恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

あこがれの「カンロク」

2020年07月30日 | 日記
「カンロクのある和尚さんになりたい」

「カンロクって、貫禄のことか?」

「そう」

「突然どうした?」

「ぼくも還暦過ぎて62だろ。やっぱ、もう少し貫禄が必要では?」

「どうして?」

「うーん。まずね、他人から『老師』と呼びかけられると、どうしようもなく恥ずかしい。背中がぞくぞくするのが治らない」

「ダメなの? 60過ぎたら言われても仕方ないよ。この業界では」

「それと、『先生』がダメ。メディアの人とかに言われるんだけど」

「他に言いようがないんじゃない? 立場的に」

「そうなんだろうけどさあ、ぼく、苦手なんだ。学校嫌いだったからかなあ…。で、だからさ、『老師』とか『先生』とか言われても平然としていられるには、貫禄を身につければいいかなと思うわけ」

「なんだか問題解決の方向性が間違っているような気がするぞ。だって、そもそも貫禄は結果的に身につくわけで、目指してそうなるものではないだろう」

「でも、そうなりたいんだもん」

「だいたい君の言う貫禄って何だ?」

「そう・・・、それはだな、こう、威圧感ではなくて、度量があるというか、器が大きいというか、誰に対しても、それ相応の対応ができて、安心感を与えるというか・・・」

「君、いろんな人の相談を受けたりして、それなりの対応力があるんじゃないの?」

「そうかもしれんが、それが『度量』とか『器』方面の評価に結びついていかないんだなあ」

「じゃ、今まで、どんなことを言われてきたの?」

「一番多く言われるのは、怖い人だと思っていたらそうでもなかった、というやつ」

「そりゃ、貫禄の話にならんな」

「あと、結構多いのが、得体の知れない人とか、ちょっとマシだと、清濁併せ飲む、みたいなこと」

「それも『度量』『器』関係からズレるよな」

「一番びっくりしたのが、恐山に旅行で来た外国人が、後に書いたエッセイの中で、法要をしている僕のことを『人類の進化の果ての姿を見るような』と言っていたんだ。もう、何が何だかわけがわからん」

「やっぱりさあ、路線的に無理だよ。貫禄や度量は、君みたいなタイプは無理。それは『保守本流』、『正統派』のゴールだよ。所詮『私流』は、傍流だぜ」

「はああ…。貫禄どころか、このままやさぐれていくしかないのかなあ」

番外:意味の前後

2020年07月26日 | 日記
 我々は誰一人として、生まれてくる理由を知らず、死ななければならない理由もわからない。そもそも、出生も̪死もそれ自体として体験できない以上、生まれた後や死ぬ前に他人から聞かされる「理由」語りは、正体不明の物事を云々する、御伽噺も同然である。

 つまり、我々の生や死には、それ自体として意味や価値はない。したがって、我々が今実際に存在していることついては、誰ひとりとして、それを無条件で肯定すべき理由を知らず、それを全否定する権利を持たない。

 生に意味や価値が生じるのは、死を選択できるにもかかわず、生を決断した時である。それ以前には何もない。決断の後に意味と価値がある。

 このとき、ある個人の決断がある個人の生に意味を与えるのでない。個々人の困難な決断の連続が、そのたびに人間が人間として生きる意味と価値を創造し、維持するのだ。なぜなら、生や死そのものに人称も個性もなく、誰もが生き、誰もが死ぬからだ。ならば、一人の生死の決断から生じる意味は、その他の生死にそのまま共有される。

「死ぬよりつらい」や「死んだほうがまし」と思うときに、死ではなく生を選ぶ行為のみが、この世に人が生きる意味と価値を生みだす。

 あらかじめ意味があって生きるのでない。死なない決断が意味を作るのだ。

異例の大祭

2020年07月20日 | 日記
以下は、19日法要後の挨拶です。

 皆様、本日のご参拝、誠にお疲れ様でございました。このような時節にもかかわらずお越しいただき、心より有り難く存じております。

 すでにご案内の通り、今年は世界的に未曽有のウイルス禍に見舞われ、当恐山も5月には宿坊を閉鎖したまま開山の止む無きに至り、そしてまた明日からの夏季例大祭も、大きく規模を縮小して行うことと相成りました。とりわけ季節の風物詩の感あった山主上山式を中止せざるを得ない仕儀となりましたことは、記憶・資料にて遡れる限り、前例を見ない事態であり、残念の極みでございます。

