先日、切ない、そしてちょっと嬉しいことがありました。
その日は宿坊にお泊りの人は少なく、初老のご夫婦と同じ年頃のご婦人、それと若い男性だけでした。私は夜に法話をしたのですが、法話というより座談半分の気楽な話をしていました。
ところが、そのうち、死んだ人を想う人々の気持ちが恐山ではどのように形になって現れるか、というあたりに話が及んだとき、ご夫婦のうちの旦那さんの方が妙に敏感に反応するのです。二重三重に皺で囲まれた大きな目を真っ赤にして、私をじっと見つめてきました。さらにイタコさんの話になったとき、私が、霊魂が本当にあるものだと決めてかかって話を聞くと、よくない結果になることもありますよ、という意味のことを言うと、旦那さんが、
「ああ、そうです。そのとおりです、和尚さん。でもね、わらにもすがる思いで来ている者もおるんです。私はここに来て、死んだ者に会える様な気がしているんです」
と、咳き込むような勢いで言うのです。あわてて奥さんがなだめにかかりましたが、訊いてみると、このご夫婦は一年ほど前、目の前の事故で大事な息子さんを亡くしてしまわれたのでした。これはお二人に大変衝撃的な事件で、特に旦那さんはすっかり体調を崩し、手の震えが止まらなくなり、強度の鬱状態に陥ってしまったのだそうです。息子さんの死が納得できない。なぜ息子が死ななければならないのかわからない。それに苦しんだ果てでしょう。
すると、それまで黙っていたもう1人のご婦人が突然口を開きました。
「和尚さん、私らみたいなものには何もわからないのですが、死んだ者をいつまでも想ったり悲しんだりしていると、それが邪魔になって成仏できないというのは本当でしょうか。私も子供を亡くしたもので」
私はしばらく言葉が出ませんでした。ただ、旦那さんとこのご婦人の顔、そして気丈に振舞ってはいるものの、どこからか悲しみが染み出してくるように見える奥さんの顔を見ているうちに、こう思いました。
この人たちの悲しみを止めてはいけない。今は十分に悲しむべきときだ。悲しみに沈んで当然のときだ。ただ、上手に悲しまないといけない。その悲しみが自分と他人を傷つけないように、悲しみの流れを導いていかなければいけない。
と、ここまで思ったとき、ふと気がつきました。恐山は自然にその導きができるのではないか。人が変な理屈をつけるより、恐山に任せたほうがよいのではないか。
翌朝、私は帰り際の旦那さんに挨拶しました。「イタコさん、どうでしたか」。旦那さんはかすかに微笑んで、
「ええ、よい言葉を聞かせていただきました。でもね、それより和尚さん、私はできることなら、もう何日かここにいさせてもらって、修行の真似事をやらせてもらいたくなりました」
私は嬉しかったです。