恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

無力の力

2020年04月30日 | 日記
 曹洞宗の僧侶として、道元禅師と並んで世上有名なのは、良寛和尚でしょう。その独特の書をはじめ、数々の逸話でも知られていますが、和尚の言葉として人口に膾炙しているものとして、多くの人が一度くらいは聞いたことがあるのではないかと思うのは、次の文句です。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

 これは病床の友人に宛てた見舞い文だそうですが、 彼の禅僧としての面目躍如と思われるかもしれません。

 中国の洞山禅師も同じようなことを言っています。ある僧に問われました。

「寒さや暑さを避けるのは、どうしたらよいですか?」

「寒くないところ、暑くないところに行けばいいじゃないか」

「寒くなく暑くないところとは、どこですか?」

 禅師は言います。

「寒いときは、寒さが修行僧を殺し、熱いときは、熱さが修行僧を殺すのさ(寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す)」

 後代、この良寛和尚の言葉にも、洞山禅師の答えにも、かなり勇ましい解釈がなされることがしばしばです。いわく、災害や病気、あるいは自然現象など、我々にはどうしようもないことを、いたずらに避けようとして右往左往するべきではない。すべて正面から受け止めて、自分自身が災難、病気、寒さ暑さ、そのものに成り切ってしまえばよいのだ。自分と対象が一つになる。それこそ悟りの境地なのだ・・・云々。

 例によって私は、まるで「気合一発!」ですませるがごとき、この解釈を採用しません。というのは、道元禅師が主著『正法眼蔵』の中で坐禅をするときの心得を述べたところで、実に懇切丁寧な教示をしているからです。

「只管打坐(しかんたざ・ただすわること)」を標榜し、修行時代の苛烈な坐禅修行を弟子に語った道元禅師ですから、それこそ時も場所も選ばず、坐禅で打ち抜け!、くらいなことは言いそうなものですが、実際はこんな言葉を遺しています。

「坐禅するには、静かなところがよい。座布団は厚い方がよい。風や煙が入って来るようではいけない。雨露が漏れるようなところもダメだ。坐る場所は清潔に保つべきである。古来、釈尊は金剛座に坐したと伝えられ、盤石の上に坐ったとも言われる。それらはみな、上に厚く草を敷いて坐ったのだ。坐る場所は明るいようにしておくべきだ。昼も夜も、暗くてはいけない。冬暖かく、夏涼しくなるようにせよ」

 この言い方は、どう見ても「気合一発!」で坐禅しろ、という趣旨とは違うでしょう。場所がどうであろと、環境がどうであろうと、一切気にせず坐禅し続けろ!なとと発破をかけるような話ではありません。事に臨んで、適切な準備は必要だと言っているのです。

 良寛和尚は、深く道元禅師を敬慕した人です。『眼蔵』も熟読したはずです。その彼が、本当に「気合一発!」的考えで、あの見舞い文を書いたのでしょうか。

 思うに、予期しない苦難に襲われたとき、それに対して、自分ではどうしようもないことは、要するにどうしようもないでしょう。そして、その時できることを、できるだけする以外にありません。

 大切なのは、「その時できることをする」のに焦らないことです。それをする前に、まず「どうしようもない」と覚悟を決め、その「どうしようもない」無力さに、深く深く沈潜すべきなのです。

 その沈潜の中で、自分のこれまでの在り様と人間関係、変わり始めた人々の態度と行動を、熟視したらいいと思います。その間に、社会はこれまでとは違う次元へと不可逆的に進んでいくでしょう。それもまた、もはや避けられないことです。

 いずれこの沈潜から浮上したとき、新たな次元に進みだした社会にあって、そこに自分のなすべきことが次第に見えてくるはずです。「何もできない」事実の透徹した自覚が、ついには「次になすべきこと」の意味を照らし出すだろうと、私は思います。

 沈潜どころか、明日の生活をどうするかという、切羽詰まった状況にある方も多くおられるでしょう。このとき、いくら焦ろうと、すぐに名案は浮かばないかもしれません。

 でも、いま何もできないことで恥じたり、自分を責める必要はない。「できない」状況の中に身を沈めながら、「それでも」と思えることが浮かんで来たら、ここは勇気を出して人の縁を頼りつつ(人を頼るには、往々にして勇気が要る)、何か行動を起こしていければ、それが自分の「できる」ことです。

 良寛和尚の「災難に逢うがよく候」は、一度無力さに沈潜すべきことを言っているのだと、私は思います。その沈潜から「なすべきこと」が見えてきたなら、その時は、自分ができるだけのことを、できるだけの準備の上で、我が身を賭してやればよい。それが自らを「殺」す修行なのではないでしょうか。

 

 

