私は今までに何度か書評をする機会を与えられたことがありました。
以下は、茂木健一郎氏の『生命と偶有性』という著書についてのものですが、いま読むと、自分の仏教観がわりと素直に、かつシンプルに出ているので、畏れながら紹介させていただきます。
「あるべきはずのニルヴァーナ」
存在すること自体は取るに足りないことだろう。しかし、「なぜ」と問うなら、それは厄災となる。
不治の病に侵された者が、最愛の子供を奪われた者が、天災ですべてを失った者が発する、「なぜ」。
この言葉は理由を問うているのではない。そうではなくて、存在を問うている。彼らがそのように存在していることの無根拠さを露わにしているのだ。そこに、問う存在たる「人間」の絶対的な孤独がある。絶対的とはどういうことか。人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問いうる。それこそが根源的な欲望、「無明」なのだ。
存在するものには根拠が欠けている。私が仏教から読み取った「諸行無常」の意味はそれである。このとき、なぜ「諸行無常」なのかを問い、「理由」を探そうとするなら、まさに厄災を招く「無明」となる。
仏教が私に示したのは、「なぜ」と問うことを断念せよ、ということだった。「なぜ私は存在するのか」と問うな。「どのように存在するのか」を問え。「すべては無常である。なぜか」ではなく、「すべては無常である。ならば、どうする」と問い続けよ。
それは無常であることに覚悟をきめながら、あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。
人間が「自己」という形式でしか存在し得ない業を背負うなら、いかなる自己であろうとするかを問い続け、「自己」を作り続けなければならない。
ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。
私が「無常」と言い続けてきたことを、本書で茂木健一郎氏は「偶有性」と言う。私が「厄災」と言っていることを、茂木氏は「奇跡」と言うだろう。つまり、私にとって存在は「苦」であっても、彼にとっては「美しい躍動」なのだ。
私は心底羨ましい。同じようなことを前提として考えながら、彼は存在を、生命を、享受し祝福しようとしている。
「クオリア」として開かれた彼の道程は、リアルとバーチャルの対立を無効にする、「あわい」としての「仮想」に至り、いま「リアル」を真に「リアル」として現成する条件たる、「偶有性」に届こうとしている。
私はこれまで、彼が次々に提唱する刺激的な言葉に接するたび、自分が学んだ限りでの仏教の考え方に引き寄せてみた。
たとえば、「空」や「縁起」を説く中観思想、認識の構造を明かそうとする唯識思想などとの関係に思いをめぐらすと、その底に茂木氏のアイデアに共通する水脈を感じざるを得なかった。
そればかりではない。私には及びもつかない茂木氏のずば抜けた知性が、客観的対象の単なる科学的理解ではなく、常に具体的な「一人称の生」、つまり「自己」をどう担っていくかに向けられていることを見れば、それが道元禅師の言う「自己をならう」修行、禅家が標榜する「己事究明」の姿勢と同じであることは、一目瞭然であった。
しかもそうすることで、彼は、私が打ち捨てられるべきだと思っている小舟を、慈しんでいるのだ。そこにはおそらく、私がまだ味わったことがない、求道の悦楽があるかもしれない。彼は言う。
「偶有性の本質を見失わない限り、私たちは戦慄し続けることができる。この一瞬は過ぎ去る。そして、何も死ぬことはないのだ」
だとするなら、その求道の果てにも、私が想像もできない、もうひとつのニルヴァーナがあるはずなのだ。茂木氏はそれを「無私を得る道」と呼ぶ。
「私秘的な体験に誠実に寄り添うことの中にこそ、巨大な宇宙につながる術がある。この認識こそが、これからの困難な時代に私たちの未来を照らす希望でなければならない」
この希望が「恩寵」でなくてなんであろう。
『波』(新潮社 2015年6月号より)
以下は、茂木健一郎氏の『生命と偶有性』という著書についてのものですが、いま読むと、自分の仏教観がわりと素直に、かつシンプルに出ているので、畏れながら紹介させていただきます。
「あるべきはずのニルヴァーナ」
存在すること自体は取るに足りないことだろう。しかし、「なぜ」と問うなら、それは厄災となる。
不治の病に侵された者が、最愛の子供を奪われた者が、天災ですべてを失った者が発する、「なぜ」。
この言葉は理由を問うているのではない。そうではなくて、存在を問うている。彼らがそのように存在していることの無根拠さを露わにしているのだ。そこに、問う存在たる「人間」の絶対的な孤独がある。絶対的とはどういうことか。人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問いうる。それこそが根源的な欲望、「無明」なのだ。
存在するものには根拠が欠けている。私が仏教から読み取った「諸行無常」の意味はそれである。このとき、なぜ「諸行無常」なのかを問い、「理由」を探そうとするなら、まさに厄災を招く「無明」となる。
仏教が私に示したのは、「なぜ」と問うことを断念せよ、ということだった。「なぜ私は存在するのか」と問うな。「どのように存在するのか」を問え。「すべては無常である。なぜか」ではなく、「すべては無常である。ならば、どうする」と問い続けよ。
それは無常であることに覚悟をきめながら、あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。
人間が「自己」という形式でしか存在し得ない業を背負うなら、いかなる自己であろうとするかを問い続け、「自己」を作り続けなければならない。
ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。
私が「無常」と言い続けてきたことを、本書で茂木健一郎氏は「偶有性」と言う。私が「厄災」と言っていることを、茂木氏は「奇跡」と言うだろう。つまり、私にとって存在は「苦」であっても、彼にとっては「美しい躍動」なのだ。
私は心底羨ましい。同じようなことを前提として考えながら、彼は存在を、生命を、享受し祝福しようとしている。
「クオリア」として開かれた彼の道程は、リアルとバーチャルの対立を無効にする、「あわい」としての「仮想」に至り、いま「リアル」を真に「リアル」として現成する条件たる、「偶有性」に届こうとしている。
私はこれまで、彼が次々に提唱する刺激的な言葉に接するたび、自分が学んだ限りでの仏教の考え方に引き寄せてみた。
たとえば、「空」や「縁起」を説く中観思想、認識の構造を明かそうとする唯識思想などとの関係に思いをめぐらすと、その底に茂木氏のアイデアに共通する水脈を感じざるを得なかった。
そればかりではない。私には及びもつかない茂木氏のずば抜けた知性が、客観的対象の単なる科学的理解ではなく、常に具体的な「一人称の生」、つまり「自己」をどう担っていくかに向けられていることを見れば、それが道元禅師の言う「自己をならう」修行、禅家が標榜する「己事究明」の姿勢と同じであることは、一目瞭然であった。
しかもそうすることで、彼は、私が打ち捨てられるべきだと思っている小舟を、慈しんでいるのだ。そこにはおそらく、私がまだ味わったことがない、求道の悦楽があるかもしれない。彼は言う。
「偶有性の本質を見失わない限り、私たちは戦慄し続けることができる。この一瞬は過ぎ去る。そして、何も死ぬことはないのだ」
だとするなら、その求道の果てにも、私が想像もできない、もうひとつのニルヴァーナがあるはずなのだ。茂木氏はそれを「無私を得る道」と呼ぶ。
「私秘的な体験に誠実に寄り添うことの中にこそ、巨大な宇宙につながる術がある。この認識こそが、これからの困難な時代に私たちの未来を照らす希望でなければならない」
この希望が「恩寵」でなくてなんであろう。
『波』(新潮社 2015年6月号より)
まず1ケ月でも、「悟り」というものから、離れてみては如何でしょうね。
「獲物」を追いかけ回すのではなく、経典なら経典の教えに基づいた生活を、成されるだけで宜しいのではないですかね。
そう思います。
「法喜禅悦」
快楽ではない喜びというのは、欠落に対する埋め合わせでなく、リアルなもの(苦しいもの含め)を見た時に感じるもの。
非常に素晴らしい、格調高いマトメだと共感します。
生きてるのはつらいけど
たまには楽しい事が有るから
やっぱり生きている方がいい(意訳です)
といった南さんは終局的には、やっぱり、
茂木さんと同じ歓喜系になるのでしょうかね??
釈迦系に従った歴史上の人物は実存するのでしょうかね??
人生、何が起こるか分からないという偶有性を楽しめるようになったら、怖いものは無い。(ネット動画からの引用)
と言っていますね。
悟りも、不畏ということが言われますね。
561 わたしは神聖な者であり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、あらゆる敵を降服させて、なにものをも恐れることなしに喜ぶ。(スッタ・二パータ)
ただし、その手法は、かなり違うようですが。
207 親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである。(スッタ・二パータ)
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?(ダンマ ・パダ)
茂木さんの場合は、完成形、恐れの滅尽というより、そういう心構えでいれば、恐れが生じてもそれを楽しめる、乗り越えられる、というものだと思えますね。
もちろん、それがいつか完成形になる可能性もあると思います。
ただ、釈迦に言わせれば、その手法は、歓喜型であり、それでは完成しない、ということになるのかも。
1108 「世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」
1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」
何とも凄まじく、そしてまた、現実離れしている教えであることでしょう。
でも、世俗で歓喜するものを求め得ない人には、それがありがたい、ということになりますね。
・偶有性の海に飛び込み、自らが存えることを図り、愛する人間が幸せになることを願い、思わぬ事態におびえ、恐怖から隠れ、やがて訪れる死から目を逸らし、時には卑屈に、たまにはほんの少しの勇気を持って生きる私たちが、知らぬうちに利他的な行動をし、他人とつながり、公共性の中に満たされているとは、何という奇跡であり、恩寵であることだろう。
愛し、憎め。夢を抱き、絶望せよ。
暗闇の中を手探りで歩く日常の中でやがて、自分たちの前に、「無私を得る道」がどこまでもまっすぐ延び、生命の輝きをもって誘うことに気付くのだ。
(引用終わり)
茂木さんにとって、無私を得る道とは、「知らぬうちに利他的な行動をし、他人とつながり、公共性の中に満たされている」ことに繋がる道、ということなのかなと。
そして、それは脳に備わっている機能なのだと。
とすると、奇跡であり、恩寵であるものとは、人間の脳だ、ということになりそうですね。
それが神の為せることなのかどうかは別にして。
以下、ネットにあった茂木さんの動画から引用。
敵と味方、富める者と富まざる者、というような関係を固定化するのではなくて、自分もそうなったかもしれない、と混ぜる。
それは、人類の共感の歴史の達成。
不幸な他人を、自分とは関係ない人としてしまうなら、それは偶有性を失った状態ということ。それは、脳が年老いたということ。
若さとは、自分が、何ものでもあり得た、これからも何ものでもあり得る、ということを引き受けて、他人の苦境に共感を持って、出来ることをやるということ。それが大事なこと。
自分が何ものであるかを決め付けないということ。
それを決め付けた時点で脳は発展することを止める。
どうなるか分からない、という想いを常に抱いていなければならない。
他人のために何かをすることは、人間にとって最も深い喜びに通じることが脳科学で分かっている。
他人が何かをしているのを見ると、あたかもそれを自分がしていることのように感じる。
それが脳の中のミラーニューロンの働き。
それが自己の意識に深く関わっている。
自己という意識は、社会の中で構成されているもので、他人を鏡として自分を磨いている。
他人の痛みを自分の痛みとして感じる。これを原理として生きている人というのは、進化の中で進んだ人だと言うことができる。
(引用終わり)
脳の機能の解明から導かれたことが、宗教思想と共通点があることは、当然といえば当然なのでしょうね。
人のやることは、脳がやることと言えるでしょうから。
>「偶有性」とは、また、現在置かれている状況に、何の必然性もないということである。たまたま、このような姿をして、このような素質を持ち、このような両親の下に生まれきた。他のどの時代の、どの国で生まれて良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれた。
>「偶有性」から逃げようとすることは、すなわち、「生命」そのものを否定することに等しいのである。
>自分がたまたま置かれた「偶然」の状況を、逃れられないものとして受容する。いわば、「偶然」を「必然」として受け入れる。
>偶有性を見つめよう。そこには、私たち自身の姿が浮かび上がってくるだろう。私たちの不安の理由が明らかにされ、希望の道筋が見えるだろう。
(引用終わり)
私は、なぜに、この私なのか。
そこに茂木さんは、それは偶然なのだ、という答えを用意した。
私がこの私なのは、偶然の産物なのだが、しかし、既に偶然に起きてしまったことを、変えることは出来ない。
この私であることに如何に絶望したとしても、他人にはなれない。
だから、生きていくためには、その偶然に起きたことを、受け入れなければならない。
その時、それは必然になる。
一方、自業自得の輪廻においては、私がこの私であることは、必然。
つまり、輪廻を信じた時、私がこの私であることは必然になる。
ただし、どのような業によってこうなったのか、その詳細は悟っていない人には分からないこととされる。
つまり、原因の詳細は分からない、ということ。
さて、偶然ということもまた、原因の詳細が分からない、ということだと言えるだろう。
結局、私がこの私であることを、偶然としても、自業自得としても、どちらも、原因の詳細は分からない、ということで同じと言えるだろう。
そして、どちらも、必然ということに帰結する。
だから、要は、偶然とするか、自業自得とするか、そのどちらが自分の心に響くか、という問題に過ぎない。
また、そのどちらでもなく、創造主たる神による、ということが心に響く、という人もいる。
そう思います。
仏教って、曖昧だよね?
