恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

坐禅・私流

2012年10月10日 | インポート

 最近よく「あなたはどんなふうに坐禅しているんですか?」と訊かれます。坐禅や瞑想が、宗教的行法や一時的なスピリチュアルブームをこえ、もっとカジュアルな心身健康法のようなものに捉えられるようになってきたのかもしれません。

 そのことの是非はともかくとして、以前に本に書いたことではありますが、ここでもう一度、私が現在採用している坐禅法を紹介してみます。

 坐禅する場合の具体的な足の組み方・手の組み方・姿勢づくり、こういったことは、まず第一に、道元禅師の『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵』「坐禅儀」に従うのがベストです(ただ、組んだ手を左足の上に置くとありますが、必ずしもそれにこだわらず、下腹に手を引きつけ加減にしながら、ごく自然に肘が伸びて静止する位置にしておけばよいと思う)。これには解説本もたくさんでていますから、本ブログでは割愛します。

 私が強調しておきたいのは、それらの書物の中で道元禅師が言及する「正身端坐」ということの意味です。

 私はこの語を、身体状態に関しては、以下のように理解しています。

 ①上半身を真っ直ぐにする。左右に傾かない、前かがみにならない。後ろに反らない。

 ②徹底的に力を抜く。筋肉の緊張を解く。できるかぎり楽に坐る。

 ③呼吸をとにかく深く、可能な限り微弱な状態に安定させる(腹式呼吸)。

 このとき、最終目的は③であって、そのために①と②が必要なのです。

 ①について重要なのは、「真っ直ぐ坐る」と言われたからといって、胸を張り腰を入れて、弓なりに反りかえるような姿勢になってはダメだ、ということです。坐禅の経験や学習が足りない者が指導すると、すぐに胸を張れ、腰を入れろ、頭で天井を突くような気持ちで坐れなどと言いますが、これは坐禅の仕方として、拙劣極まりないものです。

 私が大切だと思うポイントは、まず、両耳が両肩の真上にくるようにして、顎を軽く引く。次に肩をやや内に入れ加減にする。そして、腰を入れるのではなく、伸ばすような具合にする。

 これらのポイントは、とにかく筋肉に余計な力を残さないためです。究極の理想を言えば、筋肉の支えを借りずに、骨格のバランスだけで「正身端坐」の姿勢を作ることでしょう。

 頭の位置がさだまり、顎が引かれると、喉や首周りの緊張が抜け、胸を張らず肩を入れると、胸の筋肉全体が緩みます。

 また、力を加えて腰を入れたりすると、全身にその力が波及して、無駄な疲労が蓄積されます。かといって、腰が抜けた状態になると、前かがみになります。前かがみになるとよくないのは、気道が圧迫されるのと、頭が前に落ちて首から背中にかけての筋肉が緊張し、身体的に疲れやすくなること。それとどういうわけか、余計な想念が出てきやすくなることです。

 これを避けるには、腰を軽く伸ばすように最小限の力をかけることを心がけるとよいと思います(若干の猫背は許容範囲です)。

 そして、肩・肘・手首・膝・足首から、関節を緩めるような気持ちで、意識的に力を抜き取ります。

 今申し上げたすべては、深く静かな呼吸状態を作り出し、維持するための技法です。とにかく気道を圧迫し、呼吸に負担がかかるようなことは絶対に避けねばなりません。

 次に「正身端坐」の精神状態(「非思量」)については、次のように導いていきます。

 まず第一段階では、上記の身体状態を作り出し、これを安定させることに意識を集中します。特に余分な力がどこかに残っていないか点検し、姿勢のブレを正すことが必要です。ただし、呼吸は、これを意識的に静めようとすると、かえって荒れることが多く、むしろ身体状態の安定に集中していけば、それにつれて自然に呼吸も落ち着いてくることがわかるでしょう。

 身体状態の安定がある程度得られたら、第二段階として、意識の方向を変え、まず最初に聴覚に向けます。

 どうするかと言うと、あらゆる音を無差別に、吸い取るように「拾う」のです。何の音かは一切判断しない。言わば、「聞く」のではなく「聞こえている」だけの状態に持ち込むわけです。そうすると、最初のうちは、自分のまわりにはこんなにも音が満ちているのかと驚くでしょう。

 これが深くなると、普段なら絶対に聞こえない程度の音が聞こえます。たとえば、線香の灰が落ちる音など(玄侑宗久師も言っていました。禅僧には多い経験だと思います。)。このレベルの「聞こえている」を換言すれば、「聞くことを聞いている」ような状態と言えるでしょう。

 この状態は、感覚の作用として受動態です。聴覚は視覚などと比較して極めて受動的ですが、この性質を全開にするわけです。

 したがって、こうなった時には、眼は見開いていて、すべてが見えてはいますが、もう何も見ていません。特定の「見る対象」はありません。

 これがある程度できたら、第三段階として、聴覚で起きている受動的な感覚状態を、身体全部に拡大します。聴覚から意識を身体に振り替え、さらに身体内部にまで引き込んで、結果として、身体全体を内側から感じる、あるいは感じられるようにするのです。

