このたびの大震災に際し、多くの犠牲となった方々、被災された方々に、心から哀悼の意を表し、お見舞いを申し上げます。
地震直後から、私自身にも近親者・恐山関係者にも、様々にお見舞いをいただきました。ここに無事をご報告し、深く感謝いたします。
連日の報道を見ると、今回の地震は空前絶後の大災害で、簡単に言うべき言葉が見つかりませんが、ここ数日間、考えていたことを、あえて申し上げておこうと思います。
こういうことが起こると、会う人ごとによく言われるのが、
「いや、和尚さん、本当に世の中何があるかわからないね。まったく諸行無常だね」
という話です。
確かにそれはそうなのですが、実は私が今回いちばん強烈な印象を持ったことは、それとは違うのです。
実は、11日のあの時間、私は福井の住職寺にいて、書類をつくっていました。たまたま、午後3時のニュースを見るつもりで、テレビは付けていました(習慣で、私は通常音声を消している)。
机に向かったままニュースを見逃して、しばらく時間がたったころ、ふと何気なくテレビの画面を見ると、変な模様が出ていました。何だろうと思って近づいてみると、それはまさに、仙台沿岸の農地が、どす黒い津波に飲み込まれていく有様でした。
家屋や自動車、瓦礫をふくんだ凶暴な水流が折り重なり、まるで巨大な軟体動物が身をくねらせながら地面を舐めていくようで、その先には道路を走る自動車が見えます。
「あ、あ、飲まれる」
ただ呆然と見つめていると、自動車はあっという間に消えてしまいました。そこには、当然、運転する人がいたはずであり、その人には家族もいたことでしょう。
このとき私が思っていたことは、なぜ、彼はあそこで運転していて、自分はそれを畳の上でただ見ているのだろうか、ということでした。逆になぜ、彼がここにいなくて、自分があそこで運転していないのか。この違いは何なのか、何がそうさせているのか。
私が「諸行無常」という言葉で感じるのは、こういうことです。この問いの前で絶句する、そのどうしようもない感覚なのです。
私はこれと同じ感覚を、ずいぶん昔に味わったことがあります。
小学校の4、5生の頃、アフリカのナイジェリアでの内戦をめぐって、大量の「ビアフラ難民」が発生しました。このとき、きわめて深刻な飢餓状況が発生し、それがリアルタイムでテレビで報道されました。私はこのとき初めて「難民」という言葉を知ったのです。
今も忘れられないのは、衰弱しきって体の動かしようもなく、枯れ木のような細い手足を折りたたんで、ただじっとうずくまっている、腹を大きく膨らませた幼児の群れです。
私はそれを見ていて、どうしてぼくはテレビのこちら側で、あの中にいないのだろうと思っていました。目の前のおやつと彼らの飢えの違いは、いったい何なのか。
私はそのとき、決してかわいそうだと思ったわけではありません。おそらく恐怖とも違ったはずです。それは得体の知れない脅迫のように感じられる、内臓からせり上がってくるがごとき、嘔吐しそうなほどのわけのわからなさ、不安でした。
こういう災害が起こると、すぐに「天罰だ」「神の思し召しだ」「因果応報だ」などと言いだす輩がいます。私はこういう発言にまったく共感できない以上に、それが虫酸が走るほど嫌いなのです。
この「なぜか」という問いに、人間は答えるべきではありません。答えなき問いが存在することを認め、その重圧に耐え、受け止め、そして相対するべきなのです。その意志と勇気に我々の尊厳がかかるのだと思います。
もう一つ考えたことは、地震「予知」とか原発「制御」とか、「想定内」の事象などというような言葉に象徴される、あらゆる対象をそれぞれに思いどおりに操作することが、人間にとって可能で意味ある、善いことなのだという、17・18世紀ヨーロッパ近代発のアイデア、我々もそれに乗ってここまで邁進してきた道のりに、完全に限界がきたということです。
この「思いどおりにする」アイデアは、資本主義市場経済を足腰として、科学および科学技術を道具に、「自由」「平等」「人権」「民主主義」を思想的に結実させたと言えるでしょう。
しかし、資源・エネルギーの量的限界や、地球温暖化問題に見られる環境負荷の許容し難い高まりも勘案すれば、我々は、近代以降の社会と文化の骨格たる「思いどおり」主義に大きな穴が開いていることを認め、抜本的に再検討する必要があるでしょう。つまり、「どの程度思いどおりにしてもよいのか、するべきか」という、困難で面倒な思惟と実践が今や必要だということです。
おりしも中東では、いいかげん自分たちも「思いどおりにしたい」という人々が「革命」を起こしました。彼らの思いを、さきに「思いどおりにした」私たち「先進国」人が否定できるわけがありません。
とすれば、、「どの程度思いどおりにしてもよいのか、するべきか」を社会・経済システムの問題として捉え返すことは、今後の世界史的・文明史的課題となりえるでしょう。
かりに今回の大震災をそういう文明史的課題だと思うなら、日本人には、この文明のバージョンアップを他国に先駆けて行う使命と能力があるのではないかと、私は思います。
阪神大震災のときに、学校の校庭に延々と二列で並び、援助物資を受け取る被災者の姿は、今も鮮烈な記憶ですが、今回も被災地の方々は、あの状況において実に驚くべき自制を、まるで当たり前のことのように我々に見える静かさで、示しています。
この態度はどうみても、日本人のもっとも誇るべき精神的インフラの一つであり、それは現在も確かに生きているわけです。
私は、「価値観を共有する」という思い込みとか、「みんな仲間だ」的意識による人間関係をまるで信じていません。価値観を媒介とするなら、その価値観を持たない人を排除するでしょうし、「みんな仲間だ」意識は、事情が変われば、あっという間に蒸発するでしょう。
私が信用できる関係は、様々な困難や苦境に直面し、挑戦し、乗り越えていく経験を共に分かちあった人間同士に結ばれる関係です。このような関係をつくりだすのに、我々の「精神的インフラ」は大きな資産でしょう。
このたびの大震災は、おそらく敗戦以来はじめて、「国難」とか「非常時」という言葉を実感させる、国民が共有せざるを得ない画期的経験となることでしょう。
当面の危機をなんとかしのいだとしても、この経験の意味は、今後ながく思想的に問われ、なんらかの社会的実践をもたらすことでしょう。
仏教の思想と実践の意義も、それぞれの僧侶と寺院の在り様をふくめて、今からこの経験に根底から問われることになることは、言うまでもありません。
とりとめのない感想ですが、震災5日目のいま、やはりこのブログに書きとめておきたいと思った次第です。
追記:次回「仏教私流」の日程は、近日中にこの記事中か、次のブログ記事にて告知します。