いま見えてくるもの

2020年04月20日 | 日記
 それまでの「常識」や「前提」を構成するシステムは、その外部から「異物」が侵入して拡大した結果、いきなり機能不全に陥ることがあります。それは、このシステムをあらためて見直す別の視点を提供し、さらに「次の」システムを考える材料を与えてくれます。

 今回のウイルス禍で、誰の目にも明らかなのは、暴走に近くなっていたグローバリズムと市場経済の拡大を、いきなり強制停止させたことです。
 
 ウイルスが、人・物・金の大規模な移動であるグローバリズムに乗じて、驚くべきスピードで蔓延したのは確かでしょう。

 したがって、終息には移動の遮断が不可欠で、その手段の実行役が国家でした。つまり、いまやグローバリズムによって衰弱したと言われて久しい国家が復権し、人々がその力に頼らざるを得なくなったのです。

 では、中国のような中央集権的国家主義、あるいは「アメリカンファースト」と叫ぶ大統領が掲げる「自国第一主義」が有効な解決法なのでしょうか。

 私はそうは思いません。現にいま、国家主義も自国第一主義も、事態を収拾し切れていません。できるわけがないのです。なぜなら、自国内でウイルスを駆逐できても、その外に残存していては、いつまでもリスクにさらされ、なおかつ貿易市場がまともに機能しないからです。

 ウイルス禍を世界的に蔓延させたグローバル化に一定の秩序を与えるのは国家とその連帯であり、この国際協調と協力が無くして、ウイルスを抑止することも、最終的に我々がこのウイルスと共存する道もありません。

 このような危機や「緊急事態」には、強力な措置をとれる、効率の良い独裁的な権力が有効のように思いやすいですが、それは錯覚です。そもそも先の大戦という「危機」で、勝ったのは民主体制の国家群であり、敗れたのはファシズム体制の国々でした。

 もちろん、危機に際して一時的に強権的な措置は必要であり、そのための権力を統治者に付与することは合理的です。

 しかし、その場合は、解決すべき危機を客観的に確定して、権力の執行過程を監視する制度を構築し、彼らが持っている情報を最終的に全部開示させて、検証・評価できるシステムを用意しなければなりません。つまり、権力を行使する側とされる側が、相互に責任を持ち合う体制が必要なのです。

 このとき忘れてはならないのは、本来権力の主体である行使される側が行使する側に暫時権力を預けているのが民主主義だという、言うまでもない事実です。

 ウイルスは市場経済の欠陥も明確にしました。

 自然を収奪する市場経済の欲望こそが、ウイルスを自然から我々の社会に導き入れたのであり、これは気候危機と同様、自らの欲望が招いた厄災です。

 世界に冠たる経済大国が、それこそマスクさえ満足に供給できません。それは、格差(要は、安く買って高く売る)を利用して稼ぎまくった市場経済が、世界的に分業を推進した結果でしょう。

 医療・福祉、教育・福祉、治安・国防などが、市場化に馴染まないこともはっきりしました。いま医療従事者が不眠不休で従事する仕事を、市場が正当に評価することは決してできません。この人たちは、いまや責任感と使命感だけで過大な負担を担っているのでしょう。責任感や使命感を、金に換算できるわけがありません。

 市場の欲望が結果的にその欲望を無意味にすることもわかりました。

 たとえば、儲からないから基礎科学に投資するのは止めようということになると、それはウイルスに対するワクチンを製造する応用科学を阻害するかもしれません。そうなると、自国でのワクチン製造は困難になり、高額の特許料を払って他国からワクチンを導入しなければなりません。

 状況からすると、このウイルス禍は、我々の社会と世界の在り様が根底から変わる始まりになるだろうと思います。

 これまで、過熱した市場経済は、正規/非正規という雇用の分断、大手/中小という企業経営の乖離、富裕/貧困という階層の断絶などを引き起こし、拡大してきました。

 このままウイルス禍の長期化がすれば、この市場経済・社会システムは甚大なダメージを被るでしょう。それは多くの人々、とりわけ立場の弱い側の人々の生活に著しい脅威を与え、個々の人生の設計に深刻な影響を与えるはずです。

 それでも、この誰も望まぬ苦難の中から、結果的に次の時代の社会システムの萌芽が見えてくると思います。

 すぐ目に付く兆候は、教育と労働のIT化(オンライン授業、テレワーク)です。これらは今後さらに進行して、学校と企業の体制と、経営と雇用の形態を不可逆的に変えていくでしょう。

 今後発展途上国、アフリカや南米などの諸国で感染が爆発したときに、先進国はどうするでしょう。救援するのか、見捨てるのか。それも自国がまだ苦戦の最中に、どうするのか。この問題はいずれ、国際と国内の両面で、政治システムの更新を迫るのではないでしょうか。

