恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ありがちなこと

2023年08月01日 | 日記
「禅問答」と言うと、わけのわからない話の代表のように言われますが、すぐにわかるだけでなく、大抵の人が身につまされるような問答もあります。

 ある修行僧が、老師に質問しました。

「『仏の道に到ることは、難しいことではない。ただ選り好みすることを嫌うのだ』と言いますが、わずかでも言葉に出してそう言えば、選り好みでしょう。ここのところを、老師はどのように修行僧に教えて下さるのですか」

 ここで言う「選り好み」をするには、選択肢が用意されねばならず、ということは、「選り好み」の前提として、物事の「区別」が必要です。この「区別」は、言語の根本的な機能であり、さらに言語には「区別」から生じる「意味」を、それ自体で存在する「実体」であると錯覚させる力があります。この錯覚を解除しない限り、無常・無我・縁起の教えは体得できませんから、修行僧が引用する一文にも道理があります。
 
 だとすると、この引用された言葉も、言葉である以上は「区別」に基づくだろうから、「選り好み」になるだろうという修行僧の問いも、痛いところを突いていると言えるでしょう。

 これに対して、老師は言います。

「なぜ、君の挙げた言葉を含む全文を引用しないんだね」

 すると、修行僧が

「自分が覚えているのは、これだけです」

 そこで、老師は言います。

「まさにそれを『仏の道に到ることは、難しいことではない。ただ選り好みすることを嫌うのだ』と言うのだよ」

 老師の言は、我々がよく行いがちな、「自分に都合の良いところだけ、引用して使う」という態度への批判でしょう。ある単語・文・文章の意味は、それを含む全文のコンテクスト(文脈)に規定される以上、その全文の意味するところに見通しが立たない限り、部分の意味をきちんと捉えることはできません。老師はそこを指摘しているわけです。

 これはまったくその通りで、我々も肝に銘じなければいけないことですが、老師の言葉でもう一つ重要なのは、「選り好み」をしないからと言って、言葉そのものを否定するという「選り好み」をしてもダメなのだ、ということです。

 言語に囚われることと、言語を全否定して「言葉を超えた真理」を主張することとは、「実体」を設定する態度としては、変わりはありません。

 ある言葉が発せられた時、それはどういう条件下で、何を狙って言われていて、どれくらいの有効範囲を持つのか、それを慎重に考えることが、「選り好み」をしない態度なのです。すなわち、あくまでも言語によって、言語を相対化し、言語の限界を示すという、徒労に似た作業こそ、仏教における言語の扱い方なのだと、私は考えています。