ハッキリさせては危なくない?
あ、曖昧なことをハッキリさせるということかな。
学んだもの全てというか、固定観念やらを捨てるってことでしょう。
全て減らして
満点パパイヤ
危険だ…。
それが大乗。
大乗ってmonkeyなのかい??
そ~か、人間じゃあね~んだな・・・
まったく違います。
最晩年の新草『正法眼蔵』全12巻から読んでみて下さい。
その眼で、旧草『正法眼蔵』を読めば間違いはありません。
最初期の『正法眼蔵随聞記』での道元和尚の発言を聞けば、
「他人から文章が下手であると批判されても、教えの筋を明確にする方が重要である」と教えていらっしゃる。
それの実践が『正法眼蔵』なのです。
「主著を日本語で記述している」理由も、日本人に正確に伝えるためです。
親鸞聖人の主著は『教行信証』であり中国語です。
法然上人も、日蓮大聖人も『立正安国論』で中国語です。
栄西禅師も中国語です。
主著を日本語で記述した祖師は、誰もいない。
道元和尚だけが、日本語で記述した。
それは、日本人に対して「論理を、明確に、正確に、記述する」ためです。
道元和尚は「思索し続ける人」であり、
現代で言えば哲学者です。
あいまいな表現は、一切しない。そして嫌う。
だからこそ、何度もより良いものに改訂をしています。
だから、
読む方が勝手に妄想しているだけです。
新草『正法眼蔵』は、現代語訳が出ています。お勧めです。
先ずは、お読みください。
小乗は地獄の鬼門
大乗は安楽の法門
南ちゃん曰く
すべては無根拠
すべては無価値
さあ皆さん、合唱致しましょう
むこんきょ・むかち・むいみ
(以下転載)
柔らかい指で 暖かい手で ゆっくり揺らしてゆるく指切りをした
壊れそうな程 美しい日の ending, ending 僕は憶えている
雪がそっと僕を包む 僕はだんだん眠たくなる
広い宇宙の点と線を僕はだんだんつなげてゆく
そして毛布の様に ねじれ曲がって出来たでっかい cosmos factory で
溢れ出す愛を もてあます愛を load it, load it 胸いっぱい載せて
月の夜に僕は歩くだろう 砂浜で降る雪を見るだろう
そしてそっとクイズを出す 悪魔が現れるのを待つ
長い宇宙の瞬間を 僕はぼんやり待ちつづけてる
feed me, beat me, I'm a monkey
lead me, cheat me, I'm a monkey
僕を包む白くかすんだ夜の光が
長い宇宙の瞬間を 僕はぼんやり待ちつづける
feed me, beat me, I'm a monkey
lead me, cheat me, I'm a monkey
そしてそっとクイズを出す 悪魔が現われるのを待つ
長い宇宙の瞬間を 僕はイライラ待ちつづけてる
そしてそっとクイズを出す 僕は僕の僕だけのために
そしてずっと前から 僕らここにいたのだと思う
雪はそっと僕を包む 僕はだんだん目が醒えてく
どうすることもできず 僕はただ昇りつづけてる
笑い声だけが響く 渦を巻いて昇りつづける
美しい涙さえ 次から次へ食い尽くしていく
雪はそっと僕を包む 僕はだんだん目が醒えてく
広い宇宙の点と線を いつまでもつなぎつづけてる
宇宙論ニルヴァーナの事である。
そんなニルヴァーナなら輪廻の解脱。
この世の苦より、
この世の楽よりもっと良い
早く来い来いニルヴァーナ。
でも輪廻の世界が無いのなら
ニルヴァーナって何のこと
楽しみほしいお方なら
来るな来るなニルヴァーナ
そこに、突然、9歳の時に母を亡くした。
その後、ずうと4年間も考え続けていた。「母の死」のことを。
そして、13歳の時に、「観・無常」で出家した。
家族の反対があったが、決心は固かった。
(だから、直ぐに比叡山から下山した。
当時の比叡山は堕落していたため。
批判的であり、自分の頭で考えている。)
なお、父は当時健在であり、後には大納言にまで上った。
道元和尚が中国から戻ってきた1237年に死亡。
道元和尚が朝廷に「坐禅の立宗」を何度か上奏するが、その「つて」はこの父親が造っていただろう。堀河大納言。
なお、道元和尚が、供養しているのは、
「血縁」では、この父と母だけであり、
「法縁」では、栄西禅師、明全公、如浄禅師。
この5人だけである。
南師も「死の問題」で出家した。
小さいころから小児喘息で死ぬほどの苦しみに襲われていた。しかし「死」を質問しても大人は答えることができなかった。
これの解決のために「出家」した。母親は反対したという。当然のことだろう。
他方、S長老は、小さい時に、賢いからといって「単にスカート」されたのである。
人生の苦労を知らず、周りから教え込まれ「洗脳」され、ひたすらお経を丸暗記して正しいものとする。
所謂「小乗仏教」を正しいものとして信じ、批判的に読むことをしていない。
所謂「小乗仏教」で洗脳されている思考回路では、竜樹菩薩は理解できないだけ。
「言語活動にこそ問題がある」に気づいていない。
あ~あ、すみやかに離脱したいなァ~
ですよねイエスちゃん、栄久さん?
でも過って南さんは言ってましたよね、確か
「私は生きて居たいです、
たまには楽しい事が有るから・・」
Unknown18/10/29 05:18
あえて解釈にも幅が大きく出る文体て正法眼蔵を書かれた道元禅師。
お父上が新古今和歌集編纂の中心的な存在で、言葉を扱う家系にお生まれになり、言葉の魅力、言葉の性質、言葉の力を熟知されていたことと思う。
正法眼蔵を通して見る世界は、その時の自分の有り様によって、変化し続ける。私たちは変化を楽しむべきなのだと思う。終わってはならない。
お父上が新古今和歌集編纂の中心的な存在で、言葉を扱う家系にお生まれになり、言葉の魅力、言葉の性質、言葉の力を熟知されていたことと思う。
正法眼蔵を通して見る世界は、その時の自分の有り様によって、変化し続ける。私たちは変化を楽しむべきなのだと思う。終わってはならない。
と、
精神、我々人類の精神とは、
「我々人類の」というそのことにおいて誰の精神でもないのであり
それはしたがって必ずや自身そして存在に対して問いを発する。
存在に対峙する非人称の精神が、驚きとともに発する原初の問いなのだ。
「考え」がそこから始まる。
過去の哲学者、未来の思想家、そして今現在この世のどこかで
ひそかに考え続けている誰か。
考える人々、連綿と。
さて、「考え」は、どこ、に?
考えられる森羅万象を、考える自己がさらに大きく包摂する
広大無辺、変幻自在の自己として、いわば「状態的存在」
すなわち無私、宇宙大の無私、はかり知れない孤独がそこに。
むろんダンディズムでもある。
声高に思いを説くことはなく、そのかわりそれを実行する。
周到に。
どれか一つだけが正しい、と思うことは、危険。思ってはならない。自分にどれがフィットするか、だけのことでしかない。
テーラワーダの人は、経典に書いてあるから、そのまま読めばテーラワーダの理解だけが正しい、というパターンがよくあるが、いかにも原理主義的な発想、と言える。言葉は言葉でしかない。そのものではない。そして、原理主義の危険性は、様々な宗教の中で、原理主義に近い宗派ほど、狂信的で排他的であることが多いことで、証明されている。キリスト教でもイスラム教でも、そして、今イスラム教徒を迫害するテーラワーダも。
どんな思想でも、正しくない、というわけはない。思想はそれぞれの人のものだから。しかし、危険性を見極めて付き合うことは大切だと思う。
無知なの?