 文化・芸術、そして娯楽の窒息状態は、自らの存在意義と表現様式を、根本的に問い直す機会を与えるでしょう。そこから必ずや「コロナ後」の新たなスタイルを生み出すはずです。

 このような変化は様々なところで同時多発的に進行して、我々の社会を地球規模で変えていくのではないでしょうか。

 私は今、「コロナ後」を考えるとき、以前拙著で述べた「他者から課される自己」というアイデアを思い出しています。

 ウイルスには常に他者から感染します(「感染」とはそういうことです)。ということは、自己の安全と安心には、他者の安全と安心が先立つことになります。

 もし感染した他者やその周辺の人々を差別し抑圧し排除すれば、それはすべて自己に反転する危険を高めます。逆に、その他者への共感と援助は、感染するかもしれない自己の存在を強化します。

 ならば、「利他行」という仏教語、「情けはひとのの為ならず」とう諺が意味するものが、コロナ後の社会システムを構成する基幹的なルールの一つとして、「社会福祉」というジャンルを超え、様々な領域で具体的な制度として組み込まれるべきではないでしょうか。それが、我々の社会と自分を確実に守ることになるはずだと、私は考えています。








番外:コロナ番外、これが最後。

2020年04月13日 | 日記
 歌手がギターをつま弾く横で、犬を撫でながらコーヒーを啜る男を、見ながら思った。
 
 彼はかつて「政治は結果だ」と言った男だ(もう忘れたか?)。

 事はもう天災ではない。既に人災化しつつある。

 必要な決定は遅すぎ、出て来る政策は拙い。

 責任の所在は不明で、情報の透明性を欠く。

 ウイルスは平等に襲うのに、格差は我々に広がっていく。

 人々の不安は増殖し、社会のスタミナは落ち続ける。

 私はいま『方丈記』を想う。

「無為」の稽古

2020年04月10日 | 日記
 いま世の中を一瞥して改めて思うのは、我々と我々の社会が、かくも広く深く労働に支配されているという、当たり前と言えばあまりに当たり前になってしまった事実です。

 この疫病の猛威の中、病に倒れるのでもない限りは、本当に多くの人々が、大なり小なり命を危険に曝しつつ、それでも仕事(仕事に就くための勉強)から安心して離れ、休むこともできないのです。

 テレワークというのは、いわば「プライベート」に堂々と仕事が侵入し、拘束していくことでしょう。

 考えてみれば、近代以後の社会では、「プライベート」と言われる時間そのものも、その正体は「労働力」を補充し再生産するために使われているわけで、そもそも労働過程に組み込まれています。

 労働のために拘束される時間(通勤・休憩など含む)まで含めれば、おそらく1日10時間程度を、1年を通じて費やさなければ社会など、近代以前にはありません。ある意味、異常な社会です。

 農耕や狩猟を生業の中心とする社会では、善し悪しはともかく、それほどの時間をぶっ通しで働く必要も可能性もありませんでした。農耕の場合、冬になれば作物は育たない以上休まざるを得ず、狩猟は我々のようなコンスタントで一定の労働を必要とする訳がありません。つまり、「無為」の時間が社会に当然の習慣として組み込まれていたのです。

 この「無為」の時間を「労働」の時間に染め変えていくことによって、「文明」は発展し、近く100億の人口を見込む現代社会を構築しました。

 それは地球上の生態系を変え、気候の変動を惹き起こし、いまや「文明」と「自然」は折り合いがつかなくなりつつあります。

 今回の疫病蔓延も、あるいは、以前ならジャングルの奥深くに潜んで、穏やかに動物と共存していた「自然」なウイルスが、進出してきた「文明」の欲望によって安住の棲家を奪われた結果かもしれません。

 そしてこの期に及んでもなお、「労働」に侵された我々は、この文明史的「危機」を「人類の英知と努力」、つまりさらなる「労働」で解決しようとしているように見えます。

 私が今考えるのは、別の方法がないかということです。我々には「無為」の時間を取り戻すという方法もあるのではないか、そう思います(人が不幸になるのは、往々にして、必要なことをしないからではなく、余計なことをするからです)。

 たとえば、この疫病禍にあっては、「おうち」でとことん無為にすごすことができるように、為政者も我々も考え方と生活を変えたらどうでしょう(現政権は思い切った現金給付と医療関係機関への資源投入で、人々をとりあえず休ませろ!)。

 特に何もしない、しなくてもよい、経済的な利益も効率も無意味な時間を確保し、その時間を生きる方法を我々は見出すべきあり、為政者はそのための条件を整えるべきではないか。

 それは、「労働」こそが生きる意味と個人のアイデンティティーを規定する社会の在り方を、再検討する視座を我々に与えるでしょう。

「労働」によって駆動してきた「文明」は、現代に至って、機械が人の「労働」を大きく代替する時代を迎えつつあります。

 ならば、「無為」であることの練習は、今や我々のリアルな課題となりつつあるのではないでしょうか。

番外:アンタは本気か?

