恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

悲しみを導くもの

2006年09月26日 | インポート

 先日、切ない、そしてちょっと嬉しいことがありました。

 その日は宿坊にお泊りの人は少なく、初老のご夫婦と同じ年頃のご婦人、それと若い男性だけでした。私は夜に法話をしたのですが、法話というより座談半分の気楽な話をしていました。

 ところが、そのうち、死んだ人を想う人々の気持ちが恐山ではどのように形になって現れるか、というあたりに話が及んだとき、ご夫婦のうちの旦那さんの方が妙に敏感に反応するのです。二重三重に皺で囲まれた大きな目を真っ赤にして、私をじっと見つめてきました。さらにイタコさんの話になったとき、私が、霊魂が本当にあるものだと決めてかかって話を聞くと、よくない結果になることもありますよ、という意味のことを言うと、旦那さんが、

「ああ、そうです。そのとおりです、和尚さん。でもね、わらにもすがる思いで来ている者もおるんです。私はここに来て、死んだ者に会える様な気がしているんです」

と、咳き込むような勢いで言うのです。あわてて奥さんがなだめにかかりましたが、訊いてみると、このご夫婦は一年ほど前、目の前の事故で大事な息子さんを亡くしてしまわれたのでした。これはお二人に大変衝撃的な事件で、特に旦那さんはすっかり体調を崩し、手の震えが止まらなくなり、強度の鬱状態に陥ってしまったのだそうです。息子さんの死が納得できない。なぜ息子が死ななければならないのかわからない。それに苦しんだ果てでしょう。

 すると、それまで黙っていたもう1人のご婦人が突然口を開きました。

「和尚さん、私らみたいなものには何もわからないのですが、死んだ者をいつまでも想ったり悲しんだりしていると、それが邪魔になって成仏できないというのは本当でしょうか。私も子供を亡くしたもので」

 私はしばらく言葉が出ませんでした。ただ、旦那さんとこのご婦人の顔、そして気丈に振舞ってはいるものの、どこからか悲しみが染み出してくるように見える奥さんの顔を見ているうちに、こう思いました。

 この人たちの悲しみを止めてはいけない。今は十分に悲しむべきときだ。悲しみに沈んで当然のときだ。ただ、上手に悲しまないといけない。その悲しみが自分と他人を傷つけないように、悲しみの流れを導いていかなければいけない。

 と、ここまで思ったとき、ふと気がつきました。恐山は自然にその導きができるのではないか。人が変な理屈をつけるより、恐山に任せたほうがよいのではないか。

 翌朝、私は帰り際の旦那さんに挨拶しました。「イタコさん、どうでしたか」。旦那さんはかすかに微笑んで、

「ええ、よい言葉を聞かせていただきました。でもね、それより和尚さん、私はできることなら、もう何日かここにいさせてもらって、修行の真似事をやらせてもらいたくなりました」

 私は嬉しかったです。


忘れてよいこと

2006年09月21日 | インポート

 恐山にいるときは、朝、坐禅をしています。場所は地蔵殿。なんとなくそこが落ち着くので。大体5時ごろから1時間ほどです。6時になると開門するので、参拝の方が入ってくる前にやめます。

 ただ、時々、早起きした宿泊の方が散策や外湯の入浴のついでに地蔵殿までお参りにくることがあり、坐禅している私の後姿に出くわすことになります。先日もそういう中年の男性がいて、帰りがけにわざわざ受付に寄られ、「いやあ、和尚さんの坐禅の姿は美しいですね。見事でした」とほめられました。

 それなりの年月坐禅をしていれば、誰でも形にはなっていくものなのですが、やはりほめられれば嬉しいものです。が、そのとき、私は反射的にある禅僧の逸話を思い出しました。

