恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「セレブ」の不安

2007年04月29日 | インポート

 ここ数年、頻繁に聞くようになった、いささか耳障りな言葉に「セレブ」というのがあります。どうやら、「上流階級」「金持ち」のようなニュアンスの言葉として使われているような気がしますが、英語のcelebrityは、「名士」とか「有名人」の意味です。

 この言葉がもてはやされるのは、それにあこがれている人が商売になるほど多いのか、テレビのワイドショーのネタとして面白いからなのかわかりませんが、そうなりたいと思っている人は少なくないのでしょう。

 人間は他者からの承認において「自己」たりうるのですから、「セレブ」であることこそ最も充実した「自己」の在り様だ、と思う人もいるかもしれません。が、それは違います。「セレブ」として羨望の対象となっているのは、「自己」ではなく、「自己」の「持ち物」です。

「持ち物」は金であったり、権力であったり、地位であったり、美貌であったり、才能であったり、人様々でしょうが、要はただの「持ち物」ですから「自己」そのものではなく、「持ち物」である以上、いずれは「手放さねばならぬ物」です。「持ち物」即「自己」という錯覚のまま生きられる人は、それはそれで結構な人生ですが、「持ち物」と「自己」が別だと気がついた「セレブ」は、不安を持たざるを得ません。そして、この違いに気がつくことは、仏教において大事なステップです。

 他者から「自己」が承認されるとは、すなわち他者と深く充実した関係を作るということは、「持ち物」の問題でないのです。私が思うに、こうした関係は、まず第一に、なんらかの経験を分かち合うことによって、とりわけ苦境を共にするような経験をすることから生まれてきます。いわば「同じ釜の飯を食う」ような経験です。

 もう一つ大切なのは、他者がそこに存在することへの敬意です。それは、彼がまさにそのような彼であることを理解しようとする、一種の想像力と言い換えてもよいかもしれません。

 経験を分け合うこと、そして他者へ敬意、この二つは、「自己」を確かに制作するときの、最も大事な条件にあたると、私は思います。


まもなく開山

2007年04月20日 | インポート

Photo_54  このブログもなんとか1年続き、恐山はまもなく今年も開山となります。今日からスタッフなどが恐山入りし、境内の整備、宿坊の準備にかかりました。

 むつ市から続く恐山街道は、きれいに除雪されています。例年ですと、街道沿いの山肌には、まだまだかなりの積雪があるのですが、今年はこのあたりもご他聞にもれず暖冬で、いつもよりはるかに少なく、地面がずいぶん見えていました。写真のとおり、恐山境内にもほとんど雪はありません。

 宿坊では、電気関係の工事関係者が、一冬の間完全に停止していた機器の復旧にかかっています。こうした作業にほぼ10日間かかり、5月1日に正式に開山となります。Photo_57

 ちなみに、現在、恐山の総門前までは行くことができますが、境内には入れません。予定では29日の連休初日には、境内に入り、参拝が可能となります。ただし、法要と宿泊は、5月1日からで、それ以前にはできませんので、ご注意下さい。

 今年も皆様のご参拝をお待ち申し上げます。


「役に立たない」仏教

2007年04月11日 | インポート

 時々、人前で話をしたり、本を書いたりしていると、こんなことを言われることがあります。

「あのねぇ、仏教とか禅とか、なんか浮き世離れしたことばっかり言ってるでしょ。もう少し世間で普通に暮らす人間に役に立つような教えってえのは無いのかね」

 私が思うに、残念ながら、仏教から直接「処世訓」や「道徳訓」めいた話を引き出そうとしても、それは見当はずれでしょう。もちろん、「処世訓」や「道徳訓」に重なる部分も数多くあります。しかし、それは結果的にそうなのであって、仏教のテーマではありません。

 だいたい、「浮き世」はもともと「憂き世」なのであり、「憂き世離れ」することこそ、仏教の本領です。ここがよくわからないと、たとえば、仏教における「無我」の教説を、単純に「わがままを言わない」という「滅私奉公」の意味に読み替えて、戦死や過労死をあおるような話を「説教」する人間が出てきたりするのです。

 仏教の教えを直接「世間」に適応することには慎重であるべきです。そうではなくて、「世間」の有り様を問い直し、見直す視点を提供することにこそ、仏教の意味はあるはずです。すなわち、「役に立たない」ことにおいて「役に立つ」わけです。

「また、わけのわからないへ理屈を・・・」と言う人もいるでしょうが、ここはご辛抱いただくほかありません。さらにあえて言うなら、私は概して「わかりやすく」「やさしく」説かれた仏教を信用しません。それはあくまでも、その程度の「説明」「解説」として付き合うべきであり、仏教自体がわかりやすくなったり、やさしくなったりするわけではないのです。

「悪い行いをやめよう。善い行いをしよう。そうして心を浄める。これが仏さまの教えです」

 これは、古来、あらゆる仏に共通する根本の教えとされているもの(「七仏通戒偈」)です。読めば意味は子供でもわかります。ですが、果たしてこれは「わかりやすい」「やさしい」教えなのでしょうか?

 宣伝をひとつ。先日NHKラジオにインタビューされました。4月22日の朝8時半に、たしか第2放送の「宗教の時間」という番組に出ます。よろしければ、お聞き下さい。

 お知らせひとつ。5月の「仏教・私流」は21日の午後6時半からです。


仮想と夢と現実と

2007年04月03日 | インポート

 ある人と話をしていたときのこと。彼、問うていわく、

「バーチャルなものと現実とはどこで区別したらよいと思いますか?」

 私、答えていわく、

「思いどおりにならないものが、現実です。あるいは、本人がそれを望まないのに、彼の考え方や行動パターンを変えてしまうものが、現実です。それ以外は、根本的にバーチャルとリアルを区別できないと思います。ということは、リアルとは本質的に苦しいものです。お釈迦様の説くとおりですね」

「しかし、夢の中でも、思いどおりにならず、苦しいときがありますよ。これもリアルなんですか?」

「夢を見ている最中の当事者にとっては、まちがいなく現実で、リアルでしょう」

「では、夢と現実はどこで区別するのですか?」

「覚めるかどうか、ただそれだけです。夢に夢の根拠を求め、現実に現実である理由を求めても、それは無駄というものです。両者を区別するのは、目覚めという出来事ないし行為だけです。ならば、夢とは覚めてしまった『現実』であり、現実とは覚めない『夢』だと言えるでしょう」

「しかし、目覚め自体が夢だいうこともあるでしょう」

「そのとおり。だから何度も目覚めなければなりません。道元禅師が『夢の中で夢を説く』と教えるのは、まさにそこのところです。仏教はそこを修行するのです」

 時には、世間話からこういう問答になることもあるのです。