このところメディアで続いていた平成回顧と新元号をめぐる喧噪も、あと2日。便乗するわけではありませんが、30から60歳までの30年が重なる私としても、多少の感慨がないでもなく。とりとめのない話をさせていただきます。
昭和の終わり・平成の始まりの1989年、私は修行道場で丸4年が経つ頃でした。この年から、新聞が自由に読める立場となって、一気に外部の情報に接することが多くなった私にとって、非常に印象深かったのは、出生率が1.57になったという記事と、「ベルリンの壁」崩壊のニュースでした。
前者は「1.57ショック」とも呼ばれました。それは、丙午の迷信で出生率が大きく下がる年よりも、この1989年、さらに低くなったからです。本格的な少子高齢化の始まりでした。
少子化に注目したのは、1984年(私が出家した年です)に伊丹十三監督の「お葬式」という映画が発表されたことを、この年に知ったからです。この映画は、見事なまでに我々伝統教団の行うお葬式を戯画化しコメディー化していました。しかもかなりヒットした。ということは、もう我々の「お葬式」は社会においてリアリティを喪失しつつあるということだ、私はそう思いました。
つまり、少子化と「お葬式」の戯画化は、それまでの日本社会を基礎づけ、伝統教教団が依って立つ檀家制度を支える、「イエ」が崩壊過程に入ったことを示していると、私は考えたのです(数年後、修行僧に講義する立場になった私は、集中的にこの問題を取り上げ、僧侶と教団が大きな転換期に入ることを説き続けました)。
このアイデアにダメを押したのは、1992年の『磯野家の謎』という本の出版です。まんが「サザエさん」の磯野家は、日本の「イエ」の典型であり、磯野家タイプの「イエ」が、まさに檀家制度の「家」です。これを「研究」した本の出版は、私には、これまでの日本社会を基礎づけていた「イエ」が存在感を失いつつあることの証左に思えました。
およそ、マンガが「研究」の対象となり、しかもストーリーではなく、磯野家自体の不思議さを摘出して楽しむとなれば、それは磯野家を客観視し、ということは磯野家から距離を取るようになったということだと思ったからです。このことは、「お葬式」映画同様、「イエ」を基盤とする檀家制度のリアリティ喪失と同じことだと、当時私は思いました。
「イエ」が崩壊過程に入るということは、従来の日本社会を構成するパラダイムの腐食を意味し、それは、1991年のバブル崩壊で「高度経済成長」主義の終わりとして、1995年のオウム真理教事件(サリン事件)や1997年のサカキバラ事件(神戸連続児童殺傷事件)で、「豊かさ」追求の生き方モデルと教育方法の空中分解として、そして1995年の阪神淡路大震災で、戦後日本社会システムの驚くほどの脆弱さとして、はっきりと現象化しました。
そして、根本的な方向性(次のパラダイムの不在)を見失った社会は、最早機能不全に陥った「昭和」パラダイムを、陳腐な弥縫策に頼って引きずっているうちに、東日本大震災と原発事故で止めを刺されました。
にもかかわらず、今の日本の指導層は、金をばらまいて「経済成長」に固執し、その上オリンピックに万博などと昭和の亡霊まで持ち出して、この期に及んでも弥縫策を続けるつもりです。これを見れば、少なくとも日本の60歳以上が次世代のパラダイムを構想する能力を持たないことは、歴然、当たり前です。
次のパラダイムはまだ現れません。しかし、これまで30年の世界を見渡せば、今後の日本社会のパラダイムの方向性は見えるでしょう。
1984年の「ベルリンの壁」崩壊は、グローバル化開始を告げる世紀の鐘の音でした。続く1991年のソ連崩壊、2001年のアメリカ同時多発テロ、イスラム過激派の台頭と昨今の世界規模のナショナリズムの過熱は、冷戦が構造化していた国際秩序が溶解していくプロセスで起こったことです。
この大規模な構造変化こそ、まさに経済のグローバル化(カネ、ヒト、モノ、そして何より情報の大規模で高速の移動)の結果です。それに決定的に作用したのが、インターネットをはじめとするコンピューター・デジタル技術の爆発的発達です。
1995年のウインドウズ95は本格的なインターネッ時代の幕開けであり、2007年のスマートフォン登場は、個人の意識を一気にグローバル化する手段を与えました(同時に、その反動として、国家のナショナリズムと同様、個人が狭い人間関係に閉塞していく作用も持ちました)。
