恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

戦士の心情

2008年08月29日 | インポート

 先だって、ある法事の後席で、小柄だけれどガッチリした体格の、初老の男性と隣り合わせになりました。とても礼儀正しい人で、まるで修行僧みたいな身のこなしだなと思っていたら、最近自衛隊を定年で退官したという方だったのです。

 とても気さくな人で、いろいろ話をしているうちにすっかり打ち解け、お互い身の上話までし始めた頃、私は前から機会があったら訊いてみたかったことを尋ねてみました。

「さっきの話ですと、あなたは中隊長くらいの立場までつとめられたそうですが、部下はどのくらいいたのですか?」

「私の場合で、300から400人くらいが指揮下にいましたね」

「すると、そういう方々と日ごろ実戦を想定した訓練などもなさるのでしょう。私などが想像できない大変な訓練もされるんでしょうが、そういうことを積み重ねていると、時々、実際に戦ってみたいという気持ちになりませんか? 訓練ばかりじゃ仕方がない、物足りない、みたいな」

 すると、彼は眉毛を思い切り下げて笑い、こう言いました。

「いや、それは和尚さん、正直、若い一兵卒のころはそう思ったこともありますね。ところがね、年月がたって少しづつ昇進するでしょう。すると部下を持つ。それがだんだん増えてくるんです。そうするとですね、こいつらだけは死なせたくない。自分が死ぬのは構わないけれど、彼らはなんとか生かしてやりたいと思うようになってくるんですよ。自分が隊長である間、どうか何事もないように、戦って死んだりすることのないようにという、若い頃とは全然違った気持ちになるんです」

 そういうものかと、私は感じ入って聞いていました。

「実際に戦場に出て相手と戦う立場の者は、誰も戦争を望まないでしょう。戦争したがったり、戦争をすることに躊躇のない人間というのは、自分が殺し合いの前線に出ていく心配はないと信じている者だと思いますよ」

 戦争の矛盾は数々あれど、これもまた大きな、そして滑稽な矛盾でしょう。


聞いた話、二つ

2008年08月21日 | インポート

その一。最近大病した友人の話。

「むかし、ばあちゃんがさあ、命ってのは持ち物じゃなくて預かり物だって、よく言ってたな。だから丁寧に使って返せって。この歳になって、身にしみたよ。」

 こういうことを言わせるものこそ、真っ当な信仰であり、真の教養だと思います。

その二。知人の坊さんの話。

「近くの寺で住職が引退して、弟子が後を継いだんだが、それが娘でね。しかも結婚した相手が在家から出家した男なんだが、こっちは副住職になるんだ」

 世襲の是非はしばらく措いて、この話を「実にイイね」と思うか、「変な話だ」と思うかで、日本の伝統的仏教教団の未来は違ってくるでしょう。


私は泥になりたい

2008年08月10日 | インポート

 蓮華という花は、仏教ではとても大切にされています。たとえば、仏像が安置してある台は「蓮台」と呼ばれていますし、寺院には蓮華を模した装飾品や道具がたくさんあります。また、恐山にしても、その開山伝説では、慈覚大師が、宇曽利湖をめぐる八つの山の様子が蓮華の花のように見えるというので、これを瑞相として霊場と定めた、と言います。

 さらに、この蓮華は修行者の象徴とされて、よく説教などに出てきます。泥の中から育って水中からつぼみを出し、最後に大輪の花を咲かせる姿が、煩悩や苦悩の中から修行によって自らを高め、最後に悟りを開くさまに重ねられるわけです。

 私は一時期、曹洞宗の僧侶が中心になって設立したボランティア団体にかかわっていたことがあります。その活動の一つに、タイのスラムの支援がありました。経済成長著しいとはいえ、今のタイでもこの問題は完全に解決してはいないでしょう。

 そのスラムで、貧困から学校に通えない子供たちの教育活動をしていた一人の女性教師がいました。この人が、のちに国際的に知られた活動家となり、数々の賞を受賞し、上院議員にもなったプラティープさんという人です。御存知の方も多いかもしれません。

 この人がまだ世間に知られる以前、一緒に懸命の活動をしていた曹洞宗のお坊さんにこう言ったそうです。

「仏教では、蓮華は泥の中から花を咲かせる、と言いますね。だったら私は、花を咲かせる泥になります」

 この話をしてくれた私の知人は、

「あのときはみな絶句しちゃってね。何だか恥ずかしくなったね。覚悟が違うもんね」

 このプラティープさんには、私も面識がありますが、とても気さくで優しい、そして熱心な仏教徒です。日本から訪れる僧侶にも深い敬意を忘れない人でした。

 道元禅師は「道得(どうて)」ということを説いています。これは「言い得る」という意味で、仏の教えを本当に体得した者には、その人にふさわしい、借り物でない、独自の言葉があるということです。私には、彼女の言葉が、信仰が実践の中で花を咲かせた、まさに「道得」の一つだと思えるのです。