 さらにまた、昨今のうち続く天変地異による災害の頻発は、我々の想像を超えるものであり、近くは九州を中心とする豪雨災害の犠牲者の方々には、心よりご冥福をお祈りし、被災者の皆様にはお見舞いを申し上げ、復興の早からんことを祈念させていただきます。

 いま「想像を超える」と申しましたが、このような「思ってもみない」出来事は、同時に「思うようにならない」「ままならない」出来事、すなわち私たち人間にはどうしようもない事柄です。

 振り返ってみれば、普段は意識しないでしょうが、そのような災難は、歴史上、過去にいたるところで何度も起きたことでしょう。疫病然り、災害しかりです。少し日本史を繙いても、それは明らかです。

 おそらく昔の人々は、そのような災難のたびに、己の無力を悟り、神仏の救済と加護を願ってきたに違いありません。技術も医療も十分ではなかった時代には、それ以外にできることはなかったのです。

 恐山のご本尊は「延命地蔵菩薩」と申し上げます。この「延命」の二文字に、この地まで参って来られた人々の切なる願いを感じざるを得ません。生き難い、思い通りになることがごく僅かしかない時代に、無事に命を長らえることは、彼らにとって、まさに神仏への祈りによってのみ可能だと思われたことでしょう。

 21世紀の我々は、昔とは比較できないような科学技術や医療を持っています。無論、国力の違いは未だに大きく、その恩恵に偏りのあることは否めません。しかし、大きく見て人類の「思い通りにできる」ことが飛躍的に拡大したとは言えるでしょう。

 それでもなお、今回のウイルス禍と、おそらく地球規模の気候変動は、少なくとも現時点では、人類の「思ったようにできる」能力を凌駕する、「ままならない」事態です。私たちは、大きな厄災に直面した今、再度この「ままならなさ」に思いを致し、深く自らを省みるべきではないでしょうか。

 もし、この非常な困難にも意味があるとするなら、その「ままならなさ」から、人間としての謙虚さを取り戻すことでしょう。我々は何でもできるわけではなく、何をしてもよいわけでもないのです。

 気候変動は人間の活動がもたらし、ウイルスを森林から呼び出したのも土地開発の果てだとするなら、何が今後に問われるかは、自ずとわかることです。

 いまや、人知の小ささ、我々の生の無常を改めて自覚して、人間としての在り方を根底から見直す時代が来たことを、私は思わざるを得ません。それはまさに宗教の存在意義が厳しく問われる時代の到来でもありましょう。

 駄弁を長々と失礼しました。思いのあるところをお察しいただき、御ゆるしを願います。本日はお参りありがとうございました。

身体の行く末

2020年07月10日 | 日記
「明治維新」以来、「西欧列強」に追いつき追い越せと、「一致団結がんばれ」主義で「富国強兵」に邁進してきたら、「強兵」で大失敗してしまったので、その後は「富国」一本に絞って、すなわち「アメリカのように豊かに」なろうと、また一致団結、日本は戦後を全力疾走してきました。この事情は戦後の他国もおおよそ似たようなものでしょう。

 結果、日本は1980年代には、「アメリカのように豊かに」なってしまいました。すると、豊かになるための「一致団結がんばれ主義」社会体制も用済みにということになりますから、社会全体が機能不全に陥っていくのは当然でしょう。その最初の顕在化が、バブル経済とその崩壊、高速道路の倒壊に代表される阪神大震災の衝撃や、オウム真理教事件の驚愕でしょう。

 さて、このとき、私が注目するのは、「身体性」の問題です。それはどういうことか。
 
 バブル突入までの日本経済が目指していた「豊かさ」は、まず衣食住で豊かに、便利になることでした。いわゆる「三種の神器」にはじまり、その後の「マイホーム」「マイカー」「海外旅行」にしても、経済を成長させ、資本を拡大させる駆動力は、人間の身体的な欲望に根ざしていたと言えるでしょう。その終わりがバブル時代でした。

 そのバブル前夜と言うか、バブルの黎明期、すなわち1982、3年頃、当時私が勤めていた百貨店(実に飛ぶ鳥を落とす勢いでした)の会長は、新年の訓示でこう宣いました。

「みなさん! いまや物を売る時代は終わりました。これから我々は、文化を売るのです。情報を売るのです。そして、金で金を売っていくのです!!」

 聞いた私は驚愕しました。「ここは百貨店じゃないのか!?」
 
 この驚くべき会長の言葉の意味を、いま私が解釈するとこうなります。 

〈いまや、身体に根ざした欲望で商売する時代は終わった。市場と資本は、人間の身体性の限界を突破して、というよりも身体性を捨て去って、「金で金を売る」自己増殖システムに変貌したのだ。〉