智慧の世界では概念はないらしいよ。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/05/12/040000
世間からの見方はしてないよね。
インドの大乗仏教は「中観派」ができ、それに対立して後から「唯識派」ができた。
そして、この二つが延々と相手の弱点を批判して理論を深めていった。
やはり、「仏教」として正しいのは「中観派」の方です。間違いは「唯識派」で「識が自己と同じものになってしまっている」。
竜樹菩薩は、この「中観派」のまあ始祖です。
「言語」に問題があることを「中論」で暴露した。
要は、S長老は無知なのです。信じてはいけない。
「自己を作り続けなければならない」
ってどゆこと。』
世間では「自己」は重要です。
自己責任などもある。
しかし、それは「言語による枠」に過ぎない。
渡るための「小舟」、
修行が成立するために「仮説された」もの、
渡ってしまえば「小舟」は不要となり捨てられる。
しかし、その上の状態がある。
その「自己という枠」を誠実に生きるという「生き方」がある。
秋月老師が、いつも教えていた。
世間をよく生きるには「分別知」が重要だ。
しかし、それは実は無明であって、坐禅して、
「無分別知」を知らなければならない。
ここで「自己」は、壊される。
ところが、人はこのままではいけない。
「無分別知の分別」まで到達し、再び、世間に戻って来なければならない。
このことを、
一気に読む「超個の個」とも仰っていた。
「自己」が「枠」であることを知った上で、その「枠である自分」を充実させて生きる。
「釈尊の仏教」も「怠るなかれ」であり、
一生涯、托鉢と説法と坐禅・禅定とであった。
どこにも揺るぎはなかった。
捨てることもないよね
すみやかに離脱したいなあ
自己とは、その意識も肉体も物語から生まれた幻に過ぎないから、道元禅師がおっしゃる「小舟」もまた、単に自分の「生」ではなく、それぞれの「物語」のことなのだと思う。
自分の見ている世界は、大海に浮かぶ不確かな、ほんの一面のみを捉えているにすぎない。
そこが本当に腑に落ちれば、他者の見ている世界がどれほど自分と異なっているのか、初めて理解できる。
国際化極まり、多様な価値観・世界感が共存する今、そこを意識することは本当に大切だと思う。
自己とは、その意識も肉体も物語から生まれた幻に過ぎないから、道元禅師がおっしゃる「小舟」もまた、単に自分の「生」ではなく、それぞれの「物語」のことなのだと思う。
自分の見ている世界は、大海に浮かぶ不確かな、ほんの一面のみを捉えているにすぎない。
そこが本当に腑に落ちれば、他者の見ている世界がどれほど自分と異なっているのか、初めて理解できる。
国際化極まり、多様な価値観・世界感が共存する今、そこを意識することは本当に大切だと思う。
→慈悲の実践中。
南さんは、御自分なりに僧侶という役目を果たされるのではないですかね。
つまり慈善の実践中。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/c366cfcc65d5c4fd5c4228aa85925cdd
ズバリ。
スッタニパータ独裁者に、絶対服従されませんように。
桂蓮さんへ
また、沈黙も修行の一環。
無視ではなく、「沈黙」です。
大乗仏教のややこしい部分。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/08/21/173252
無意識は仏教ではない。
http://toukaidhammam.blog72.fc2.com/blog-entry-2335.html?sp
脳の働きを見る。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/09/050000
>①南直哉は慈悲の人ではない、冷たい人だ、と思う(私の偏見です。非難しているつもりはありません。憧れです。)
>②あんなにも厳しい(私にはそう見える)お顔立ちをされているのか
>③南直哉という人は、基本的には他人に関心がないように見える
このコメント欄で初めて登場した外見への意見で、内心驚きました。
今まで、私が覚えている限りでは
南師の外見について言及っされたことが無かったと思います(あっても私が読んでいないだけかも)
実際、南師に直接会った者として、
去年参加した坐禅修行で
恐山に行った時のことを少し、
二日目の朝、早起きして構内を散歩してたら
作務着を着た南師にばったりあったのです。
その時に、南師から気さくに
軽く会釈をしながら
”おはようございます、早起きですね”と
先に挨拶された時がありました。
あの時の態度、顔の表情は
面談や講談で見たことの無い
凡人が想像できないほどの優しさが溢れてました。
あの温もりはまるで氷も溶かせてしまう温かさでして、
心が包まれるような感じでしたね。
その時、
ああ~もしかしたらこの姿が南直哉という人の本質の現れかな~と自分に言い聞かせたほどです。
あの軽く会釈しながら
長い脚でさっさと挨拶をし
行先に向いて行かれた姿と
その空間に居残った優しさは
今だ私の記憶に鮮明に残っています...
その姿を見た者として
本や写真、ビデオに映る南師を見ると
あの時私が感じた『果てしない優しさ』を感じることができなかったので
それも驚きでしたね。
2次元に現れる人の姿は
その人が持つ温度を映せることができないかもと思ったので、コメントしておきます。
日常生活で「絶対服従」を使ってるみたいですが、御家族や周囲の方の心中お察し致します。
桂蓮さんも。。
どうぞ御無事でありますよう。。
極端かなあ?
そうでないと、言い切らないで余りを出すなんて、言えないんじゃないかなあ
内側から時々刻々つくりだしている。
しかし、その全貌を人が知ることはできないほどまでに
茫洋と無限なる域である。
存在イコール意識という存在論と表裏をなす意識論
Edmund Husserlの説く「純粋意識」や「如来蔵意識」を道筋に
アラヤ識(蔵識)と呼ばれ域、内的に主体的にだけ認知される
流動的な不固定な、内なる生存感ともいうべきもの
根源識とも自己識と言い換えるとイメージできる域
人は誰も、他人の意識の場には立てず
自分の意識の場だけにいる。
客観的と主張しても、自分の主観の中でだけ想定された
客観的見方にとどまり、そこから外に出るのではない
生身の自分の意識の移入という主観の作用によって
人はたびたび一方的に、他の人を、また相互に
よく理解し合っているつもりでいるように思う。
自分の、あるいは自分たちの、客観性が主張されればされるほど
主観性が強く出てくるようだ。
私は、一般的な意味で、南さんは、温かく人情味のある人だとは思いません(南さんもそのようなことを自覚している発言はあります)。
恐らく、自己と他者の曖昧である境界線の線引き強く、または自覚し、「自己」に引き付けて、または自分の問題事として、他者と関わってるのではないでしょうか。
ここで、南さんの特性を語っても仕方ないのですが、あまり南さんの言葉に呑まれると、バランスを崩したりしますので、ちょっと危険な部分はあると思いますね。
しかし、とても貴重で、極端なことを発言していますので、自分との位置づけをはっきりさせれば、いいかな。
ある意味、冷めた人を慈悲の人ともいうのではないですかね。
また花や月も、状況によつてさまざまに違ふのに、その時みた花や月を、やがて花、月一般に及ぼして、花とはかういふもの、月とはしかじかと、自分の心でみた光色を加へて月の光、花の色を断定してしまふ。」
染まりも汚れもしない色とは。
無色透明?
南直哉という人は、基本的には他人に関心がないように見える(私の偏見、それが本来の仏教者といわれる人のありようなのか)
他者(出来事)に関心を示すのは、それに対して「南直哉という「自己」が何を為すか」、と「問う」場合に限られるような気がする。
私は南直哉という人に直接対面したことはないけれど、彼が他人に対して笑顔をみせるとき、他人の不幸に接して慈悲の言葉を編むとき、私にはそれが多分に、南直哉の処世術であって、南直哉という人の本音ではないように思える。
「なぜ」ではなく、「いかに」が問われるべきだとするなら、それは言い換えれば「行為」の「必然性」が問われているのだと思う。そうであれば、私には「なぜ」と問うことも「いかに」と問うことも結局は同じ「問い」ではないか、と思う。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心、および佗己の身心をして脱落せしむなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」
https://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/bf4874bc0c4d61c09d93d258e25db711
倣って倣って
忘れて忘れて
自己を作り続けるとは
何度も自己を立て直して
何度も自己を作り直して
今日のアレは
マズかったなダメだったな
反省して反省して
次回はアレを
こうしようああしよう
お釈迦さんに
少しは近づけるかなあ
近づけるといいなあ
「自己を作り続けなければならない」
どゆことですか?
「自己を作り続けなければならない」
って「どゆ」こと。』
南師に直にお聞きして下さい。悪しからず。
涅槃の世界にも留まらない(慈悲)
「法」とは、サンズイに去ると書く。
水が流れ去るような相(すがた)
どゆことそゆこと
「自ブッダ」を作り続けること?
「自己を作り続けなければならない」
ってどゆこと。
自己と言う枠を捨てちゃって、
しかも自己を作り続けよ??
「縁起の世界」
これは、悟る前も、悟った後も、何も変わらない。
「諸行無常」である。
ただただ「自己」という枠で観るのを止めるだけ!
捨てるべきは「自己という枠」である。
これは「言語作用」が堅牢に築いている。
世の中の人は「この枠」が見えない。
それは「我欲」に縛られているから。
渡り終わった時、小舟は思い残す事なく捨てられる・・・
って「お前は死ね!!」って事でしょ。。。
ただ、哲学は崇高だ
ってウットリする【情】に
棹(さお)差して見ただけです。
ウッカリ、
情に棹さしたら流されちゃいましたね。
そして、竜樹菩薩の件は、S長老が間違っているだけ。
南師は、「輪廻転生」物語も、「極楽と地獄」物語もなしに、
つまり「神話なし」で「善の根拠」を考察なさった。
しかし、世間の反響はなかった、とぼやいていた。
上祐史浩さんの「17年目の告白」を読むと、
弟子たちは、麻原彰晃からの「地獄に落ちるぞという強迫」に縛られて、命令に逆らうことができなかった、とのことだ。
現在ならば「地獄などない」というべきでしょうね。
「自己の消滅・死苦は、この原因は、「言葉の機能」が起こしている」ということです。
S長老は「この言葉の機能の問題点」が理解できていない。
だから、龍樹菩薩を理解できないだけ。
「自己」とは「言葉の機能が作り出す虚構」である。
その「自己」を実体と思い込み、だからそれの消滅「自己の死」が「苦」「不安」となって起こってくる。
そもそも「自己」は「不生」なのです。
だから「不滅」なのです。
「自己」とは大河を渡るための「小舟」「手段」なのです。
修行を続ける「主体」として「仮説」されるものです。
修行が完成すれば、「自己」という概念・用語は、不要となります。
『ならば「自己」とは、偶然の怒濤をあえて渡ろうとして、数々の難破の果てに、ついに彼の岸に乗り上げた必然という名の小舟である。渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。ブッダの説くニルヴァーナを、私はそういうものだと思ってきた。』
『そこでは物質は、ひとつの「考え」にすぎず、
夢とは、それが与えられるまでは知られないような無数の「考え」で満ち満ちている
非物質の宇宙のようだ』と「考え」ということを書かれていて、有益とか意味とかの捉え方ではありませんね
まさにこれは、根拠なきコメントでしょうね。
これに関しては色々な時系列な説があるが、
非物質的宇宙がどうだろうが何ら有益な意味が存在しない。
非物質の宇宙と言っても、
全て人の脳内の範囲で、物質的粒子の活動で描き出される。
(外部に)実存する非物質の宇宙などは在り得ない。
「これが非物質の宇宙です」と取り出して他者に見せる事など出来ない。
はyes&no談義である。
Yes=眼の前で物質の転生(=無常)を見ているのに・・
No=精神の転生を認めない・・ご立派な事!!(by Sちゃん言)。
S師のいう「精神」とは何か??
