恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

はばかりながら

2010年07月31日 | インポート

 かつて何度か発言したように、私はいわゆる「霊魂」の「実在」については、肯定も否定もしないという、釈尊直伝の「無記」の立場をとっています。

 したがって、ある人物が「霊言」(イタコさんの「口寄せ」もその一種です)といわれる特殊な行為を通じて、すでに死んでいる人間の発言を仲介したとしても、その「真偽」それ自体は判断できないと思いますし、しません。

 以前、歴史的大宗教者にかんして噴飯ものの「霊言」を読んだことがありますが、いかに噴飯ものであろうと、「真偽」については判断不能です。実際に「霊言」を発した本人が「だってその時はホントにそう言ったんだもん!」と言うなら、これを真に受ける必要はないにしろ、嘘だと断定する根拠もありません。検証の手段がないからです。したがって、「霊魂」の「実在」同様、「霊言」の「真偽」についても、「無記」を通すしかないわけです。

 ですが、たとえそうであっても、つまり、「真偽」はともかくとしても、「霊言」による政治的問題・経済的問題・社会的問題についての発言は避けるべきだと、私は考えます。そう考える理由はただひとつ、発言の責任を誰にも帰することができないからです。これは、民主制あるいは共和制による政治体制を基本とする社会においては、致命的な欠陥でしょう。

 たとえば、すでに死んでいる「坂本竜馬」が、ある人物を介して「霊言」として、現代の政治・経済・社会問題に関して意見を述べた場合、その発言責任を、まさか死んでしまって今いない人間にとらせるわけにはいきません。では「霊言」を実際に発した人物の責任とするか? できないに決まっています。それはあくまで「坂本竜馬」の発言のはずで、「霊言」者はただの伝言人に過ぎないからです。この種の「無責任発言」は、メンバーの議論によって共同体の意志を決定するシステムの場合、どうみてもまずいでしょう。

 共同体内部の諸問題について、まったく無責任に発言できるのは「神」か、「神的存在」とみなされた人間だけであり、その意志によって共同体を統治運営するなら、それは祭政一致体制を意味します。私はこの体制を支持しません。

 はばかりながら、私は、多くの欠陥があるにしろ、相対的に、代議制(議会制)民主主義に基づく政治制度がよいだろうと考えています。それは統治者と被統治者が互いに相対化しあい、ということは、互いを「他者」としながら、自らの存立の根拠にしているからです。つまりこれは、「絶対の中心」「絶対的権力」が比較的成立しにくい政治システムだということです(当時最も民主的とされたワイマール体制からナチスが生まれたという教訓を肝に銘じた上で)。ということは、「諸行無常」の政治システムとしては、少なくとも今のところ、一番ふさわしいと思えるわけです。

「絶対に正しい統治」を理想としては認めつつ、それに一歩でも近づくべく、「よりましな統治」を現実の目標として、欠陥だらけのシステムを辛抱強く、手間をかけながらメンバーの努力で改良していく。この過程こそが民主主義の本領であり、もしそうなら、それは「修行」という行為と共通する構えを持つ営みと言えるでしょう。

 ちなみに、釈尊存命時代の初期教団は共和制的体制で運営されていたようです。どうしてそうだったのか、歴史的事情は定かではありませんが、私はさもありなんと考える次第です。

追記:過日の紀伊国屋ホールでの講演に大勢の方にご来場賜り、まことにありがとうございました。深く感謝申し上げます。


市井の名(?)言

2010年07月19日 | インポート

▼ 電車の中にて  男子学生風

「あの世がなければ、オレもいないから関係ないし、あの世があってオレもいれば、結局今と変わらないし、そういう心配いらなくね?」

 すごいぞ! 学生!!

▼ 某寺の法要にて、男性高齢者

「よく遺言で葬式の仕方をあれこれ指図したり、自分らしいお葬式とか言って、妙にこだわる人がいますけど、何なんですかね、アレ。死んじまえば、後は他人に任せるしかないんだから、余計なことを言わずにさっさと死んで、遺った家族の好きなようにさせればいいじゃないですか」

 えらいぞ! おじいさん!!

▼ 病院の待合室にて、女子高生

「やらないで後悔するより、やって後悔するほうがいいって言うでしょ。でもサ、やらないで後悔するのは自分だけですむけど、やって後悔したら他人を巻き込むじゃん」

 深いぞ! おねえちゃん!!

▼ レストランにて 幼稚園男子

(急いでいるお母さんに「今日はコレにしようね」と言われて)「あのねえ、ぼく、生まれたいと思わないうちに生まれて、幼稚園に行きたくないのに行くことになって、ぼくのことなのに、どうしてみんなが先に決めちゃうの?!」

 ほんとだ! 少年!!

▼ 恐山の受付にて 中年女性

「あれぇ、アンタあ、テレビに出てた人だべ。ダメだあ、あんな不景気な顔でしゃべってちゃあ。人間まるごと不景気になるべえ」

 すみません! おばちゃん!!


伝統と創造

2010年07月10日 | インポート

 ある社会において、独特の思考様式と行動パターンを持つ集団が形成されると、当然、その集団と社会の間に差異ばかりか、矛盾や摩擦さえ生じます。ある集団において「稽古」や「修行」とされるものが、社会の「常識」においては「いじめ」や、場合によっては「狂気の沙汰」のごとく受け取られるようなものです。

 ただし、その差異や矛盾、摩擦が「面白い」とか「意味がある」と認められれば、集団は存続し、単に存続するばかりではなく、発展していく場合があるでしょう。周囲に経済的利害も発生してくるはずです。

 かくして存続し発展し、利益も生むとなると、集団はその思考様式と行動パターンを維持し堅守することになります。さらに時代が変わり社会状況が変わって、矛盾や摩擦がもっと大きくなっても、なお認められ続けるとなれば、まさにその様式やパターンは「伝統」と認知されるでしょう。

 このとき大事なのは、矛盾や摩擦があっても社会が「伝統」を認めるとするなら、それは集団が「認めさせる」力とリアリティを持つからだ、ということです。つまり、その社会において、矛盾や摩擦を凌駕する、圧倒的な存在感と説得力を発揮できるからです。

「伝統」は単に「伝統」であるがゆえに、認められるわけではありません。遺跡のように、そこにあるから有難られるわけではありません。自らのリアリティを問い続ける意志と努力、言い換えれば、「伝統」を再解釈し再創造して、社会に提示する行為自体が、「伝統」なのです。だいたい、遺跡にしてからが、「現代社会」おいて学問的に解釈されてはじめて、価値を生じるわけでしょう。

 したがって、「外部の有識者」をただ集団に入れてみても、あるいは「閉鎖された」集団をただ開いても、「伝統」は活性化したり復活したりしません。「外部の有識者」を消化する覚悟と力、開いたところから流れ込むものを吸収する意志と度量が、残っているのかいないのか、出てくるのかこないのかが、問題なのです。

「賭博問題」に揺れ、「葬式はいらない」と言われてビックリしている、昨今の大相撲と「伝統」仏教教団の有様を見ていると、このことがわかっている「指導者」が、あまりにも、あまりにも少ないと思えてなりません。