 皮膚の表面(というよりも身体内外の境界)にも何かが感じられるでしょうし、内臓も動いています。そうした感覚を、これまた、それが何であるかを判断することなく、ただ徹底的に感受するわけです。つまり、私の行う坐禅は、「精神集中」ではなく「感覚開放」なのです。

 この行為は「観察」ではありません。「観察」は「観察結果」を言語化できる行為で、そこには自意識が働いています。私が言っているのは、この類の「観察」やビッパサーナ瞑想が言う「ラべリング」のような、能動的な意識作用ではなく、「ただ感受する」とでも言う、ギリギリ受動的な意識状態です。

 この状態がある程度持続すると、身体がまるごと感覚の束、あるいは塊のように感じられてきます。あらゆる感覚が入り混じりながら点滅しているような印象です。問題は次で、この「感覚の束」を呼吸に預けるというか、乗せる、同調させるのです。

 そうは言っても、これは意志的にすることは困難で、実際には乗る・同調するのを待つのです。もし乗ると、この感覚の束には、呼吸のつくるリズムが発生します。すると、感覚の束は、一定のリズムを持つ「波動」になります。

 この「波動」状態が生まれると、私の場合かなりの確率で、突然「ガクッ」というか「ドン」という感じで、ある衝撃とともに、いきなり体の重心が底抜けするように落ちます。と同時に、仕切りが切れるがごとく、感覚が膨張して「外」に溢れだし、身体内外の区別が消失してしまいます(これは無我夢中的恍惚状態ではありません。きわめて明瞭な、冴えきった感覚体験です)。

 ここでは最早「私である」ことの意味は解体され、自意識は融解してしまいます。この状態は人によっては強烈な快感になるので、これに執着して中毒になる危険もあります(いわゆる「禅病」「魔境」)。

 この「融解」状態は、必ずしも「波動」状態の最後に発生するとは限らず、もっと手前の段階で起きることもあります。この方法で繰り返して実践していると、早く現れやすくなりますが、そのことに意味はありません。

 あと、「感覚の束」が呼吸になかなか乗らないとき、人為的に乗せる方法があります(成功する確率は低い。「人為」の能動性が、それまで維持されていた受動状態を破るから)。それは、すでに腹式呼吸をしている下腹を意識的にゆっくり膨らませて息を吸い、次に下腹を徐々に絞るようにして息を吐く、これを数回繰り返すことです。この呼吸を最初は大きめに、次第に小さくしていく。すると、乗らなかった「束」が乗ってくることがあります。

 私がここにご紹介した方法を使って坐禅をする目的は、一つだけです。以前にも書きましたが、人間の自意識は、特定の身体技法で解体することができると、体験的に実証することです。それはすなわち、我々の自意識は、一定条件における行為様式から構成され仮設されている、暫定的な事態だと認識することなのです。

 くどいことを承知で繰り返しますが、「波動」状態や「融解」現象は、「悟り」でも「見性」でもありません。ましてや「本来の自己」ではさらさらありません。そう語ることは語り手の自由ですが、私はナンセンスだと思います。

 ちなみに、「波動」「融解」のような意識の変性状態では、時として特異な感覚が体験できる場合がありますが(意識が体を抜けるような感じ、あるいは下腹に熱源が生まれて何かが上昇してくる感じ)、これも「悟り」と同じで、どう意味づけ、どう語り出すのかは人の勝手ですが、それ自体に意味はありません。ただ、そうなるというだけのことです。

