恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

悪態です。

2011年03月30日 | インポート

 あのなあ。乳幼児はともかく、いま時分、いい大人が水道水や野菜に怯えて、妙な買いだめしてどうするんだ! 

 だいたい、中年が癌になったところで、それが放射線のせいか、体質か、己れの不摂生のせいか、どうしてわかるんだ!! 酒もタバコも睡眠不足も、そればかりか人工着色料や農薬さえ大して気にとめない連中が、スーパーやコンビニを右往左往するなど、片腹痛いわ。

 乳幼児も身近にいないのに、被災地から遠く離れたところで、ペットボトルをかき集めている輩は、その水飲んで生き延びたとして、それが所詮、何だというんだ!!

 それとなあ。「我々はあなた方と共にある」とか「被災者に元気を与えたい」とか言ったり、それに漠然と共感している者たちよ。ならば、今後、原発事故がどのように収束するにしてもその後、まさか周辺の住民や出身者を差別するようなことはないだろうな!

 ヒロシマ・ナガサキの後も、ミナマタの後も、就職や結婚、ひょっとするとただの付き合いでも、それはあったんだぞ。そう聞いているぞ。

「共にある」のも「元気を与える」のも、この先もずっと半径30キロ圏外からと言うわけじゃないんだろうな!!

 和尚なのに悪態です。すみません。


ある憧憬

2011年03月20日 | インポート

 ある人に最近、こう言われました。

「あなたの言ったり書いたりしていることを見ていると、一神教、特にキリスト教を批判している割に、なにか憧れめいたものを感じるが、何かキリスト教に直接言及したものがあるのか?」

 白状すると、図星です。私はいまでも時々聖書を拾い読みすることがあります。

 以下は、ある雑誌の聖書特集に求められて、「好きな言葉」に短文を付したもので、今のところ私が公にキリスト教に直接ふれた唯一の文章です。

それゆえ、兄弟たちよ、われわれは肉に対しては肉に従って生きる義務を負っていないのだ。というのは、あなたがたは肉に従って生きるかぎり、死に向かうが、しかし、霊によって体の働きを死なせるかぎり、生命に向かうからである。

(「ローマ書」8章12・13節)

 

 思い出したくもない思春期時代、ある牧師をあてにして、「神」を棚上げにしたまま、洗礼を受けようとしたことがある。すると、その牧師が言った。

「信仰とは、神を信じるもので、人を信じるものではないんだよ」

 まったく一言もなかった。ならば自分に洗礼は無理だと思った。どうしても、「神」とセットになった「原罪」という考え方を、受け容れられなかったからである。

 後年、パウロのこの言葉を見たとき、私は「原罪」という考え方を生身に引き受けた人間の凄みを思った。

 我々の実存は必然ではない。それは畢竟無意味で、内なる神の「霊」だけが問題なのだ。ならば、「霊によって体の働きを死なせる」とは、「原罪」から救われようというのではなく、それを実存もろとも滅ぼす覚悟のことだろう。

 今に続く畏敬の念を覚えつつも、私は結局、無意味な実存に賭ける、別の道を選んだ。

 ときとして、仏教とは全く異なる光源で我々の実存を照らし出す聖書の言葉は、私が何をどう考えようと、さらになお考え直すことを強い続けるのです。

追記:次回「仏教・私流」は4月21日(木)午後6時半より、東京・赤坂の豊川稲荷別院にて、行います。


大震災

2011年03月15日 | インポート

 このたびの大震災に際し、多くの犠牲となった方々、被災された方々に、心から哀悼の意を表し、お見舞いを申し上げます。

 地震直後から、私自身にも近親者・恐山関係者にも、様々にお見舞いをいただきました。ここに無事をご報告し、深く感謝いたします。

 連日の報道を見ると、今回の地震は空前絶後の大災害で、簡単に言うべき言葉が見つかりませんが、ここ数日間、考えていたことを、あえて申し上げておこうと思います。

 こういうことが起こると、会う人ごとによく言われるのが、

「いや、和尚さん、本当に世の中何があるかわからないね。まったく諸行無常だね」

 という話です。

 確かにそれはそうなのですが、実は私が今回いちばん強烈な印象を持ったことは、それとは違うのです。

 実は、11日のあの時間、私は福井の住職寺にいて、書類をつくっていました。たまたま、午後3時のニュースを見るつもりで、テレビは付けていました(習慣で、私は通常音声を消している)。

 机に向かったままニュースを見逃して、しばらく時間がたったころ、ふと何気なくテレビの画面を見ると、変な模様が出ていました。何だろうと思って近づいてみると、それはまさに、仙台沿岸の農地が、どす黒い津波に飲み込まれていく有様でした。

