」は区別できない状態になります。この状態が「有時(うじ)」です。

「時間」ではなく「而今」、「流れる」のではなく「経歴する」。その時、我々は「存在している」と言うよりも、「有時している」のです。