そして、2010年代、ディープラーニング技術の高度化で、人工知能が劇的に進化し、「人間」の在り方さえ根底から変えかねません。
この一連の流れを概観すれば、結局、グローバル化の趨勢は変わらず、さらに規模と強度を増すと言えるでしょう。それによって、経済分野をはるかに超え、社会のあらゆる局面での多様化は不可避で、次世代においては、多様な人々の共存を可能にするパラダイムを構築する以外に、選択の余地はないと、私は思います。
ここ1年でさえ、日本が外国人労働者の受け入れ(おそらく、「移民」と「多民族国家」の皮切り)を始め、世界的な規模の「LGBT」「MeToo」運動の展開、そして「地球温暖化問題」共有化の深まり、中国の台頭とEUの動揺など、これだけをざっと考えてみても、もう方向性は見えているのではないでしょうか。
この間、日本の仏教の動向はどうだったか。
檀家制度が崩壊過程に入った以上、今までと別の動きが現れるのは当然です。それはまず、仏教を語る言葉の質的変化として現れました。
1991年、スマナサーラ長老が再来日し、テラバーダ仏教の本格的な布教を開始します。あえて言わせてもらえば、その3年後、私が論壇誌にエッセイの連載を始めました。さらに2004年、臨済宗の玄侑宗久師が芥川賞を受賞し、小説にとどまらず仏教をテーマに精力的な執筆活動を行います。以後、陸続として、新たな語り口を持つ仏教者の発言が続きます。
これら発言者に共通するのは、「家」ではなく「個人」(あるいは個人の問題)に向けて言葉を発しようとする態度です。それはとりものさず、発言者が自らの土台とする教えを徹底的に再検討し再確認する作業を不可欠としました。
それは、従来のパラダイムの崩壊によって「普通の生き方のモデル」を失い、剥き出しの実存となった「個人(というより『孤人』)」の需要に応える動向だったと言えるでしょう。
ならば、上述した日本社会の転換がそうであるように、平成の終わり以後、伝統教団の組織構造の転換は当然、不可避となるでしょう。主体的にそうするか、なし崩し的にそうなるかは、まだわかりませんが。
今回は長々と失礼しました。
昭和の終わり・平成の始まりの1989年、私は修行道場で丸4年が経つ頃でした。この年から、新聞が自由に読める立場となって、一気に外部の情報に接することが多くなった私にとって、非常に印象深かったのは、出生率が1.57になったという記事と、「ベルリンの壁」崩壊のニュースでした。
前者は「1.57ショック」とも呼ばれました。それは、丙午の迷信で出生率が大きく下がる年よりも、この1989年、さらに低くなったからです。本格的な少子高齢化の始まりでした。
少子化に注目したのは、1984年(私が出家した年です)に伊丹十三監督の「お葬式」という映画が発表されたことを、この年に知ったからです。この映画は、見事なまでに我々伝統教団の行うお葬式を戯画化しコメディー化していました。しかもかなりヒットした。ということは、もう我々の「お葬式」は社会においてリアリティを喪失しつつあるということだ、私はそう思いました。
つまり、少子化と「お葬式」の戯画化は、それまでの日本社会を基礎づけ、伝統教教団が依って立つ檀家制度を支える、「イエ」が崩壊過程に入ったことを示していると、私は考えたのです(数年後、修行僧に講義する立場になった私は、集中的にこの問題を取り上げ、僧侶と教団が大きな転換期に入ることを説き続けました)。
このアイデアにダメを押したのは、1992年の『磯野家の謎』という本の出版です。まんが「サザエさん」の磯野家は、日本の「イエ」の典型であり、磯野家タイプの「イエ」が、まさに檀家制度の「家」です。これを「研究」した本の出版は、私には、これまでの日本社会を基礎づけていた「イエ」が存在感を失いつつあることの証左に思えました。
およそ、マンガが「研究」の対象となり、しかもストーリーではなく、磯野家自体の不思議さを摘出して楽しむとなれば、それは磯野家を客観視し、ということは磯野家から距離を取るようになったということだと思ったからです。このことは、「お葬式」映画同様、「イエ」を基盤とする檀家制度のリアリティ喪失と同じことだと、当時私は思いました。