南師の本に描かれた彼の精神(=思想)が他者に受け継がれていく。
これは人類の思考方式を司る概念という意味での精神ということであって、
人体に宿った実体的イメージから形成された「精神」ではない筈だ。
だから死者の体から離れた精神、すなわち物理的な渇愛エネルギー(=エネルギーの塊)など存在不可能なのである。
物理的に永続的な塊みたいな「エネルギーという物質」などは、
もともとこの世に存在しなくて、
エネルギー(例えば空中に発せられた声・音)は距離の二乗に反比例して空間に拡散して行ってしまう。
すぐに無に等しくなって滅失してしまう。
結論;
渇愛エネルギー(=精神)が輪廻転生を起こすなんていうのはお伽話にすぎない。
手ぶらで、だからこそ的確に考えていたそれのような。
「考え」はどこに在るのか、夢はどこに在るのか、あるいは「在る」ということは
どういうことだったのか。
夢という奇妙な形式は、意識自身の無限性を開いてみせる。
夢は、白昼の思考のみを唯一の現実とする物質の論理の通用しない、
むしろそれらをひとつの夢として可能ならしめている、さらに巨大な現実である。
そこでは物質は、ひとつの「考え」にすぎず、
夢とは、それが与えられるまでは知られないような無数の「考え」で満ち満ちている
非物質の宇宙のようだ。
近代的自我の崩壊とか、世界観の相対化とかを問うのではなく
近代的だろうと、相対的だろうと、そう思われることのできる根拠をこそ、
確実に見極めようとして、一石一石と積み上げられては
築きあげられてゆくはずの歴史の創造という人間の共同作業は、
しっかりと踏みしめることのできる大地のうえではなく、
いわば、無重力の宇宙空間で互いに漂いつつそれを為せと
言われているようにも、
私たちが宇宙に置かれたこの位置を正確に知るために。
そしてそれは間違いなく私たちを、とてつもない絶望につきおとす、
愚かしくあるよりは、うんと絶望すればいいのだ。
(もしもその人が「輪廻転生」を信じていたら、その思い込みの)
「輪廻転生」から解脱できるよ、という仏教に進むための、きっかけ作りです。
そもそも日本人は「輪廻転生」を信じていません。そうではなく、
死ねば、ご先祖様になって、子孫を見守る。
そして、お盆やお彼岸でご先祖様をお迎えして一緒に食事をとり労う。
ここで「輪廻転生」などない、と教えると、
もう完全にインドの土着思想の「輪廻転生」は、「考えなく」なる。
それに「煩わされる」ことがなくなる。
その効果を狙っています。
これで普通の日本人は納得できますから。
議論はこれ以上発生しません。止みます。
自己(=自我)を作り続けている最中に
無我になっちゃったら、
それは事故だ。
それ以外は、無用のことです。
輪廻からの解脱も仏道なら、どうなるんだろう?
「輪廻転生などは、ない」と言い切ることは、ある意味で議論に参加していることになると思いますが、、、
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/16/050000
中論は傑作でも、インドにおいては相当なダメージを与える結末となっていたんですね。
実践というものが如何に仏教の肝か、実践なくしてはサンガの維持も困難で、それを残せるか残せないかの分かれ道ともなるようですね。
南直哉にとって最も重要な「問い」とは「倫理」なのだと思う。「自己」を、比類のない、同一なるものの複数性によって貶められることのできない、唯一のものとして観ること。
「自己」をなによりも「純粋」なものとして観ること。傷つきやすく弱いものとしてではなく、なにものも、それを傷つけることを為し得ないほどの強度を持った「自己」。
「自己」を力強く肯定すること。けれどそれは、現状肯定主義ではない。
>あえて自己であり続けるという困難を受け容れる意志である。
>自己を作り続けなければならない。
「輪廻転生」が「実際にあるのかないのか」の議論は止めよ!
というのが「釈尊の教え」です。
「無記」つまり、何も議論しない、ということです。
ただ仏道を歩めばよいだけです。
それ以外は、無用のことです。
なお、秋月老師は、「輪廻転生などは、ない」とはっきり教えていました。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2018/07/26/181902
輪廻って「妄想」にならないのかな?
<人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。
もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。>
渡り終えた時
死という名の生も
捨てられる
死ですかね。死という問い。
必然という名の死。
>渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる。
数々の死への問いは、
思い残すことなく捨てられてゆく。
道元さんの只管打坐が同じかどうかの疑問はありますが、
南さんの言い方で言えば、只管打座という身体操作で、坐禅者は或る(特殊な)変性意識を得る。
それを何と意味付けるかは、
それぞれの自知意識である、という事に成るのでしょうが、
釈迦がそれを悟りだと解釈し、解脱だと思い、涅槃だと呼んだ(自覚した)という事であれば、
釈迦の脳内ではあらかじめ、
悟りとは?解脱とは?涅槃とは?という定義が存在しており、
自分が得た体験がその条件を全て満たしていると自己診断をした、という事に成りますよね。
ならば、再び起こる疑問は、
何故釈迦は其の事を弟子たちに語る事をせず無記でやり過ごしてしまったのでしょうか??
それこそが出家の修行の要諦な筈なのに、無記とは実に不思議です。
釈迦の修行前から、古代インドでは
A.悟りとは何かと言う定義、
B.解脱とは何かと言う定義、
C.涅槃とは何かと言う定義が
既に確立していて、
釈迦が、瞑想時、直感的に何かを突然感じた時、
自知的に、自分の得た体験はA,B,Cの定義を満たしていた(クリアーした)、と自知した。
そう言う事ですか??
それならなぜ釈迦はそれを後代に語らなかったのですか??
あー忙しい‼
「渡り終わった時、小舟は思い残す事無く捨てられる」
「其の小舟が人生であり自己だ!!」
でも、
「渡り終わった時」っていつの事ですか??
人が死ぬとき??、又は
人は生きている時でも小舟を捨てられると言ってるの?
シャカのみは唯一の例外で、生きている時(35才)に渡り終わっちゃったって言う事??
下記リンクより。
初転法輪では、5人は釈尊は苦行を放棄して、脱落し堕落したと考えていた。
だから、釈尊の教えを簡単に信じなかった。
宗教家のプロとしてあらゆる方面から反論しただろう。
何日も議論を続けて、やっと、コンダーニャが理解できた。
コンダーニャ自身が「解った」と「自覚」した。
自分の今までの「苦行の修行」が、完成し、
苦行から離れていったのです。
まず「本人の自知」があります。
釈尊は「それなのだ」と、その後からの、「追認」だけです。
「悟りの内容を知識で知っても意味はない」
教えることができるのは「悟りの方法」だけ。
その道を進んで、本人が自知するしかない。
ここで、それまで死ぬほどまでの苦行の体験を続けてきたということが、逆に重要になってきます。
それがあったから「自知」できた。
「仏教」が「人を選び取ってしまう」「人を限定してしまう」という問題がおこる。
「一般民衆の宗教への要求・期待」と「教え」との乖離も発生する。
上記は本記事の一部を引用したのですが、
“渡り終わったとき、小舟は思い残すことなく捨てられる”ことについて
インドで作られた仏陀の生涯を描いたドラマに
その状況が描かれていたことを思い出しました。
確か、悟りを目的をしている修行僧に対し、釈迦が、足では渡れない川を小舟で渡り、渡ってからはその小舟はもう必要ないことを例として例えていましたけれど。
私もその場面を観た時、
ニルヴァーナのイメージが少し湧いたのでしたが、
今回の記事でまた再認識できた感じです。
院代様は仏教の歴史に基づき、
特には釈迦が生きておられた状態の教えにできる限り近づこうとなさっているのだと見え受けますね。
同じ記事を読んでも
毎回新たな発見があって
読むのに意味がありますね。
道元和尚と親鸞聖人とに心を惹かれて、調べていくと、お二人とも「自己を追求し続けた」そういうタイプの人であった。
そしてそれを可能にしていた環境にいた。
という事が解る。
その場合、仏教は「思想」という側面を明確にして現れ、それを批判的に追求していく。
批判クリティークは、仏教の基本である。
ここで「言語そのものへの批判」が露になる。
「釈尊の仏教」「竜樹菩薩の仏教」「道元和尚の仏教」の流れである。
この相においては、一般民衆の問題は捨象される。
親鸞聖人の場合も、一般民衆を相手にしていたのではないのです。上部構造の「念仏聖」に教えを説いていた。そして、この「念仏聖」が実際の民衆に教えを説いていた。つまり二重構造になっていたのです。
「現代思想」1985年6月臨時増刊
「総特集=親鸞」
親鸞聖人は思想を追求していって、ますます民衆から乖離していった。とうとう60歳頃関東を捨てて、京都で著作に専念する。
曹洞宗の中において「道元和尚の教え」と「日本達磨宗の教え」との二つを抱え込んでいる。「その間を調整しないまま」併存させている。(そもそも相反する関係にあるので不可能)
そのまま抱えていくしかない。
曹洞宗の場合も上部構造と下部構造で乖離があるのだから。
宗教には「心」と「身」とがあり、
「心」だけでは不十分であり「身」のために「儀式」がある。
しかし、曹洞宗では、「身」のためには「坐禅」が既にあり「儀式」は不要である。
しかし、「坐禅をしない民衆に布教する」場合、「心」だけでない「身の儀式」が必要となり、「密教的な儀式」が必要となってくる。
浄土真宗でも「心」ではなく、「秘事法門」の儀式で、民衆に拡大するようになる。現世利益も前面に出すようになる。
親鸞の長男「善鸞」はその道を進む。親鸞聖人が考慮しなくなっていた民衆に向けて。
どうしても二重構造になってしまう。
民衆は、
親鸞聖人についていけなくなってしまう。
道元和尚についていけなくなってしまう。
「坐禅」も、何かの役に立つことを求める。
「坐禅をしない民衆」にどのように?と考えると「身の儀式」へと重点が移っていく。これは「日本達磨宗の教え」が基盤になる。と思う。三世が中国に行って輸入してきた。
多分「ニルヴァーナ」に導いてくれるだろう。
インチキ説になるかな
「いる」を「ある」にしてみたら?
そのようなヘマをしたのでしょうか?
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/11/19/210000
自分を省みると
ドイツ語では、Bewußtsein(気づいている)・ Sein(いる)
━━ 両方に、Seinが共通している
日本語でも「気づいている」と「いる」に、
「いる」が共通していて
自分が「いる」ことと「気づいている」こととは、
大きくずれているように感じる。
自分の「気づいている」は、どのようにして、
自分の「いる」に気づいていきたのだろうか。
デカルト風の「我の自覚」かもしれないし、
または、カント風の「統覚」かもしれないが、
最初から「我が考える」というように
明確であるはずもなく、
漠然とした、おぼろげな、
言葉にならない何かの体感か情感であったろう。
わかってわからない自分、
見えて見えてしまわない意識、
支配できて支配できない生存、
といった人間というものの
一生にわたる不確定さの実感。
釈迦が瞑想の結果「私は悟った、解脱した、涅槃した」
などと自らは言わなかったと考えています。
もし言ってた(=思っていた)とするならば、その内容が必ず記録されている筈であり、
南和尚さんが言うように、
釈迦自らが「悟り・解脱・涅槃」の内容を言及してない、という事であるならば、
釈迦自身が「自分は悟った・解脱した・涅槃した」と思った訳では無くて、
初転法輪での5人の比丘が「この方は悟られた方・解脱した方・涅槃に達した方」だと、一方的に判断(認定)したという事に成るのではないでしょうか。
南師が、初転法輪での他者からの承認で
シッダルダ青年が初めてブッダ(覚者・悟った人)といわれるようになった、
という言及には、
自己認識は不要であるという意味が含まれていると考えられます。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/07/26/050000
これは仕方ないとして
>今あるものを越えようとして
本当に勉強するには欠かせない一冊といえるだろう。
今あるものを越えちゃいかんってことでしょう?
