恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

年の終わりに

2009年12月30日 | インポート

 今年亡くなった著名人に、落語家で人情噺の名人と言われた三遊亭円楽氏がいます。彼が生前、インタビューに答えてこんなふうに言っていました。

「落語家の道を選んだという、自分の選択がよかったな、間違いなかったなと思えることが、嬉しいですね」

 うらやましいなあ、と思いました。

 私が仏門に入ったのも完全に自分の選択ですが、それは、いろいろと道はあろうが、中でもこれが一番やりたいことだからやってみよう、、、というのとは違いました。

 私の場合は、もはや他に望みをつなぐ術がないという、消去法の結果による選択だったのです。その意味では、修行僧時代に何事も夢中でやっていた頃、「直哉さんは、生まれながらのお坊さんだよね」などと言われたときには、相手が好意から言ってくれるのがわかっていても、苦笑いせざるをえませんでした。

 そういう極めて覚束ない足取りで歩き出した道を、今なお歩んでいられるのは、周囲の人々にずいぶん恵まれたからだと思います。その中でも、今年は、大事な人を多く失ってしまいました。

 3月に思いがけず師匠を亡くし愕然としたのですが、その後も、私が永平寺に入ったことを一番驚いて心配し、10年以上も、着物や襦袢をほとんど一人で縫い上げて送ってくれた伯母、若輩者を福井の寺に迎え入れてくれた当時の筆頭総代、さらに御本寺の住職、そして11月には、このブログでも何度か紹介した、不安だらけの私の修行時代を励まし続けてくれた老僧まで、亡くなってしまいました。

 自分の51という年齢を考えれば、これもそういう時期なのかと思うほかありませんが、人の有り難さが身にしみた年として、今年は長く記憶にのこる1年となるでしょう。

 もう一つ、今年私の記憶に残るのは、何人かのお医者さんから、安楽死や尊厳死の問題について質問されたことです。それも、判で押したように同じタイプのお医者さん。女性でまじめ、患者から好かれ信頼され、治療の腕も確か。その人たちが、患者の死の現場に望んで、延命することが使命の医者の立場と、人生の終わりに平安を望む人々の心情の狭間で、深く悩んでいるのでした。

 仏教の戒律から言えば、自殺は許されず、死の賛美や勧めも禁止です。しかし、経典を読む限り、修行が進まないまま、自分の境地が後退していくのを憂えて自殺した僧侶に、釈尊が理解を示す話もあります。つまり、この問題には原則で単純に割り切れない側面があることも、当時から意識されていたのでしょう。

 私は最近では、こんなふうに考えるようになってきました。

 十分に生きたという実感のある人間が病を得、ついには治癒の可能性が全く失われて、自らの死を受容する心境となり、もはや到来する死を妨げず、穏やかな最期をとげたいと望むなら、それは社会としても受容するべきだろう。そして当人の意志を担保するためのルールと、それに関わる医師と家族の立場を公平かつ確実に保障する制度を、法的にもつくりだすべきだろう。

 平均寿命が80歳をこえようとし、技術の進みようでは120歳まで生きることができると言われるような社会においては(これは重要な前提です)、もしかすると「生を延長する」ことよりも、「死を確保すること」のほうが、私たち個人にとっては、はるかに困難で、実は重要なのではないか。

 年末最後の、とりとめのないもの想いでした。

 本年も当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。皆様の明年のご多幸を切に祈念申し上げます。合掌。


雪深し

2009年12月21日 | インポート

 このところ、青森県は連日大雪。5年前にむつ市に生活の本拠地を移して以来、12月のこの時期、これほど毎日雪が降るのは、私もはじめての経験です。というわけで、毎朝5時半起きで雪作務(ゆきざむ・禅道場では雪搔きをこう呼ぶ)です。福井もずいぶん降ったようですから、年末年始に帰ったときには、しっかり雪作務に励まないといけないかもしれません。

 禅寺では、「一作務、二坐禅、三看経(いち・さむ、に・ざぜん、さん・かんきん)とも言い、道場生活を支える労働が、修行として非常に重要視されました。これは、僧侶の労働を原則として禁じるインド仏教とは大きく異なる、中国禅仏教における新機軸です。