 家屋や自動車、瓦礫をふくんだ凶暴な水流が折り重なり、まるで巨大な軟体動物が身をくねらせながら地面を舐めていくようで、その先には道路を走る自動車が見えます。

「あ、あ、飲まれる」

 ただ呆然と見つめていると、自動車はあっという間に消えてしまいました。そこには、当然、運転する人がいたはずであり、その人には家族もいたことでしょう。

 このとき私が思っていたことは、なぜ、彼はあそこで運転していて、自分はそれを畳の上でただ見ているのだろうか、ということでした。逆になぜ、彼がここにいなくて、自分があそこで運転していないのか。この違いは何なのか、何がそうさせているのか。

 私が「諸行無常」という言葉で感じるのは、こういうことです。この問いの前で絶句する、そのどうしようもない感覚なのです。

 私はこれと同じ感覚を、ずいぶん昔に味わったことがあります。

 小学校の4、5生の頃、アフリカのナイジェリアでの内戦をめぐって、大量の「ビアフラ難民」が発生しました。このとき、きわめて深刻な飢餓状況が発生し、それがリアルタイムでテレビで報道されました。私はこのとき初めて「難民」という言葉を知ったのです。

 今も忘れられないのは、衰弱しきって体の動かしようもなく、枯れ木のような細い手足を折りたたんで、ただじっとうずくまっている、腹を大きく膨らませた幼児の群れです。

 私はそれを見ていて、どうしてぼくはテレビのこちら側で、あの中にいないのだろうと思っていました。目の前のおやつと彼らの飢えの違いは、いったい何なのか。

 私はそのとき、決してかわいそうだと思ったわけではありません。おそらく恐怖とも違ったはずです。それは得体の知れない脅迫のように感じられる、内臓からせり上がってくるがごとき、嘔吐しそうなほどのわけのわからなさ、不安でした。

 こういう災害が起こると、すぐに「天罰だ」「神の思し召しだ」「因果応報だ」などと言いだす輩がいます。私はこういう発言にまったく共感できない以上に、それが虫酸が走るほど嫌いなのです。

 この「なぜか」という問いに、人間は答えるべきではありません。答えなき問いが存在することを認め、その重圧に耐え、受け止め、そして相対するべきなのです。その意志と勇気に我々の尊厳がかかるのだと思います。

 もう一つ考えたことは、地震「予知」とか原発「制御」とか、「想定内」の事象などというような言葉に象徴される、あらゆる対象をそれぞれに思いどおりに操作することが、人間にとって可能で意味ある、善いことなのだという、17・18世紀ヨーロッパ近代発のアイデア、我々もそれに乗ってここまで邁進してきた道のりに、完全に限界がきたということです。

 この「思いどおりにする」アイデアは、資本主義市場経済を足腰として、科学および科学技術を道具に、「自由」「平等」「人権」「民主主義」を思想的に結実させたと言えるでしょう。

 しかし、資源・エネルギーの量的限界や、地球温暖化問題に見られる環境負荷の許容し難い高まりも勘案すれば、我々は、近代以降の社会と文化の骨格たる「思いどおり」主義に大きな穴が開いていることを認め、抜本的に再検討する必要があるでしょう。つまり、「どの程度思いどおりにしてもよいのか、するべきか」という、困難で面倒な思惟と実践が今や必要だということです。

 おりしも中東では、いいかげん自分たちも「思いどおりにしたい」という人々が「革命」を起こしました。彼らの思いを、さきに「思いどおりにした」私たち「先進国」人が否定できるわけがありません。

 とすれば、、「どの程度思いどおりにしてもよいのか、するべきか」を社会・経済システムの問題として捉え返すことは、今後の世界史的・文明史的課題となりえるでしょう。

 かりに今回の大震災をそういう文明史的課題だと思うなら、日本人には、この文明のバージョンアップを他国に先駆けて行う使命と能力があるのではないかと、私は思います。

 阪神大震災のときに、学校の校庭に延々と二列で並び、援助物資を受け取る被災者の姿は、今も鮮烈な記憶ですが、今回も被災地の方々は、あの状況において実に驚くべき自制を、まるで当たり前のことのように我々に見える静かさで、示しています。

 この態度はどうみても、日本人のもっとも誇るべき精神的インフラの一つであり、それは現在も確かに生きているわけです。

 私は、「価値観を共有する」という思い込みとか、「みんな仲間だ」的意識による人間関係をまるで信じていません。価値観を媒介とするなら、その価値観を持たない人を排除するでしょうし、「みんな仲間だ」意識は、事情が変われば、あっという間に蒸発するでしょう。

 私が信用できる関係は、様々な困難や苦境に直面し、挑戦し、乗り越えていく経験を共に分かちあった人間同士に結ばれる関係です。このような関係をつくりだすのに、我々の「精神的インフラ」は大きな資産でしょう。