南仏教的には。
越えるんではない‼
外せ‼って感じだよね。
イエスのことはイエスに任せるしかない。
気になる時間を坐禅に打ち込もうぞ。
以上。
所見ー依存度高め。
対処法ー坐禅1日3柱。
少しは考えたまえ。
御人が削除されない理由も
少しは考えてみようではないか。
以上。
イエスちゃんの反論者は、もはや「イエス依存症」なのかもしれませんので、処方箋としては、貴方がコメントを見ないか、ここに来ないことです。
閉鎖が御希望なら話は別ですが、貴方の業が増えるだけかもしれません。
ご自愛下さいますように。
「イエスちゃん」と言うコテハンを止めて無名氏としてコメしたら?
そうしたらコテハン見るだけでアレルギー反応をおこし、直情径行に反発する事が出来なくなり、
しかもイエスちゃんはいままで通り、コメを続けられる。
実際コメ者が誰であろうと、イエスちゃんがもたらして呉れるような情報は仏道を倣う上で大変貴重なモノです。
コテハンさえなければ、炎上しようもなく、
南和尚さんも削除する必要も無くなると思われますがどうでしょうか??
コテハン=固定したハンネ。
意味は「コテ」ンパンに叩かれる「ハン」ディを背負った人
コテハン故に炎上してドンドン誹謗中傷が混じって行くのは大変見苦しく、傍の迷惑になります。
コテハン背負った以上、意地でも反論しなければ、となる反面、
コテハン付けたまま、もし反対者を無視すれば、反対者はさらに激昂して醜いコメを吐き続ける事に成る。
削除の嵐がくる気配ですね。
皆様
ご自身のコメントとか他の方のコメントから
大事だと思われる箇所がおありでしたら
今のところ、それこそコピペしておいた方がいいかもです。
イエスちゃんの良いところは
非難を非難で返さないことかなと思います。
博識へのプライドが少々高すぎる感はありますが、
イエスちゃんがいないと
何だかコメ寂しい感あります。
記事に関連させようと努力なさっているのも明らかだし、
私がイエスちゃんに反対していても
私に攻撃していなかったです。
ですが、私がイエスちゃんさんに望むことは
①人の反感(反対意見でない)に正直に応じる
②人の意見や見方を尊重する(嫌であっても)
③反対する、反感を覚えるただ一人を置き去りにしない
とのことです。
生意気ですみませんが、
今までここでイエスちゃんに
私なりに接してきて感じた率直な所見です。
ここのコメント欄を皆と共有する、独り占めしないことも
院代様の望みかもと思ったりします。
イエスちゃんさんは私の正師です。可哀そうにオームの亜流もしくは似非仏教、イエスちゃんのブログで語り合えたまえ、薄気味の悪い輩でしかない人たちだ。さすが自称救世主、信者もどきがいるとは、自作自演かもね
もう数年前から師事していますから、
10年までのあと数年、
ただただ黙ってその教え・規矩に従って、
その良し悪しを詮議しなければ、
きっと弟子のわたくしにも
坐禅の風景、人生の風景が見えてくる事でしょう。
イエスちゃんが語る衝動は、変化への恐怖。凡夫の当たり前の感覚。
そこから、抜け出すのが仏道。
これと真逆なことを繰り返す人たちが呪文のごとく引用文でしか言い表せない未熟さと無知に驚くばかりです。
頭は飾りでしないないのでしょうね。「自らの」が抜けて誰かの言葉で騙ると言うことに気付かない?
これは日本達磨宗が残っているのが原因です。
新草『正法眼蔵』(全12巻)の眼で、旧草『正法眼蔵』(全75巻)を読む必要がある。
弟子達に、重大な問題があるから、
やおら晩年に「新草」を執筆し始めたのです。
「旧草・正法眼蔵」そのものは、正しいのです。
ただし、「新草」『正法眼蔵』の眼で読まなければなりません。
つまりそれ自身にとって全くリアルなものだとするカント的な立場。
カントによれば物自体というものは絶対知り得ないと
しかし、ヘーゲルは物自体を知ることほどやさしいことはないと説く。
カントが「それは何だ」と言ったものについて
ヘーゲルは「それはそれだ」と言ったにすぎないのだが
人間の認識というのは結局、それは何だ、それはそれだ、
の繰り返しのようでもある。
へルマン・ディールス編纂でW・クランツが補足した
「初期ギリシャ哲学者断片集」は存在論で充ちている。
存在を思索する、自分で考え、今あるものを越えようとして
本当に勉強するには欠かせない一冊といえるだろう。
「偶有性の本質を見失わない限り、「私たちは戦慄し続けることができる」。この一瞬は過ぎ去る。そして、何も死ぬことはないのだ」
「無私を得る道」』
「観・無常」の仏法であり、
「無常への戦慄」が重要である。
パスカルは、「自己の死を見つめる」のを避けるために、
人は、娯楽・慰めに、走り熱中する、
と喝破している。
『「私」秘的な体験に「誠実に」寄り添う』
これこそが、終わりのない修行なのだと思う。
「道元和尚のニルヴァーナ」は「自受容三昧」なのです。最初の『弁道話』から。
そしてそれは「法楽」であり、「坐禅は安楽の法門」なのです。
そして、道元和尚は、
日本達磨宗が弾圧されて、組織毎逃げ移ってきた人々に印可状を授けなかった。更に、「如浄禅師から授かったご自分の印可状」もお見せにならなかった。
只、ひたすら主著『正法眼蔵』を全百巻にして完成すべく、全精力を注がれて、後世に託する方法をとった。
このことは、不思議である。
そして、
三世は「日本達磨宗の印可状」は見ている。しかし
とうとう道元和尚の印可状は見せてもらえなかった。
やはり「ニルヴァーナ」が別のものに変わったのでは?
そして、重要なことは、
二世が証言しているが、
「仏法の内容・教えには、内外に区別がなかった」
つまり
「密室で伝授する秘密の教えなどはなかった」
「みな、出家・在家の両に、公開していた」
主著『正法眼蔵』は公開の教えなのです。秘密の教えではない。
>もはや60歳以上からまともな知恵はでません。
どれも有効ではあるのでしょうが
一つ、仏教以外があるような?
単純なことです。
禅への初心者向けの『弁道話』も
『正法眼蔵随聞記』でも、同じなのです。
道元和尚は、「方便」「仮のもの」を使用せずに、「実」だけを教えています。
この事実に「然り」と判断して貰うだけです。
それがなぜできないのか???
そして、
道元和尚が批判している対象は、明確なのです。
そして、現在も「それが」存在するのです。
だから、有効なのです。
当時の、中国の宋代の臨済宗は政治にも進出し(五山制度)、非常に世俗化しているのです。
人の心は、それから少しも変わっていないのです。
道元和尚は、もろにそれを見ているのです。一人で行脚して体験しているのです。
だから、「釈尊の教え」「イエスの教え」「道元和尚の教え」が、現在も有効なのですよ。
解脱している訳ではないですけども
得るものでも捨てるものでもないような?
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/05/26/040000
一部の曹洞宗の御坊さんは
どうなってるんですかね。
まだまだ、捨てていく道があります。
捨てて、捨てて、捨てて、捨てまくるんですよ。捨てても何か得ている、捨てても何か得ている。仕方がないんです。たとえばグラスの中の水を捨てる。捨てたらグラスの中に何か入っちゃうでしょう。仕方がないんです。グラスの中の水を捨てたら空気が入っちゃう。空気が入らないように捨てるということは結構難しい。できない。
~果てなきニッヴァーナへの道~
ギックリ腰、ご自愛申し上げます。
釈尊がいたとして、無記は困難な時代でしょうね。
>現実の変革は思考の変革から始まった逸脱の歴史ともいえよう。
欲望の変革ではないでしょうかね。
正法眼蔵随聞記は、誰が聞き、誰のフィルターを通ったものか、ご存知ですか?
また、正法眼蔵を読んだ人々が、全く同じ解釈をすることがあり得るのでしょうか?
今の時代に道元禅師が生きていたら、全く違うことを、語るのでは?
常に変わり続ける世界そのものが無常である。小舟の上にいる私たちは、そのことを意識しなければならない。
院代さまのご要望に沿って
皆様が、記事と関連するコメントだけを
①品良く
②知的に
③差別無く
④慈愛に満ちて
⑤お互い尊重し
⑥理想的に
⑦みんな仲良く
⑧協力しあって
⑨相手を励まし
⑩互いを教育する
上記の⑩項目に従って
記事に関連させながら
仏教知識を語ると、
ならば、果たして
このブログ、読むのに面白いことになりますかね?