 この労働に宗教的な価値を見出すという考え方には、インド仏教に比較して、人間の存在と現実世界のあり様をずっと肯定的にとらえる、中国の思想・文化のスタイルが影響していると言ってよいでしょう。

 私もまた、中国的な発想とはいささか別に、「関係から存在が生起する」という縁起の教えにおいて、その縁=関係を具体的に実現するものとして行為を考える立場から、労働の様式などに強い関心を持っています。つまり、人間と人間の、あるいは人間と物との関係の様態に、労働の様式やシステムが決定的に作用していると思うからです。

 また、そういう理屈はさておき、私は修行僧時代に、作務のような単純な肉体労働の効用を実感しています。

 ことわっておきますが、私は決して、作務が好きなわけではありません。また、好きでやるようなことは、修行とは言いません。修行というのは、やって当然、やらねばならないことを、やらないと不調を感じたり、罪悪感が出てくるようなレベルまで持っていくことです。

 その意味では、「効用」を云々しているようでは、私の修行も今なお大甘ですが、実際、はっきり効果を断言できるのは、込み入った理屈を考え続けて行き詰まったり、難題を打開するアイデアが出ずに苦しんでいるような場合です。そういうとき、雪作務だの草取り作務などの、単純作業を続けていると、その最中に、極めて高い確率で、突如として結構な考えが浮かんでくるのです。本当に、水中深くから大きな泡が湧いて出るようです。

 これは思索に没頭する人間が、往々にして散歩を好むのと同じようなものかもしれませんが、経験上、効果は確かです。これを「身心一如」などと言うと、浅はかな理屈に落ちる話になりますが、将棋の羽生名人が、理屈で使う左脳よりも、右脳の直感で勝負するというような話をきくにつけても、やはり人間の理屈の底に横たわる何ものかを想像せずにはいられないところです。


「虚無」を超えて

2009年12月10日 | インポート

 最近仏教に興味を持ち始めたという若い人に質問されました。

「仏教の無常とか無我とかいう教えを突き詰めると、確実な根拠を設定して発言することは錯覚にすぎない、ということになりませんか? すると、無常と無我という考え方自体も錯覚になりませんか? そうだとすれば、これはただのニヒリズムではありませんか?」

 私の返答。

「無条件かつ絶対に確実な根拠に基づいて正しいと判断された物事や考え」、これを仮に「真理」とすれば、私が考える仏教の立場からすれば、その一切が完全に錯覚です。もし「無常」や「無我」も「真理」として主張されるなら、当然、錯覚にすぎません。「真理」の主張とは、実際には、発言者の依拠する立場と信念の正当性を、主張しているにすぎません。

 ときどき、「仏教とは(宗教ではなく)科学である」というような、実に無意味な主張がされますが、仏教にも科学にも「真理」と考えられるべきいわれはまったくなく、そう主張されたからといって、科学の理屈で仏教の「真理性」が高まるわけでも、仏教の威光で科学の「万能性」が保証されるわけでもありません。

 では、仏教はニヒリズムか? あらゆる立場や考え方を相対化して、傍観し冷笑するのか?

 思うに、仏教は(仏教を含む)あらゆる立場や考えの相対性を認めた上で、「絶対確実な根拠」を持たぬまま、ある一つの立場(仏教者なら無常と無我の考え)を選ぶべきだと、勧めているのです。この決断(私に言わせれば、賭け=「信」)こそが、ニヒリズムの向こう側に出る営為でしょう。

 ある対話。

若者「ビックバンで宇宙ができたと科学者は言いますが、なぜ爆発したのか、どこで爆発したのか、爆発する前どうだったのかは、科学ではわからないでしょう?」

科学者「科学では、そういう問いは無意味なものとして、考えないんだ」

「そういう問いは無意味なものとして考えない」という一定の立場の選択(条件付け)が、科学の「真理性」を担保しているのであり、逆に言えば、科学の語る「真理」はその程度だということです。