 昔、中国で、ある禅僧が昼夜をわかたず、熱心に坐禅の修行に明け暮れていました。それを空から見ていた天人は、その修行ぶりに感心して天から舞い降り、すばらしい食べ物や飲み物を供養しました。その様子をたまたま見ていた人がいて、天人が供え終わって再び天に舞い上がると、おそるおそる近づいてきて、坐禅を続けていた修行僧に声をかけました。「お坊さま。あなたの坐禅はすばらしいですね。天人が供養に降りてきましたよ」。すると、修行僧は答えました。「なんだ、天人に見つけられてしまうなら、自分の坐禅はまだまだだな」

 私にも経験がありますが、本当に円熟した坐禅は美しくなど見えません。それどころか、人間が坐っているという気配が消えて、置物がそこにある、とでもいうような感じになります。いかにも坐禅しています、というところがないのです。

 まあ、何をするにしても、人からほめられているうちは、まだまだダメなのかもしれません。「陰徳」という言葉があり、隠れて人知れずよいことをするという意味ですが、これも何だか、わざわざ隠れるところに嫌味な気配があります。

 あるとき、仕えていた老僧が私に言いました。「お前、ほめられたことは紙くずを捨てるように忘れてしまえ。恥をかいたことは、宝を護るように大切にしろ」。そうできるといいなと思います。


思いを汲む器

2006年09月16日 | インポート

Photo_36  恐山には、人々の間から自然に生まれてきた数々の信仰があります。手ぬぐいの林などはその一つですが、夏の大祭の時期、宇曾利山湖の岸辺に続く花や風車、ろうそくやお供えの列、その長さ数十メートルに及ぶ列も、そういう信仰なのです。

 お参りに来られた方は、岸辺にこのような供養をして、岸辺から湖に向かって手を合わせます。湖の方向が西向きですから、西方極楽浄土を望むというわけでしょう。Photo_37

 では、ここで人々は拝んだ後、何をするのでしょう。私も、初めてこの光景を目にしたときは驚きました。彼らは湖に向かって、亡くなった人、懐かしい人の名前を叫ぶのです。びっくりしました。

「おふくろー」「おとうさーん」「あなたー」「たかひろー」

一人が叫ぶと、まるで連鎖反応のように次々と、(失礼ながら)いい年をした中高年の男女が、人によっては涙ぐみながら亡き人の名前を呼んでいるのです。それが湖からこだまになって響き、本当に彼岸の世界の声のようです。

 この呼びかけは、極楽にいる人に会いに来たことを告げているのだと言うのですが、私には別の由来に思い当たる節があります。昔、やはり人々の間に自然に始まった信仰があり、それは「賽の河原」を歩きながら夜を徹して亡くなった人の名を呼び続けると、夜明けにその人に会える、というものだったそうです。この信仰が非常に流行し、物狂いのようになる人がでたり、騒動になったりしたため、本坊が禁止したといいます。以前、岸辺で盆踊りが行われた時代もあったと言いますし、こういう昔の信仰が姿を変えて今に残っているとも考えられるのではないでしょうか。

 このような恐山の信仰を見ていると、その信仰は死者への思いの極めて純粋な表れとしか言いようがありません。手ぬぐいも、湖畔に響く声も、本当に素朴な死者を懐かしむ思いの表出です。それ自体は、仏教の教義とも曹洞宗の教えとも、ほとんど関係がありません。

 しかし、ここには仏教がなくてはならないのです。それは器として必要なのです。人が水を飲むのに器が要るように、人々は死者への思いを汲み上げるのに、仏教という器が要る。人々はお地蔵様だから額づくのであり、湖のむこうにあるはずの極楽に呼びかけるのです。

 恐山の信仰は、確かに教義体系を供えた「宗教」とは違います。しかし、「宗教」はこの土壌の上にこそ育つ。それはどういうことでしょう。

 人はなぜ、どの時代にも、どこの国ででも、死者を思うのか。所詮他人事なら、こうもいたるところ、あらゆる時代で、人は死後の世界を思い、死者の魂を思うだろうか。私は、死者を思う心の底に、決定的な問い、つまり「自分がどこから来てどこへ去っていくのかわからない」という問いがあると、思うのです。それがあるがゆえに、人はただ死者を思うことから、自らの存在の意味を求め「宗教」に向かったのではないか。私はいま漠然と、そんなふうに考えています。