なので、現状は(過去に照らし合わせて)
①品良く→品悪く
②知的に→感情的に
③差別無く→差別しまぐって
④慈愛に満ちて→批評に満ちて
⑤お互い尊重し→お互いを貶し
⑥理想的に→現実的に
⑦みんな仲良く→ののしり合って
⑧協力しあって→自分本位で
⑨相手を励まし→相手をなぎ倒し
⑩互いを教育する→相手を批判する
そんなところでしょうかね。
ですが、院代様
この現状を削除だけの裁きで
解決しようとなさっている自体
現実を無視なさっている安易な手段かもしれません。
ご自身はコメントに一切参加なさらず
コメ者同士の関係を削除によって
断ち切ることも
仏教者のゆく道ではない気がしますけれど。
ふと疑惑を覚えたひとつの精神の眼は
人知れず、あの無限へと見展かれてゆく
無限を知るほどに、在ることの答えはない。
宗教を興すとは、「ない」ものを「ある」と言いくるめる慈愛の詐術であろう。
しかし、偉大な思想の説かれるところ
自力で考え抜く力なき人々による教団が形成されるのが皮肉な世の常
何かの誰かの観念に
自分の生を肩代りさせて安心を得るとは脆弱なこと
私たちはまだまだ醒め方が足りない。
醒めに醒めて
在ることに価値などない自分がなお在るということに
じっと耐えているべきなのだ。
「自分が在る」ということを疑わない、
あるいは「自分が在る」ということにひとりきりで耐えていられない
虚弱な自我たちのひき起こす 騒々しい出来事の数々が
相変わらない歴史の舞台で演じられている。
現実の変革は思考の変革から始まった逸脱の歴史ともいえよう。
先人達の無限の方向へ酔い痴れた思考や行為が
歴史の広い幅をどれほど逸脱したかが、私たちの眼前に残されている。
「言葉」は人類が生き残るために発明した「道具」である。
だからこの道具の有効範囲は限定されている。
その「言語」の有効範囲を超えて、使用してしまうのが「無明」である。
単語「自己」も同じである。
そして「自受容三昧」は「法楽」である。
「自己の死・苦」の自縛から、解放されている。
「只管打坐」は、ここでは『私秘的な体験に誠実に寄り添う』という形で現成される。
どうも勘違いしているようですね。
道元和尚の『正法眼蔵』は、何度も改訂されている。文章は何度も推敲されている。
そして、「道元和尚の自筆の文章の写真」を拝読していると書き間違いがない。
非常な緊張感を以って書いている。
言葉に対して信頼をおいている。
だからこそ、膨大な執筆も、し続けた。
だからこそ「本文」の「意味」を正確に読む必要があると思うのです。
それが道元和尚への誠意だと考える。
その次の段階で、初めてそれへの「自分の解釈」に移ることになるのです。
今、問題にしているのは、
『一人一人は、異なる世界に住んでいる。だから、世界の受け止め方を伝えるには、
「目線に合わせた方便」が必要。
そのあたりの徹底が、結構
「曹洞宗の原点」のひとつだと思う。』
この主張が道元和尚自身に当てはまるかどうか?である。
道元和尚は、次のように教える。
(岩波文庫 『正法眼蔵随聞記』P141)
「人ありて法門を問い、或いは、修行の法要を問うことあらば、
納子(僧侶)はかならず(仮ではない)実を以って是を答べし。
若しくは他(質問者)の「非器(能力のない)を顧み(考慮して)」、或いは
初心末学の人にて「心得べからず」
(初心者だから、知るにはまだ早い)として、
「方便・不実」(実でないもの)を以って答ふべからず。
・・・
しかれば他(質問者)の得・不得(理解できる・できない)を論ぜず(考えないで)、只、実を以って答ふべきなり。」
「原文の日本語の意味」は明確ですよね。
ここで道元和尚に対しての誠実さを貴方に求めているのです。
「貴方の最初の主張」を裏付ける「道元和尚自身のの文章」を提示して下さい。
初心者への書物『弁道話』を読んでいるが、ここでも「方便」など一切用いていないのです。
著者の文章の意味を汲み取るのが、先ず重要であり、そのことを貴方に要求しているのです。
言葉に対して信頼をおいている。
だからこそ、膨大な執筆も、し続けた。
だからこそ「本文」の「意味」を正確に読む必要があると思うのです。
それが道元和尚への誠意だと考える。
その次の段階で、初めてそれへの「自分の解釈」に移ることになるのです。
今、問題にしているのは、
『一人一人は、異なる世界に住んでいる。だから、世界の受け止め方を伝えるには、
「目線に合わせた方便」が必要。
そのあたりの徹底が、結構
「曹洞宗の原点」のひとつだと思う。』
この主張が道元和尚自身に当てはまるかどうか?である。
道元和尚は、次のように教える。
(岩波文庫 『正法眼蔵随聞記』P141)
「人ありて法門を問い、或いは、修行の法要を問うことあらば、
納子(僧侶)はかならず(仮ではない)実を以って是を答べし。『勝手な解釈、などないのです。「正しい解釈がない」のと同じように。』
どうも勘違いしているようですね。
道元和尚の『正法眼蔵』は、何度も改訂されている。文章は何度も推敲されている。
そして、「道元和尚の自筆の文章の写真」を拝読していると書き間違いがない。
非常な緊
若しくは他(質問者)の「非器(能力のない)を顧み(考慮して)」、或いは
初心末学の人にて「心得べからず」
(初心者だから、知るにはまだ早い)として、
「方便・不実」(実でないもの)を以って答ふべからず。
・・・
しかれば他(質問者)の得・不得(理解できる・できない)を論ぜず(考えないで)、只、実を以って答ふべきなり。」
「原文の日本語の意味」は明確ですよね。
ここで道元和尚に対しての誠実さを貴方に求めているのです。
「貴方の最初の主張」を裏付ける「道元和尚自身のの文章」を提示して下さい。
初心者への書物『弁道話』を読んでいるが、ここでも「方便」など一切用いていないのです。
著者の文章の意味を汲み取るのが、先ず重要であり、そのことを貴方に要求しているのです。
『悪いことをやめること。
善いことに至ること。
自分の心を清らかにすること。』
解脱に至るまでの行為「クサラ(巧み・上手)」
反対語は「アクサラ(下手くそ)」
「クサラッサ ウパサンパダー」というのは
<クサラに行って下さい、クサラに入ってください>ということ。
ただ「悪いことをするなかれ、善いことをせよ」ということではない。
「悪いことをするなかれ」というのは、変なことはしないというだけのことだが、「善行為をしなさい」というのは、ポジティブに進んで行為することを意味する。
「巧みな生き方をしてください、巧みなシステムに入って進んでください」という意味。
ーまとめー
クサラとプンニャ(功徳)は「善」
アクサラとパーパ(悪徳)は「不善」
ー疑問点ー
釈迦は特に善も不善もせず、何年か坐り続け、修行仲間に話した時?、解脱したらしい。
すべての宇宙の法則を知っていたお釈迦様・・ですか
お釈迦さまが神様ならね・・アルアル!!
<誰でも無明、無知なんです。
それはおまえバカやという話と違うんです。>
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/04/23/050000
<生命の中に完全たる智慧が現れて、すべての宇宙の法則を知っていたお釈迦様でも、「わたしの後ろにはせいぜい五百人くらいだ」と言ったんだから。>
五百人くらいはいるんですね。
ともあれこの言語は、 スリランカ、ビルマ(ミャンマー)、タイ、 ラオスなどに伝わった南伝仏教の聖典に用いられている言語です。
インドの言語というとサンスクリット(梵語)が有名ですが、 サンスクリットがその「完成された、洗練された」という名のとおり、 人工的に磨きのかけられた文語であるのに対して、 より俗語、日常語に近い言語のことをプラークリットと呼びます。
プラークリットの中にも数々の言語がありますが、 原始仏教の膨大な聖典に用いられたパーリ語こそが、 文献の多さでは他のプラークリット諸語を圧倒しています。>
https://www.manduuka.net/pali/basic/intro.htm
こうなると、茂木さんの言葉は、「プラークリット」の部類になるんですかね?
中には、茂木さんの「偶有性」に、アレルギー反応が出る方もいるようですが、パーリ語に言い換えた方がシックリきますかね。
まあ言い換えではないでしょうが。
もう、どうしょおもないべ。
じゃあ、どうする?
そうだなあ・・
パーリ語の勉強するべ!
ー平安と忍耐編ー
「平安(カンティ)と忍耐(ティッティカ)は、最高(パラマン)の修行(タポー)である。
涅槃もまたパラマンだと仏たちが説く(ワダンティ)。」
タポーするべ!
もう、どうしょおもないべ。
じゃあ、どうする?
そうだなあ・・
パーリ語の勉強するべ!
ー平安と忍耐編ー
「平安(カンティ)と忍耐(ティッティカ)は、最高(パラマン)の修行(タポー)である。
涅槃もまたパラマンだと仏たちが説く(ワダンティ)。」
タポーするべ!
>「生」の否定なのか
仏教は否定が基本だが
こうだ、と言い切らない。
肯定→否定→肯定→否定→肯定
無常の繰り返し。
余りを出す。
釈迦の余りはどうか。
ニルヴァーナの余りはどうか。
無記ヴァーナ
でも、かまわない。
イエスちゃんの解釈は、イエスちゃんの解釈。ただ、それだけ。
そこが、大切なんではないか、ということです。
「日本文の意味」が以下の通りです。
(現代語に翻訳は、括弧の中です)
岩波文庫 『正法眼蔵随聞記』P141
「人ありて法門を問い、或いは、修行の法要を問うことあらば、
納子(僧侶)はかならず(仮ではない)実を以って是を答べし。
若しくは他(質問者)の「非器(能力のない)を顧み(考慮して)」、或いは
初心末学の人にて「心得べからず」
(初心者だから、知るにはまだ早い)として
、
「方便・不実」(実でないもの)を以って答ふべからず。
・・・
しかれば他(質問者)の得・不得(理解できる・できない)を論ぜず(考えないで)、只、実を以って答ふべきなり。」
「原文の日本語の意味」は明確ですよね。
決して当方の「勝手な解釈」ではありません。
先ずは、
岩波文庫 『正法眼蔵随聞記』P141
を読んで下さい。
本屋で立ち読みでも良く、図書館から借りても良いです。
岩波文庫 『正法眼蔵随聞記』は、
道元和尚を語るには「重要な本」です。
釈迦式(あるいは南式)ニルバーナは
「死」の肯定(=死の受容)であることは確かである様だが、
「生」の肯定なのか
「生」の否定なのか
未だによく分からない。
だれか教えてたもれ。
Unknown18/10/23 03:27
イエスちゃんへの同じ質問は
イエスちゃんブログにてお願いします。
イエスちゃんブログはイエスちゃんのお気に入りコメントしか受付ない「ヨイショブログ」なので
批判的なコメントは拒否されるという狭い器量の持ち主なので、あえてこの場をお借りさせて質問しています。
私たちは無常の中に生きる。読むたびに異なる世界を垣間見させてくれる、正法眼蔵を道標に。
常に世界は変化する。私たちの見ている世界は、無限が現すほんのひとつの表情に過ぎない。
根拠なしのご判断ですか?
『それは、原点である道元和尚にはあてはまらない。』
岩波文庫 『正法眼蔵随聞記』P141
「人ありて法門を問い、或いは、修行の法要を問うことあらば、
納子はかならず実を以って是を答べし。
若しくは他(質問者)の「非器(能力のない)を顧み」、或いは
初心末学の人にて「心得べからず」として、
「方便・不実」を以って答ふべからず。
・・・
しかれば他(質問者)の得・不得(理解できる・できない)を論ぜず(考えないで)、只、実を以って答ふべきなり。」
更に、たとえ小乗仏教を質問してきても、大乗仏教で答えよ!と教えている。
『正法眼蔵随聞記』を読んでいないのですか?