 もう一つの対話。

老人「あなたは人間は輪廻すると説教しているが、本当だと証明できるのかね」

僧侶「信心が足りないから、そういうことを言うんだ」

 僧侶が「絶対確実な根拠」を持たずに説教していることは、はじめから自明です。だから「信心」なのです。「信心」が足りようが足りまいが、「本当にあるという証明」なんぞ、どのような方法であれ、できるわけがありません。


整形と成仏

2009年12月01日 | インポート

 風邪をひいて、丸1日寝ていました(新型インフルエンザではありません。念のため)。ここ1ヶ月あまり、突発的な出来事があったりして、スケジュールが混乱し、5日も同じ場所にいないという、行雲流水どころか、流浪の毎日が続き、さすがに疲労したのだと思います。そこで、ウツラウツラしながら、とりとめもなく考えたこと。

 ちょうど私の「流浪」の最中、例の英国人女性殺害事件が急展開し、市橋某という人物が逮捕されました。文字通り劇的、つまりテレビ的展開となったのですが、その「テレビ的」である所以の大きな部分が、容疑者が整形手術を受けて逃げ延びていたことでしょう。そして彼の整形手術後の顔が公開されて、その変わりように視聴者が驚き、さらに手術を受けようとしたことがキッカケで捕まった顛末が、実に「テレビ的」だと思うのです。最近のメディアで、これほど整形手術が前面に出てきたケースはないでしょう。

 思うに、この事件は、我々が心の底にいまだ持っている、整形手術に関する、なんとなく後ろ暗いイメージ、なにがしかタブー的なイメージを、あらためて喚起したのではないでしょうか。最近は、整形手術もずいぶんカジュアル化して、たとえば韓国などは就職活動の一環として美容整形を受ける人も多いと聞きます。しかし、それでもなお、たとえば化粧や顔以外の他の部位の整形とは、意味あいが厳然として違うでしょう。どう違うか。

 まず、「顔」が我々に対して持つ意味です。「顔」は、我々のアイデンティティーを物質化している部分です。世間で言う「顔が見えない」という比喩は、「正体がわからない」という意味でしょう。その「正体」がアイデンティティーのことです。

 実は、このアイデンティティーが他者から課せられて始まっていることが、整形手術の「タブー」感を引き起こしているわけです。ひらたく言うと、自分が誰かを決めるのは他者なのに、整形手術は、この構造、つまり「人間」であり「自己」であることのを基礎構造を侵害する行為だからです。と言うより、「侵害」の度合いが、化粧などより段違いに高いと他者から受け取られる行為なのです。

 昔は整形手術に対する批判として、「親からもらった顔を変えるなんて」という言い方がありましたが、これは本質を突いた言い方です。つまり、この批判の核心は「親からもらった自己を変えるなんて」というところにあるのです。

 ところで、この「自己を変える」という言い方は、宗教においてもきわめて重要な意味を持ちます。「回心」「発心」などは、まさにその契機をあらわす概念でしょう。ではその「変え方」は整形と何が違うのでしょう。

 宗教においては、「自己が誰かを決めるのは他者である」構造を承認した上で、「自己が誰かを決めるのは他者と『神』『ダルマ』(などの理念)である」という具合に、拡張的に構造転換するのだろうと、私は思います。そして、ここに宗教者として生きる意味と困難があります。ときとして、宗教が社会と深刻な矛盾や摩擦を起こすのは、根底に「自己が誰であるか」を決める者同士の、おそらく解決不能の、原理的相克があるからです。当たり前と言えば当たり前ですが。

追記1:次回「仏教・私流」は、12月はお休み、来年1月25日(月)午後6時半から、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

追記2:拙著『老師と少年』が文庫化されました。茂木健一郎さんとみうらじゅんさん、それと土屋アンナさんの解説があります。人選は編集部。また、NHK出版から出た『ガンジーからの〈問い〉』という本がありますが、そこに著者の中島岳志さんとの対談が収録されています。ガンジーについてはまったく門外漢の私がなぜ対談相手に選ばれたのか、よくわかりませんが、かろうじて切り抜けました。中島さんはとてもさわやかで優秀な、少壮気鋭の学者さんでした。