「イエ」が崩壊過程に入るということは、従来の日本社会を構成するパラダイムの腐食を意味し、それは、1991年のバブル崩壊で「高度経済成長」主義の終わりとして、1995年のオウム真理教事件(サリン事件)や1997年のサカキバラ事件(神戸連続児童殺傷事件)で、「豊かさ」追求の生き方モデルと教育方法の空中分解として、そして1995年の阪神淡路大震災で、戦後日本社会システムの驚くほどの脆弱さとして、はっきりと現象化しました。
そして、根本的な方向性(次のパラダイムの不在)を見失った社会は、最早機能不全に陥った「昭和」パラダイムを、陳腐な弥縫策に頼って引きずっているうちに、東日本大震災と原発事故で止めを刺されました。
にもかかわらず、今の日本の指導層は、金をばらまいて「経済成長」に固執し、その上オリンピックに万博などと昭和の亡霊まで持ち出して、この期に及んでも弥縫策を続けるつもりです。これを見れば、少なくとも日本の60歳以上が次世代のパラダイムを構想する能力を持たないことは、歴然、当たり前です。
次のパラダイムはまだ現れません。しかし、これまで30年の世界を見渡せば、今後の日本社会のパラダイムの方向性は見えるでしょう。
1984年の「ベルリンの壁」崩壊は、グローバル化開始を告げる世紀の鐘の音でした。続く1991年のソ連崩壊、2001年のアメリカ同時多発テロ、イスラム過激派の台頭と昨今の世界規模のナショナリズムの過熱は、冷戦が構造化していた国際秩序が溶解していくプロセスで起こったことです。
この大規模な構造変化こそ、まさに経済のグローバル化(カネ、ヒト、モノ、そして何より情報の大規模で高速の移動)の結果です。それに決定的に作用したのが、インターネットをはじめとするコンピューター・デジタル技術の爆発的発達です。
1995年のウインドウズ95は本格的なインターネッ時代の幕開けであり、2007年のスマートフォン登場は、個人の意識を一気にグローバル化する手段を与えました(同時に、その反動として、国家のナショナリズムと同様、個人が狭い人間関係に閉塞していく作用も持ちました)。
そして、2010年代、ディープラーニング技術の高度化で、人工知能が劇的に進化し、「人間」の在り方さえ根底から変えかねません。
この一連の流れを概観すれば、結局、グローバル化の趨勢は変わらず、さらに規模と強度を増すと言えるでしょう。それによって、経済分野をはるかに超え、社会のあらゆる局面での多様化は不可避で、次世代においては、多様な人々の共存を可能にするパラダイムを構築する以外に、選択の余地はないと、私は思います。
ここ1年でさえ、日本が外国人労働者の受け入れ(おそらく、「移民」と「多民族国家」の皮切り)を始め、世界的な規模の「LGBT」「MeToo」運動の展開、そして「地球温暖化問題」共有化の深まり、中国の台頭とEUの動揺など、これだけをざっと考えてみても、もう方向性は見えているのではないでしょうか。
この間、日本の仏教の動向はどうだったか。
檀家制度が崩壊過程に入った以上、今までと別の動きが現れるのは当然です。それはまず、仏教を語る言葉の質的変化として現れました。
1991年、スマナサーラ長老が再来日し、テラバーダ仏教の本格的な布教を開始します。あえて言わせてもらえば、その3年後、私が論壇誌にエッセイの連載を始めました。さらに2004年、臨済宗の玄侑宗久師が芥川賞を受賞し、小説にとどまらず仏教をテーマに精力的な執筆活動を行います。以後、陸続として、新たな語り口を持つ仏教者の発言が続きます。
これら発言者に共通するのは、「家」ではなく「個人」(あるいは個人の問題)に向けて言葉を発しようとする態度です。それはとりものさず、発言者が自らの土台とする教えを徹底的に再検討し再確認する作業を不可欠としました。
それは、従来のパラダイムの崩壊によって「普通の生き方のモデル」を失い、剥き出しの実存となった「個人(というより『孤人』)」の需要に応える動向だったと言えるでしょう。
ならば、上述した日本社会の転換がそうであるように、平成の終わり以後、伝統教団の組織構造の転換は当然、不可避となるでしょう。主体的にそうするか、なし崩し的にそうなるかは、まだわかりませんが。
今回は長々と失礼しました。