そして、現象は現象として存在する。
『この世のすべてが、決して「確かなもの」ではないということ。
自分が置かれている状況に、「絶対的な根拠はない」ということ。』
「蝋燭の炎」
「炎」とは「熱で蒸発した蠟」と「空気中の酸素」とが起こす「酸化・現象」である。
「燃えるもの」「酸素」「熱」どれかがなくなると、「現象」はなくなる。
水をかけると熱が下がり、炎は消える。
「炎」には「永久に存在する根拠」はない。
しかし、「現象」としては、今、ここに、リアルに存在する。
「自己」も「現象」につけた名前である。
目線に合わせた方便が必要。
そのあたりの徹底が、結構
「曹洞宗の原点」のひとつだと思う。』
それは、原点である道元和尚にはあてはまらない。
あらゆるものは、有限者であり偶然者でもある。
どんな成功も失敗も、得意も失意も幸運も不運も、死の向こうへは持ってゆけない。
みずからの内に根拠を有する必然者ではなく、みずからの内に根拠を有しない
ないことのできる在り方、無が有を侵している在り方で
Seinではない、限定された在り方。
すなわち、有限な存在者はすべて分節的存在である。
何らかの存在限度や存在様式において「ある」の外に出て、
何らかの制限つきで存在を「受けている」のである。
言語は、存在分節を存在規定へ、意味分節を意味規定へ、
観念分節を観念規定へと凝固させてゆき、ついには、記号化させて定式化させてゆく。
定式化が意識表層をびっしり固めてしまう、思い込みと言い方に置きかえてもいいが
人の生存の実態は、思い込みの数が、自分にむけて、他人たちにむけて
有刺鉄線のように張りめぐらされたその中で、生と欲望とが絡まって錯綜している。
思い込みの、がんじがらめの網に、巻きつかれ、意識いっぱいに、
欲望やら欲望の燃えかすやらの跡を満載したまま、生き続けてゆく。
この固定化を能動的に消してゆく、
受動的に消されてゆくことを「すすぐ」と
感情をすすぐ、そうすることで意志も知性も理性もすすがれる。
この、すすぎの過程を修行というのであろう。
だから「見性成仏」「悟り体験」…も批判しているのです。
「悟り体験」否定である「永久修行論」を教える。
「只管打坐」。
洞山和尚の教える「仏向上事」を重視する。「悟った仏の、更にその上の、こと」、つまり、終わりはない。
「修行と悟りとは等しい」「修証一等」。
他方、鈴木大拙も西田幾多郎も
「臨済宗・看話禅」の立場なのです。
この「看話禅」では、原理上、論理上、道元和尚は理解できないのです。
道元和尚は、最晩年は、臨済禅師まで批判するようになった。
日本達磨宗に印可状を書いて渡した中国臨済宗の禅師も痛烈に批判している。
これは「二祖や三祖の日本達磨宗での修行・悟り体験」を批判しているのです。
全てのことは、無数の「直接原因・因と間接原因・縁」とで、「起こる」。
最晩年の道元和尚は「因果歴然」とも言う。
また「個人の行為で決まる」という「業論」「カルマ論」者でもある。
だからこそ、ここに「修行」という行為が成立する。
さらに、ここに「修行する行為者・主体」が「仮設」される。
この道具立てが、
「自己の死の苦が「なぜ」起こってきているのか」
を諦めた、明らかにした。
自己の「死苦」が存在しなくなった世界が「涅槃・ニルバーナ」である。
釈尊は、この禅定を一生涯楽しまれた。
浅い禅定と深い禅定の間を何度も行き来していた。
亡くなる直前も坐禅し、この禅定の運動の中から、「完全な涅槃」に入った。
「深く息を吐き、深く息を吸う」「安楽の法門」が現成する。
ここには「なぜ生きているのか?」の詮索はない。
自受容三昧の世界。
葛藤や迷いもない。
「諸悪莫作」諸々の悪を造るな!も、ない。
西洋で言えば、
「薔薇は・理由なく・咲く」が展開される。
そして何も不足していない。
イエスちゃんブログにてお願いします。
✳ 西田幾多郎には「道元和尚の仏教」は理解できない。
鈴木大拙は「道元禅」は語らなかった。
それは、鈴木には「理解できなかった」から。
それに対する私からのお尋ね
✳ 西田幾太郎さんの哲学を越えることができて
さらに鈴木大拙さんをも批判できる実力をお持ちなのですね。
ぜひ 著名な方々の名前や引用文は抜きでご自身の言葉で
「無常、無我」「縁起」「言葉という道具に騙される」ご説明をお願いいたします。
コメントより、答えが先きでしょう。待っています博識ある実力者としてお願いします。
風もつなかぬ棄てをふね
月こそ夜波の
さかりなりけれ
『この希望が「恩寵」でなくてなんであろう(南師言)』
坐禅が「安楽の法門」という意味は、
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の
「妙術」あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち
「自受用三昧」その標準なり。
(注:自証の法悦を自ら味わいながら、「正法のままに生きる」仏の境界を自受用三昧、または自受用の境界という)
西田幾多郎のいうところの
「(禅定における…)息を吐き息を吸うところに、無上の楽しみがある」
同じことを言っていると思う・・・
「私秘、誠実に添う、宇宙と繋がる」
「恩寵」・・・「安楽の法門」
ー「偶有性」とは何か?ー
<この世のすべてが、決して確かなものではないということ。
自分が置かれている状況に、絶対的な根拠はないということ。
必然と偶然が混ざり合う状態、それが偶有性の領域である。生命はこれまで、偶有性に適応することで進化してきた。その過程を明らかにすることは、「意識の謎」を解く鍵となる。私たちは偶有性から逃れることはできない。その正体を見極め、生命と偶有性を結びつけることで、私たちはきっと再生できる。人類と偶有性の格闘の歴史をたどり、「何が起こるかわからない」世界と対峙する覚悟を示す、新しい生命哲学。
かつて岡本太郎が乾杯の音頭を頼まれて、「この酒を飲んだら死んでしまうと思って飲め、乾杯!」と叫んだように、生きるということは何も見えぬ暗闇への命がけの跳躍である。その一方で、生きるとは、絶えざる「過去との和解」でもある。
私たちは、まずは行動しなければならない。そうしうて、その行動の結果を引き受けなくてはならない。向こう見ずにならなくてはならない。そして、失敗したり、転んだり、怪我をしたり、傷ついたり、傷つけたり、ぶつかったり、すれ違ったり、落胆したり、望外の幸せに浸ったり、時には絶望しなければならない。
そして、私たちの生においては、「星」も「暗闇」も孤立などしていない。私たちの認知の有機的な網の中で、星と暗闇はお互いにふるえ、共鳴しながら命という花火を演出しているのだ。>
なぜ、今これを読むのか。
なぜと問うてはならぬ。
いかに、読むかだ。
最初から、四苦を必然、当然のこととしていれば、わざわざ無常や偶然に戻して、それから必然として受け入れよ、なんて面倒なことをしなくてもよさそうですがね。
人間って、つくづく厄介で、愚かな生き物なんですね。
どちらも、主流とは異なる水源を流れている感がありますね。
①認識の構造を明かす作業
②自己をどう担っていくかの方向性
①と②根底にあるアイデアに共通する水脈がある。
その水脈は
①道元禅師の言う「自己をならう」修行②禅家が標榜する「己事究明」の姿勢と同じであることは、一目瞭然である。
まとめてみたら
論調が納得いけますね。
使われていることばの『水脈』
山脈のような名詞の類似した使い方ですが、
水脈は山脈と違って
掘らなくても
その脈が見えるから
文字に現れた脈も見える院代の可視性に
感嘆しちゃいますね。
私は今回の記事について
誰かさんが古い記事のコピペだとか
手抜きだと言っていて
初めはがっかりしましたが、
関連した昔の記事を読んで
2Dだった事実(脈)が
3Dになって現れていることを再発見したことかなと再読み(再認識)しています。
ですが、また読み直せば
また違う見方が持てるかも知れませんね。
草の庵に立ても居ても祈ること
我より先に人をわたさむ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-10534507016.html
哲さんは、こちらでも活躍されていたのですね。
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/7eb6e0183569ade0de37bfbdca007e3e
大乗仏教の世界感は頭の中の理解ではなく、体験を含めた理解であるし、関係性そのものが世界である、とも受け止める。
自分の世界感が絶対ではないし、自分の感覚に対し他者が異なる解釈をしたとしても、他者が自分と同じ解釈をする、と考える前提が間違っている。
相手の世界感に合わせて話をしないと、会話は成立しないし、争いを生む。世界を受け止めるために争いの種をつくるのは、美しいことではない。
一人一人は、異なる世界に住んでいる。だから、世界の受け止め方を伝えるには、目線に合わせた方便が必要。そのあたりの徹底が、結構曹洞宗の原点のひとつだと思う。
かくかくしかじかの者だ、といった言い方で。
マービン・ミンスキーは、MITの人工知能研究所の創設者の1人だが、
「私」の アイデンティティというものがはたしてあるのか。
なぜなら、人の一生の流れの中で、アイデンティティなるものは年齢から年齢へと変化してゆくのが
観察・認知されているから、と。
言いようもない「私」。
「私」が在ることの、他人と取り換えのきかぬ事実。
そして、それについて責任をとるからこそ在る「私」というもの。
今は、どうだか知らないが。
フランスで滞在許可証に写真を添えて提出しなければならなかった時
それは日本語風に解釈するとアイデンティティ写真だと告げられた
滞在許可証という形の、身分証明書とは異なる、いわば生存認可を得るのである。
「私」「個人」 様々な文化の違いをフランスで知ることができた。
クオリア中
瞬間も永遠もナイヴァーナ
ことこと煮るヴァーナ
苦降りたア
はい、ニコッヴァーナ
出来上がり(´・∀・`*)
不満足(ドウォッカ)故に「苦」を産むので、
自我こそが「苦」であるといえる。
自我=苦、That's it!!
ならば自我が無い状態がニルヴァーナ。
斯くして、
仏教ニルヴァーナは無我である。
茂木ニルヴァーナは無私である。
仏教ニルバーナは永遠の現象。
ついでに死も永遠のニルヴァーナ、
共に完璧な無私であり無我となる。
で同じ伝で、
深い睡眠中もニルヴァーナ。
坐禅では40分のニルヴァーナ。
認知症ニルヴァーナはまあ時と場合によるだろう。
ではクオリアさんは????
ワチキにはとんと分からぬ、頭が痛い。
でも、しかし、
瞬間ニルヴァーナならよく分かる。
日常茶飯事ごととしてよく見てる。
我(われ)を忘れる時はよく起こる。
激怒中、論争中、喧嘩中、恨み骨髄中、
恋愛中、チュウちゅう中、エッチ中、快感中、恍惚中
麻薬中、ドラッグ中、
洗脳中、脳いじくり中、勝ち組興奮中、
腹痛中、歯痛中、下痢中、痙攣中、
南中、茂木中、
~~、~~、
エトセトラ・エトセトラ
これらは皆、瞬間的ニルヴァーナなり、
お分かりかな、みなみな方さま???
どうぞくれぐれもご自愛なさって下さいませ。
主人公が、あの「モーツァルト」と自覚したのは、だいぶ後になってからで、その時は音楽の旋律は心地好いのに、全体的には何だか不気味な印象として残っていました。
モーツァルトの時代は大きな社会変革があり、民衆側の立場で時代背景を映し出し、作品も生み出されていたのでしょうね。
app.m-cocolog.jp/t/typecast/57893/55852
Twitterもされているようで、活動範囲が広いようですね
lineblog.me/mogikenichiro/
有名人なのに
気取りのないところも素敵です♪
赤毛のアンを読まなかったら
今の自分はいなかったかもとは
意外でした★
我々は病んだ世界、転倒した世界に住んでいる。だからもう一度、常識を取り戻さなければならない。小林の思考をきちんと追えば、現代わが国が抱えている問題もクリアに理解できるようになります。」
小林氏は、顔に拘り顔で人を判断し、言葉より顔を重視していた、とか。個人的には、美男美女ほどツマラナイ顔もないというか、恐らく表情ということなんでしょうかね。
「モオツァルトは、目的地など定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れ出されたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。」
<モオツァルトは、現代の芸術家や思想家を毒している「目的」や「企図」というものを知らなかった、と小林は指摘する。>
なぜか?