 だからこそ、これ以後、お金は株式市場と企業の内部留保という市場システムの中に堆積し続け、人々の個々の生活(身体性の実質)には大して配当されないままで来たわけです。さらに言えば、現在のシステムは、もはや基本的に人間が邪魔なのです。なぜなら、人間の身体的生存にはコストがかかるからです。

 ところが、人間の意識はそう簡単にかわりませんから、すでに完全に時代遅れになった「豊かに便利に、一致団結」主義幻想から覚めません。オリンピツク・リニア新幹線・万博の三点セットは、「高度成長よ、もう一度」という過去の亡霊です。つまり「身体的欲望」の追憶の中に沈み込んでいるのです。

 東北大震災と原発事故で、さすがに一昔前の幻想から覚めるかと思いましたが、なにせ日本社会の「指導者層」のほとんどが、昭和30年代以前に生まれた、幻想がリアルだった時代を生きてきた連中ですから、そう簡単に頭は切り替わりません。

 とうことは、社会体制は基本的に変わりませんから、それに規定される個人の意識も、違和感は増大しても、次の展望を得るまでに至りません。

 しかし、私に言わせれば、バブル以後の変化の根底には、我々には定かに見えぬまま、市場と資本による身体性の消去という力が一貫して作用し続けていたと思います。

 人間の身体的欲望を実現する手段だったはずのお金が、それ自体目的化(資本の自己増殖)して、さらにお金儲けの手段だったはずの情報が、また自己目的化(情報社会)します。「キャッシュレス社会」とか「電子マネー」と言う概念は、まさに市場と資本が、もはやお金ではなく情報の自己増殖に依存していることを意味するでしょう。
 
 すると次には、情報を流通させる手段であるデジタルシステムそれ自体の維持と拡大が、自己目的化していくのではないでしょうか。このとき、システムにとって身体はまるで無駄で邪魔にしかなりません(その「部品」はチップであればいいし、そうでなければならない)。

 ならば、現今急激に進展するIT技術は、まさに身体性の消去技術と言えるのではないでしょうか。バーチャルリアリティ、人工知能、ロボット・サイボーグ技術、それらはまさに身体性の代替と拡大がテーマです。これは言い方を変えれば、身体性の消去を目指しているということです。 

 今般のウイルス禍は、この「身体性の消去」という潜在していた時代の動向、すなわち市場と資本に潜在する志向を一気に可視化して万民にあからさまに見せつけたと思います。それが、「ソーシャルディスタンス」という「新たな生活様式」です。これは今後の社会体制の変化の別名でしょう。少なくともその始まりです。

 この「ソーシャルディスタンス」を徹底すれば、それは要するに、身体を媒介とするコミュニケーションを排除することに他なりません。もちろん、今後ワクチンや特効薬が開発され、現今のウイルス禍が終息すれば、徹底した排除には至らないはずです。

 しかし、「ソーシャルディスタンス」を要求する体制と、それが規定する意識は、そう簡単に解消しないだろうと、私は思います。なぜなら、身体性の消去を志向する市場と資本は、今後も「ソーシャルディスタンス」を望むからです。この「ディスタンス」をIT技術で埋め合わすことができるなら、コストのかかる人間の身体性は消去したいはずです。

 では、我々の社会は今後、この「消去」方向に一目散に駆け出していくでしょうか? 我々はそれを望むでしょうか?

 市場と資本の望む「消去」に任せれば、その極限において人間は身体性を失い、デジタルシステムに統合され、「人間」は終わるでしょう。

 ところが他方で、今回のウイルス禍は、我々の社会に、長らく等閑に伏していた身体性を、再び呼び起こしました。つまり、ウイルスが我々に「死」を広く強く意識させたのです。
 
 さらにまた、ウイルスは多くの場合、野生動物から人間に感染します。ということは、市場と資本の拡大が資源開発を通じで、ウイルスを自然から社会に呼び込んだということです。

 そして、奇しくも、今人類は、市場と資本の拡大がもたらしたであろう気候変動の「危機」にさらされています。つまり、ウイルスと気候変動は、その災禍と危機において、いま我々の身体性を強く刺激しているのです。

 今後、我々が再度自覚した身体性を護持しようというなら、つまり「人間であること」に留まろうと言うなら、市場と資本の際限のない運動を制限する仕掛けを工夫する必要があるでしょう。

 果たして、我々は身体性の「消去」に向かうのか、「維持」を目指すのか。この岐路にいきなり我々を立たせたことが、大げさに言えば、現在のウイルス禍の「文明史的意義」ではないかと、私は妄想的に思っています。