 ところで、10月刊行予定の新著についてお問い合わせがあったので、恐縮ながら書名と出版社を。『老師と少年』(新潮社刊)です。どうぞよろしく。


本、出ます。

2006年09月11日 | インポート

 東京に行って来ました。ある出版社のパーティーのようなものに呼ばれたのです。会場のホテルには200人くらいのマスコミ関係の人たちが招かれていて、この出版社が今年下半期に出版する本の著者を何人か紹介するという、いわば売り込みの催しでした。

 私も10月下旬に一冊、この出版社から出す予定なのです。壇上で3分くらい自己紹介程度のことをしゃべったのですが、その後に出てきたのが、杉本彩という女優さんで、これが「官能小説」を出すらしく、えらくコントラストのきつい有様になりました。

 今度出す本は、異例の出版経緯と内容のものです。今から3年ほど前、私が以前にインタビューを受けたことのある編集者が、大変な勢いで何か書けと迫ってきたのです。30歳そこそことはとても思えない押し出しと食い下がりに、当時頭に何もアイデアが無かった私は、ほとんど出まかせで、断りの口実に「ぼくは今、お経を書いてみたいと思っているんです」と言ったのです。普通の編集者なら、まずこの出版は無理だと考えるだろうと、そのときは思ったので。

 そうしたら、彼は即座に「それは面白い、やりましょう!」と言い放ち、どうやって上司に企画を通したのか知りませんが、正式に出版することになってしまったのです。以後、たった100枚程度の原稿に四苦八苦して、ほぼ3年が過ぎてしまいました。もう2度と書けないし、書きたくもない本です。

 今までは、直接禅や仏教をとりあげて書いてきましたが、今回のものは出版社では一種の文芸書扱いになっているようです。その本のどこがお経かと言われれば、答えようがないのですが、私自身は今でも、釈尊が弟子たち教えを説く「お経」のイメージを捨て切れません。ご一読頂ければ幸甚に存じます。


このお地蔵様の前だから

2006年09月06日 | インポート

P7240020  右の写真は、恐山境内の小高い場所に安置された、一際目立つお地蔵様です。ここまで上っていくのは、お年寄りにはなかなか大変だろうと思うのですが、それでもお参りの人が絶えません。

 今年の5月の連休が明けた頃、霧雨でずいぶん肌寒い日がありました。私は久しぶりに境内から岩場の道を見回ったのですが、ふと見ると、このお地蔵様の台座の下に、一人の男の人がうずくまっていたのです。

 ああ、お参りの人かな、と思い、そのまま行き過ぎたのですが、30分あまりしてからもう一度立ち寄ると、まだうずくまっているのです。ひょっとしたら気分が悪いのかと、私は駆け上がるようにして近づいていったのですが、4,5メートル手前で、ハタと足が止まってしまいました。

 それは60歳前後の背広姿の人でした。彼はお地蔵様の足元に膝まづき、両足の間に頭を突っ込むように深く体を折り曲げ、腹の中に抱え込むように手を合わせ、ひたすらお経を読み続けていたのです。私が見ただけで30分以上です。いったいどのくらいの間、彼はそうしていたのでしょう。白髪頭には、霧雨が水滴になってびっしり付いていました。

 彼に何があったか、それは知る由もありません。ただ、彼は恐山だから、このお地蔵さまの前だから、ああいうことをしたのでしょうし、できたのでしょう。これを「癒し」と言うのでしょうか。違うでしょう。彼はああせざるをえなかったのでしょう。それは「癒し」とはほど遠い、「苦しまぎれ」と言いたくなるような、必死の姿でした。

 恐山のお地蔵様は、こういう人々の切なる思いをずっと受けて止めてきたのだな・・・・そう思ったとき、私ははじめて、仰ぎ見たお地蔵様が、ただの石の仏像ではない何か、あえて言うなら、地蔵菩薩そのものに見えたのです。