目的や企図は、当人の目を眩ます。
人を盲目にするものである。
大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である、と。
モオツァルトの音楽から
仏教の新たな形式の均整を見る
伝統の限度を踏み越えては
素早く新しい均衡を作り出す
方々に「思い切って」切られた傷口が
口を開けている
独特の治癒法を発明する為だ
伝統形式の破壊者が
新たな均衡を生み出していく
はず
イエスちゃん17/12/04 07:30 の書き込みから
✳ 西田幾多郎には「道元和尚の仏教」は理解できない。
鈴木大拙は「道元禅」は語らなかった。
それは、鈴木には「理解できなかった」から。
それに対する私からのお尋ね
✳ 西田幾太郎さんの哲学を越えることができて
さらに鈴木大拙さんをも批判できる実力をお持ちなのですね。
ぜひ 著名な方々の名前や引用文は抜きでご自身の言葉で・・・のお答えは??
この二日間での検索した結果のコペピコメント、もう前言を忘れ手のひらを返したようなコメント、頭の中はコピー機??
似るバーナ
緩るバーナ
寝るバーナ
乗るバーナ
あなたは何バーナ?
西田幾多郎氏は、喫煙の息を説かれていた方なんですね。
「楽しみは、息を吐きそして吸うところにある」と。
(当時、西田幾多郎は、人生どん底の状態にあったのに)
他方、世の人は、呼吸を、たのしみ、とはしていない。忘れている。
道元和尚は、「坐禅は安楽の法門」と示す。
他方、世の人は、苦行、修行、悟る手段…と思っている。
禅宗なのに坐禅をしなくなっている。
自分は正しい、絶対に自分は正義の使者だ、なんて思い込んで居るアホは、
自分を(自分から)疑えなんておもわんですね。
そう言う人がやたらと他人を責め立てる。
現在の私たちの「考える」ことに影響を及ぼしていると。
日本を例にとると、子どもが成長して生計を立てられるようになっても、
親はそのうちの一人の子どもと同居するという家族形態で直系家族類型であり、
この直系家族の考え方が強く残っていて、私たちの無意識を規定している。
この直系家族の特徴は父母の言う通りにしていれば良い、自分の頭で考えなくとも、
誰か他の人が考えてくれるという点にあると説いている。
「考える」ということは、答えがないことについて考えることなのだが、
日本の学校では、覚えることは教えても、考える方法については教えない。
まず、「自分を疑う」ことから始め、こういう教育をを受け、今この国のこの時代に生きている、
教師や友人、TVを含めたマスメデイア等などから影響を受け、
自分の中にそうした影響によって生じた偏った考え方が存在しているかもしれない。
考える方法が哲学と言い換えても良いだろう。
「自分から疑え」を原則としたデカルトの「方法序説」などを参考にしてみてはいかが
人生は冒険。そして世界は美しい。釈尊が入滅前に仰ったように。
つまんね~事ごちゃごちゃ考えね~で、
明るく楽しくいこ~ぜよ!!
それ以上でもそれ以下でもない。。。
注;
でも釈迦の言うニルヴァーナって
「私って、いま此処に実存してるみたいだが、あ~やだやだ。
炎が風でフッとかき消される様に、我が身も永遠に消滅してしまいたい。輪廻を恐れること無しに・・・」、
どうやらそんな感覚だったようだ??
精神の支えなしに生きていける日本はどうなってるの。
https://blog.goo.ne.jp/tgalmoh/e/3499de7dae5d2a89befdb98829cde4ef/?cid=ce77573b192b3a0a636308db164e0dda&st=0
何なのでしょうね、どうなってるのでしょうね。
もはや、宗教から不安を与えられているような事態?なんでしょうかね。
認知症と言うニルバーナ。。。
苦も修行もないニルバーナは、ないのではないですかね。
釈尊はブッダの自覚はあったはずで、自分が誰だかもわからなくなる状態を、ニルバーナとは言えないのではないですかね。
我々に説く「何故」とは違う。
根拠の無い苦しみから解放された。
認知症と言うニルバーナ。。。
アレやソレであるはずもあり得たのに、実際にはコレであった、という風に、現象は存在の本質ではないかもしれない。その意味での偶有性。
けれど、偶有性が「リアル」を真に「リアル」として現成する条件なのだとするならば、仮想としてはアレやソレも想像し得るかもしれない。だから、多のうちの一という意味で偶有性。
しかし、実際、現成としては唯一。「現象」と「現象しないこと」とは比較ができない。「ある」と「ない」とは比較できない。その意味で「唯一」とは比較を絶する、かけがえがないもの。
多のうちの一つに過ぎない現象が、翻って唯一絶対の現成として理解されること。それが「リアル」を真に「リアル」として現成する条件としての「偶有性」なのかな。
これ1歩間違うとオームのようになりませんかね。
仏教以外に行きたくなった、ということでしょうか。
が、
ましてや、排泄物を自ら戻すとは。。
2018-10-20 05:10:11
「生命と偶有性」 を添付して下さった方に
ありがとうございます。
私は探せなかったのに、
読んでみたら
手抜き感無くは無いですね。
張り切っていた私の風船に
ピーッシーと空気穴が????
https://www.shinchosha.co.jp/sp/book/603771/
こちらの書評マルゴトですね。
喜ばすべきはずの新○社への恩義でしょうかね。
茂木さんと受賞を分かち合われましたか。
何かを崇め、それを元にしかコメント出来ない諸氏は「真理はこうだ」と言い続ける。○○長老はこう言ったとか、引用文がいかにも自己の代弁者のごとき稚拙なコメントだと気付かない。
私も反省し、問う事から始めることとします。
メールマガジンだったです。
院代による記、
『空海が現代人ならと想像させる書』のURLは
https://www.shinchosha.co.jp/book/378408/#b_review
以下は本文コピー
>自慢話めいた言い草になって恐縮だが、以前、私は著者の大作小説のモデルだと思われていた時期がある。『新リア王』『太陽を曳く馬』の主人公の禅僧の様子が私にソックリだと、多くの人たちから言われたのだ。
それはそれで驚いたが、しかし、作品が私に与えた衝撃は、モデル云々などというレベルのものではない。そこに開陳されていた、我が曹洞宗の祖、道元禅師の主著『正法眼蔵』に対する読みの深さと強度だった。
いつかまたお目にかかって、さらに突っ込んだ話を伺いたいものだと思っていたら、著者が空海上人について書くのだという。これにまた驚いた。実は、私にも空海上人に思い入れがあったからである。
私は、日本の仏教史上、その思想の構造的独自性とインパクトにおいて、空海、法然、親鸞、道元の四祖師に過ぐるはない、と考えている。とりわけ、空海上人と道元禅師はまさに好対照である。
超越的な理念や絶対神的存在を現実世界の根拠に置いて、その世界に存在するものの構造全体を説明する思想を形而上学というなら、日本において初めて形而上学を持ち込み、それを理論的に体系化したのが空海上人だと、私は考える。そして、その影響は彼以後の様々な思想的言説に対して抜群かつ絶大であった(今なおである)。
彼が導入した密教は、大日如来という超越者が人間たる修行僧と修行の果てに合一するというパラダイムを持つ。空海上人はこれを「即身成仏」として理論化した。
この理論は、根底にアニミズム的心性を保持している日本の思想風土に極めて馴染みがよかったのである(「現人神」の存在と「ありのままの世界がそのまま仏の世界である」的言説の大量発生)。
おそらく、法然、親鸞、道元、日蓮など、鎌倉時代の仏教革新運動の担い手たちは、淵源が空海上人である思想(天台本覚思想)への挑戦者として、その強力無比な縛りを断ったのだ。
特に道元禅師は、仏教の核心である「観無常」の立場を決してゆずらず、さらに形而上学を持たない日本的心性を背景に、あらゆる形而上学的言説を拒否して、いわば形而「外」的な視点を確保しながら、独自の体系を構築した。その思想的態度は、まさに空海上人の対角線上にあるだろう。
このような筋書きの読みは浅薄かもしれないが、本書に見る捌きも鮮やかな空海上人の思想解説は、私の読みも満更的外れでもないと思わせてくれた。
今回著者の描き出す空海上人の全体像に触れて、私が特に感慨深く思ったのは、空海上人が現代人だったら、あるいは出家しなかったのではないかということだ。
法然、親鸞、道元などの祖師は、現代にあっても出家しただろうと思える。彼らにはどこかに実存の「苦」に対する痛覚がある。それが彼らを遂には出家に導くような気がする。
しかし、空海上人の場合、「苦」によって出家したようには、どうしても思えない。熱烈な「絶対的真理」への情熱と、それに到達する方法への渇望を胸に秘める、空前絶後の「万能の天才」が、それを実現する場を当時にあっては仏教以外に見出しえなかった結果の行為、それが彼の出家に見える。羽目を外して言えば、もし彼が現代人なら、桁違いの「天才マルチクリエイター」などと言われるような人物になったのではないか。
「お大師様」として、歴史上の人物がこれほど広汎に信仰されてきた事実からして、私は彼のカリスマが、単に仏教僧侶の範疇に納まるものとは思われない。
最後にあえて蛇足を言わせていただければ、その空海上人を観る作者の眼は、当の空海上人の、さらにその向こうを観ている気がする。真理の、仏教の、あらゆる言説の彼方。強引な我田引水をお許しいただきたい。私は、著者の観る彼方に、釈尊も道元禅師も観たに違いない、「実存」の無常があると思うのだ。
(みなみ・じきさい 禅僧)<
今回の記事につなげるパズルのピースかもです。
2015年6月号を探してみたかったのでしたが、
過去記事に遡る検索機能は無かったので、
http://kangaeruhito.jp/search?fulltext=%E8%8C%82%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80%E9%83%8E%E6%B0%8F
上記のURLは茂木さんに関する記事です。
なお、『波』に関する記事も探してみましたが、
無かったので誰かさんが探せたら
コピペ―お願いします。
2015年5月号を探せる人がいましたら
コピペも兼ねてお願いしたいです。
先ずは全文を読んでみて
この記事との合体してみたいですね。
今回の記事は
私にとって
胸が躍るような
文字を打つ指が震えるような
活き活きした記事ですね。
皆様ももう古びたお新香のような
コメントは控えて
今回だけは
新鮮になりましょう。
したがって、それらを「無い」ものとしようとすることである。
が、 ━━ 無いものはどこに在るか。
これは不可能である。
意識の事実としても、単に形式論理学の命題としてでさえも。
私たちは絶対に在るものしか考えることはできないだろう。
「私は私だ」と誰も言う。
じじつそうである。しかし「私」はどこに在るか。
「私」は実体ではない、存在の一形式、もしくは言葉である。
それは、「私とは何か」と問われて、これと答え得るような、どのような何ものでもない。
私たちの精神史に欠けていたものは、存在論である。
自己について、宇宙について、
それらが「在る」と信じることを疑い抜くための徹底的な存在論である。
存在論こそが必須である、私たちが宇宙に置かれたこの位置を正確に知るために。
そしてそれは間違いなく私たちを、とてつもない絶望につきおとす、
人類永遠の理想は宇宙大に霧散する。
「にもかかわらず、しかし!」と呟く
どう生きる、か