恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

年の瀬の放言

2017年12月30日 | 日記
 年末に鬱陶しい話ですみません。ご海容ください。

 人並み以上に道徳的とは到底思えない政治家が決め、誰でもそうであるように、道徳的かどうかは時と場合と人による教員が、学校で教科として「道徳」を教え、しかもそれを成績のごとく評価するという、およそ馬鹿げたことをするくらいなら、ぜひ試みてほしいことがあります。

 それは、いわば「生死」科を義務教育にすることです。つまり、家族をつくり、次世代を担う子供を持ち、彼らを育てていくこと。そして、ついに自分や家族が老いて死んでいくとはどういうことか ーーー 自分自身についても他人についても、それをどう考え、どう扱っていくかを、実地に学ぶのです。

 私は、時々、面会希望の人たちと話していて、この人はどうしてこれほど親との関係で苦労しなけれいけないのかと、気の毒になることがあります。また、世上では児童虐待の報道が絶えず、どうみても親にならない方がよかった思う人物を目の当たりにします。


 他方、老いと介護の問題も、家族が小型化するにつれ、単に身内の「情愛」で始末がつかない状況になり、私自身も周辺で「介護殺人」一歩手前かというような、深刻な苦境にある人たちを見聞きします。

 私は児童虐待や高齢者の虐待は、レイプ同様、「魂の殺人」に近いと思います。特に児童虐待は、その深刻な精神的後遺症を考えると、「殺人未遂」レベルの刑罰に相当すると思います。

 今や、我々の社会は、家族を作り、子供を持ち・育てること、老いて死ぬことと看取ること、これを家族や地域において「自然に」学び身に着けることのできる環境にありません。赤ちゃんやお年寄りと日常を共にすることが、とりわけ人口が集中する都市部では、普通のことではないのです。

 それらの意味と方法(公的補助・サービスの現状を含む)を、社会的配慮の下、きちんと早いうちから教育しなければいけない時代がついに到来したのではないでしょうか。

 たとえば、小学校に保育園、中学校に高齢者施設(逆の方がいいか?)を万遍なく併設してみてはどうかと、私は最近よく思うのです。

 そこで乳幼児や高齢者と否応なく触れながら、生きていく過程において起きてくる具体的な問題を発見しつつ、身体的行為を通じてそれに取り組む。これによって人間の「生死」の現実を学ぶほうが、よっぽど「道徳教育」に資するはずです。

 もしそんな教科があれば、万一虐待されている児童・生徒がいたとしても、彼はそれがどれほど理不尽なことか気づけるかもしれません(ご承知のように、被虐待児はそれでも親を庇うし、その結果自分の方が悪いと思い込もうとするケースが多い)。

「子」を持つと決めた瞬間に、そこに無条件で一方的な責任が「親」と、親子関係を規定し次世代を必要としている「社会」に発生します。

 動物が行うことのない看取りは、いわば人間として社会に生きることの代償であるとともに、尊厳でしょう。

 その責任を果たし、代償を引き受け、尊厳を得るために、学校での「生死」科という提案は役に立たないでしょうか? 少なくともオヤジの思い込みだけでやっている「道徳」科(こんな浅薄なことを主導しているのは、中年以上の男に違いないと思う)より数段マシだと、同じオヤジの(もうジイさんか)私は思うのですが。

 今年も本ブログをお読みいただき、ありがとうございました。皆様の平穏な迎春を心より祈念申し上げます。

遅ればせのご報告

2017年12月20日 | 日記
 年の瀬に遅ればせのご報告と御礼を。

 今年恐山で3回行いました「坐禅と講話の会」、全部で49名の方をご参加をいただきました。ご参加の皆様、まことにありがとうございました。またお疲れ様でした。

 平均すると1回が16名前後となりましたので、結果的に、とても余裕を持って行うことができました。

 坐禅は初回20分、翌朝30分でしたが、皆さん熱心に坐っていただき、中には初心者とは思えない坐相の方もおられました。

 講話は、いくつか禅問答を取り上げ、それをネタに仏教のアイデアを講釈しましたが、レジュメ通りに終わらない私の話の常として、半分もご紹介できませんでした(いつでも、どこでも、この種の「私流」講義≪法話や講演は別≫は、どうしても中途で時間切れになる)。反省しています。

 来年の検討課題としては、すでに複数回の参加者もおられるので、次回から初心者コースと経験者コースに分け、年2回で行ってはどうかと考えています。

 あと驚いたのは、過去に2度だけ行ったことのある「恐山の参禅」を、復活させてほしいという要望があったことです。あれを知っている人がいたこと自体が驚きでした。

「恐山の参禅」は、2泊3日で行う、永平寺などにおける修行僧の僧堂生活により近い内容での、いわば「簡易修行体験」的催しです。以前、歌手で俳優の土屋アンナさんが恐山に来られ、これに近い修行を体験していただき、NHKが放映しました。大よそはあの通りで、動画投稿サイトにまだ番組がUPされているかもしれません。

 ただ、これを行うのはなかなか簡単ではなく、来年すぐに実施するかどうかの判断は保留中です。

 いずれにしろ、ご要望やご意見をいただきながら、来年も行いたいと考えていますので、よろしくお願いします。

気持ちと言葉

2017年12月10日 | 日記
 依頼されて、何らかの思いのある方と面談することがあるのですが、そういう時に、特に若い人からしばしば言われるのが、

「そうです、そうなんです、それが言いたかったんです」とか、

「どうして私の気持ちがわかるんですか?」とか、

「あなたに言われて、やっと自分の気持ちがわかりました」などなど・・・。

 実を言うと、私は相手の気持ちがわかっているのではありません。だって、他人ですから。想像しているだけです。想像して、相手の言いたいことはこんなことかな、と思うわけです。

 こういう相手と話しているとわかってくるのは、自分の気持ちを他人に語る基本的な言葉の力が不足していることです。だから、こちらが想像して、こんなことを言いたいんだろうなと、必要そうな言葉を渡してやると、まさにその言葉が相手の気持ちの輪郭をはっきりさせるわけです。

 すると、こちらは言葉の補助をしただけなのに、そういう言葉を提供できるのは、自分の気持ちがわかるからだろうと、相手は思うらしいのです。

 現代の若い世代は、SNSなどで、膨大な言葉をやり取りしています。私などには、それが言葉の大量生産・大量消費の経済活動のように見えます。すると、その「市場」からは、厄介なもの、難しいもの、否定的なもの、苦しいものなど、「売れない」言葉は流通しにくく、排除されていくでしょう。

 そうでなければ、そういう言葉は、単純なのに不明瞭な断片と化して、地下に潜って方向を失い、ただ渦巻くことになるように思います。

 しかし、「自己」という実存には、まさにそういう「売れない」ことを、必要な時に確かに明らかに他人に語る言葉が必要なのです。その言葉が萎えるのは、深刻な危機と言えるだろうと、私は考えます。

 ただ、最近思うのは、この状況が、どうやら若い世代に限らないらしい、もっと上、中高年といわれる世代にも言えるかもしれない、ということです。

 彼らの場合、言葉の力の不足というより、自分の「切ない」状況にきちんと向き合い、考え、最後にそれを言葉にするだけの、時間と余裕がないのです。そんな「非生産的」なことをしていたら、「市場」の「競争」に負け、「レース」に後れるからです。

 この状況は、若い世代同様、実存を蝕むでしょう。崩れるとき、言葉と実存は共に崩れるのです。