2020年04月08日 | 日記
 7日の記者会見で、首相は国民に他人との接触を7~8割減らすことを「要請」した。この首相と政権の愚昧さは、あの一言でわかる。

 それだけの接触減らしは、街頭にほとんど人がいない、イタリアのロックダウンに匹敵する措置でしかできない。それは要するに、仕事をするなということである。そんなこととが、個人の意志(「自粛」)でできるわけがない。

 生活必需品供給と社会運営に不可欠な機能・設備に関するものを除く、全業種・全企業に操業・営業を停止させ、公共交通機関を大幅に減便することが不可欠である。それは「要請」することではなくて、「命令」することである。

 それを行うためには、停止から生じる損失を全面的に国家が補償しなければならない。そうでなければ、誰もこんな苦境を承服できるはずがない。

「7~8割」が冗談ではなく本気なら、直ちに法律を改正するか新たに立法して、強制力を持ったロックダウンに踏み切るのが政治家の責任である(今となっては全国規模で必要だろう)。それは、当然、首相職を賭けた政治的決断であるべきなのだ。

 現首相の愚かな記者会見は、人の命と経済の損得を天秤にかけて、まともな決断もできずに「玉虫色」の内容を羅列しただけである。

 相当数の人の命を犠牲にして、そこそこの経済的損失にとどめるか、あるいは甚大な経済的損失を覚悟して、できるかぎり人命を守るか。そのどちらかである。どちらにしても、政治的責任は免れず、辞任の覚悟は当然だ。

 その覚悟がまるでないから、あんな生ぬるい言葉しか出てこないのだ。昨日の記者会見をどれだけの人間が見ていたと思うのだ。前代未聞の厳しい局面に向けて、人びとの決意を促し、勇気を鼓舞する言葉を発することができないのは、最後に自分が悪評に塗れて辞任する覚悟を持たないからだろう。

 危機において覚悟の無い指導者を持つのは、我々の最大の不幸の一つである。

 私の言うことのほうが極端で愚かなのであろうか。
 
 しかし、自分の身の上で考えれば、他人との接触を8割断てば、同居家族しか残らない。それは、いま喧伝されている「おうちにいよう」ということだろう。

 私が言いたいのは、「おうちにいよう」とお願いするのではなく、「おうちから出るな」と命令しないかぎり、8割は無理だということだ。

「おうちから出るな」と政治家が本気で言うなら、「首を賭けろ」と私は思う。

 

番外:面会について申し上げます。

2020年04月05日 | 面会について
 私の個人的活動について、お知らせいたします。

 このブログの右下部「カテゴリー」にある「面会について」の要領に従い、3月までご希望の方との面談を行っておりましたが、感染症拡大の状況に鑑み、恐縮ながら、当分の間、面会を休止させていただきます。

 なお、すでに霊泉寺に面会希望のお手紙をお送りいただいた方もおられるでしょうが、私も先月より移動を自粛せざるを得ず、住職地で活動できない状態です。

 せっかくお手紙をいただきながら、拝見することが出来ず、電話でお返事することもままならず、誠に申し訳ございませんが、何卒ご海容を賜りたく存じます。

 面会を再開できる日を願いつつ、皆様の無事とご健康をお祈り申し上げます。

 なお、再開の場合は、当ブログで告知申し上げます。

番外:院代より申し上げます。今年の恐山開山について。

2020年04月03日 | 恐山の参拝
 今年の恐山開山についてお知らせ致します。

 新型コロナウイルスの感染深刻化により、恐山は今年の宿坊業務を行わないことに致しました。すでに予約済みの方々には、個別に電話連絡を申し上げます。せっかくご予約いただいたにもかかわらず、かような仕儀となり、申し訳ございません。

 それにともない、過日予告・募集いたしました「坐禅と講話の会」も、今年は取り止めと致します。

 誠に残念ではございますが、ウイルス禍の一日も早い終息と、皆様のご健康、並びに罹患された方々のご本復を心より祈念申し上げ、明年の宿坊再開の日を期して、皆様のご利用をお待ちしたく存じます。

 また、この度お亡くなりになった方々のご冥福を祈念し、ご遺族の皆様におかれましては、誠にご愁傷のこととお見舞い申し上げます。
 
 なお、恐山への入山参拝は例年どおり、塔婆供養も通常通り行います。