 このたびの大震災は、おそらく敗戦以来はじめて、「国難」とか「非常時」という言葉を実感させる、国民が共有せざるを得ない画期的経験となることでしょう。

 当面の危機をなんとかしのいだとしても、この経験の意味は、今後ながく思想的に問われ、なんらかの社会的実践をもたらすことでしょう。

 仏教の思想と実践の意義も、それぞれの僧侶と寺院の在り様をふくめて、今からこの経験に根底から問われることになることは、言うまでもありません。

 とりとめのない感想ですが、震災5日目のいま、やはりこのブログに書きとめておきたいと思った次第です。

 追記:次回「仏教私流」の日程は、近日中にこの記事中か、次のブログ記事にて告知します。


「罪」と「信」

2011年03月10日 | インポート

 理解できないものは信じられない、と言う人がいますが、理解できることは信じるまでもなく、理解するだけでよいはずです。理解できないものだから、そこに信じる行為が成り立つというものでしょう。「不合理なるがゆえに我信ず」と昔の賢人が言ったゆえんです。

 とはいえ、何がなんだかわからないものを信じるというのは、不可能に近いくらい難しいことです。ですから、そもそも絶対的な理念や絶対神的存在、定義上人間の「理解」を超えた存在性格をもつ何ものかを「信じる」とは、そもそもどういう行為なのかが問われざるを得ません。

 このとき、その絶対神的存在が、我々を「審判」したり「救済」するという権能を持つというなら、それを「本当に」「真剣に」「心から」信じているということは、いかにして自分にも他人にも納得させることができるのでしょうか。

 熱狂的な礼拝を際限なく繰り返そうと、いかに莫大な供物を奉げようと、それで信じる行為そのものの確かさ、「純度」を保証できるわけではありません。絶対神的存在から何らかの「御利益」を引き出すための取り引きでないとも限らないからです。

 おそらく、「信じる」行為は、それをどのように言語や身体行為に変換しても、変換した時点で、決定的に「純度」を毀損するでしょう。それは、誰にも決して「わからないもの」を自分たちに「わかる程度のもの」(たとえば、「相手は取り引きに応じるだろう」と考えない限り、供物は無意味)に変換することだからです。

 とすると、つまり、「絶対的存在を信じる」という行為は、その「絶対的存在」との関係でいくら考えても、「信じている」ことの強度や純度は実感できないことになるでしょう。

 そこで思いつくのは、目を信じられる神から信じる人間の側に転じてみることです。信じようとする者が自らの在り様を徹底的に批判・否定して、その苦境、悲惨、無力さを際限なく自覚し続け、そうすることによって、我々の実存を救済する能力の偉大さを反照的に強調して、この能力の持ち主の存在感を確保する、という手法です。要するに、「相対者の相対性を徹底的に暴露することで、絶対者の絶対性を高め続け、それで「信じる」行為のリアリティを担保しようというわけです。

 絶対神的存在を前提する救済型の宗教・宗派が「原罪」とか「罪業」を強調したり、いわゆる「悪人正機(正因)」説のようなアイデアを持つのは、こうした「信じる」構造があるからではないでしょうか。この場合の「罪」は、もはや我々の実存の別名です。実存の悲惨の根源として設定される「罪」の重さを自覚し続けることが、「信仰」の強度を備給し続けるという仕掛けです。

 そうなると、最終的には「救済される」という期待さえも「信じる純度」を濁らせる「取り引き」と思われるでしょうから、これを突き詰めると、「罪」的実存とされた我々は、「救済」の放棄という「絶望」において、はじめて「信じる」ことが成立する、という理屈になるでしょう。

 まさに、神の「沈黙」にどれだけ耐えられるかが、人の「信仰」を試すわけです。


デジタル・ニルヴァーナ

2011年03月01日 | インポート

「この先、臓器移植技術が発達し続けるとすると、最終的には、人間の個別性、つまり自己の自己性の物質的基盤はなくなりそうですね」

「脳移植が可能になり、社会がその実施に踏み切れば、もう決定的でしょうね。しかし、移植技術とは別に、もっと自己性を揺るがす問題があるでしょう」

「デジタル技術ですか?」

「その通り。現在のネット空間が、すでにある意味で記憶の共有でしょう。かりに相応の手術で各自の脳から直接ネットに接続できるようになれば、もはや、『自分の』とか『個人の』という所有格のついた記憶は無意味でしょう」

「それでも所有格を維持するとすれば、それは資本主義市場を維持する必要上のことでしょうね」

「たとえば暗記中心のあらゆる試験は一切無意味になる。それでも試験というなら、労働市場がとにかく『人材』を選別する必要があると考えるときだけ、ということですね」

「さらに脳システムの解明とデジタル技術が進めば、意識や思考さえ相互に接続することができるかもしれない。いわば『集合意識』と『共同思考』しかない世界」

「つまり『私』という言葉が無意味になるわけですな」

「とすると、それを『意識』や『思考』と呼べるかどうか、もうそれもわかりません」

「あえて言えば、それは何ですか?」

「インターネット技術がこの世に提供する『ニルヴァーナ』かもしれません」

「幸せなんでしょうか、それ」

「『死』を望んでいる人には、たぶんそうでしょう。『完全な消滅』を望む人には、おそらく違うでしょう」