 以上、とりあえずご参考まで。


最新の画像もっと見る

47 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
南直哉老師の体験をおうかがいし、とても (Unknown)
2012-10-10 02:38:15
南直哉老師の体験をおうかがいし、とても
安心しました。
いわゆる坐禅による幻覚、幻聴を一切否定する曹洞宗の僧が多いものですから。(つまり、幻覚幻聴に苦しむほどの坐禅をしていない未熟者ということ。)
私なんかは、南直哉老師の足元にも及びませんが、
「片手で叩く音を聞いて来い!!」と僧堂の師家に指導され、徹底的に自分の今までの生き方を見つめる様にしながら坐禅に浸ったら(坐禅をするのではなく坐禅という毛布に包まれる様な気持ちで)、
「ぱん!!」という激しい音が聞こえ、とても爽快になりました。
だから、坐禅による魔境や、いわゆる覚りというのは、あるのだと思います。
たんなる、幻覚や幻聴も、それは生理として、実際に存在しているということでしょう。
ただ、それを過程や目標とするのは間違いで、科学的に、そういう事があるというのだと思います。
つまり、息を止めれば苦しいし、限界まで息を止めた後に息をすれば気持ちいいという生理。
いわゆるオカルトも科学の一部で、すべてに原因があり、結果が有るという事でしょうか。
じゃあ、世襲妻帯坊主の子が資格を取る為に僧堂に来て坐禅するという愚かな事も有るでしょうが、在家や在家出身者の僧が何の為に坐禅するのかという事になりますが、やはり苦しみから解放されたい、本格的に僧侶になりたい、出家したい、自分の生きる方はこの道ではない、また人としてどう生きるぬくべきなのかを考えたい、もう一度新しい人生、本当の自分を生きていきたい、過去の人生を反省し、人生をやり直したい等という目的でしょう。
返信する
もっと言えば、臨済宗の坐禅は徹底的に体験主義で... (Unknown)
2012-10-10 02:44:26
もっと言えば、臨済宗の坐禅は徹底的に体験主義であり、曹洞宗の坐禅は、いわゆる信仰なのだと思います。
ようするに、坐禅で体験する感覚を否定するという信仰なのです。
返信する
もっと、もっと言えば、臨済宗では一日に何度も面... (Unknown)
2012-10-10 02:58:04
もっと、もっと言えば、臨済宗では一日に何度も面接し、指導者は、体験を一切否定せず「それは、浅い、もっと深く、狂うほど深く体験してみろ。」と開放します。
発心寺僧堂の様な臨済禅を取り入れている特殊な道場は別として、主な曹洞宗の僧堂は、食う、寝る、坐る等の作法を猛烈に大事にして、体験という事をあえて無視しているのではと思いました。
返信する
座禅気候もこれから良くなることだし、友人と座禅... (SYUKO)
2012-10-10 17:53:31
座禅気候もこれから良くなることだし、友人と座禅会に参加しようと計画をたてています。藤田一照氏が『座禅をしても当たり前が当たり前になるだけ』と、なんかこちらのほうが私には、納得いくような気がします。
返信する
>>投稿 SYUKO | 2012/10/10 17:53 さん (Unknown)
2012-10-10 17:55:50
>>投稿 SYUKO | 2012/10/10 17:53 さん

京都や東京の禅センターがお薦めです。
返信する
いつもブログを楽しみに見ております。 (船橋一宏)
2012-10-10 19:14:05
いつもブログを楽しみに見ております。
今回、長い間、さらに細かく伺えればと思っておりました「意識の方向を変え、まず最初に聴覚に向けます。」について、自分でできるかどうかは別として拝読できてことのほかうれしく感じております。
ところで、今回のご説明の中にありました「肩をやや内に入れ」というのが、私には少し難解です。想像してみるに、①「両耳が両肩の真上にくるようにし」つつ、少しだけ肩をヘソ側に向ける、または②肩を完全な水平に保つのではなく、両端をなるべく下げるようにする、などが思い浮かぶのですが、いかががなものでしょうか。
お忙しいところつまらぬ質問で恐縮です。出来れば、お時間のある時にでもお教えいただければ、幸いです。
返信する
 現代は情報や刺激に満ち、人が持っている本来の... (ride)
2012-10-10 20:53:22
 現代は情報や刺激に満ち、人が持っている本来の力を削いでいるのでしょう。私も時折座禅を組み、リセットするようにしてから、少しずつ世界から色々な物事を受け取ることが出来るようになってきたようです。自分をちょっと、横において世界を受け止めることが出来るようになったのでしょうか。
 自分の意識だけで出来ることは限定されており、小さな小さなものだ、と思います。限られた今を広がりをもって生きていけるようでありたい、と思います。
返信する
20年程度ヨガの瞑想をしているが、肺活量の増大、... (あじさい)
2012-10-10 21:36:29
20年程度ヨガの瞑想をしているが、肺活量の増大、心臓の肥大化、心拍数の低下が著しい。肺活量は2.8Lから4.0Lになった。心拍数は38である。
リラックスして、ある程度眠い状態で我慢して覚醒していると入眠時の幻覚が現れる。これは当初激しかったが、そのうち減少した。幻覚は、はじめは鮮明なイメージ、像、幻聴があったが、そのうちぼんやりとしたエネルギーとして感じる程度になった。最近は、刺激は少なくなったが、やはり何か外部の存在を感じる。
座禅、瞑想はある意味では拷問のようなつらい体験である。独房が拷問に近いのも、自分を見つめることがエゴを脅かして何とか中断させようと邪魔をするのかもしれない。我々は多かれ少なかれ偽りの現実を生きているのであるが、その化けの皮がはがれることに激しく抵抗するのである。
禅はかなり優れたシステムであるが、理想的とは言い難いところもあるので過度な期待はしないほうがよさそう。
大事なことは、個人が道を歩み続ける持続力であろう。
返信する
>>「波動」状態や「融解」現象は、「悟り」... (yamabato)
2012-10-10 21:59:19
>>「波動」状態や「融解」現象は、「悟り」でも「見性」でもありません。ましてや「本来の自己」ではさらさらありません。

その通りです。そこが最終地点でも行き止まりでもありません。「もっと先がありますよ」とスマ師との対談本にありましたように、専門的に行うなら「悟り」「見性」「脱落」はまだまだ先ですが、一般の人は別にそれを目指す必要はありません。その程度で「悟り」「覚醒」と思い込んで体験を語りたがるのも、あるいは逆に「悟りと言っているのはこんな程度のものか」と考えるのも同じ間違いです。
返信する
坐禅の超越体験?というのはいわゆる物象化(投企... (苦しい人)
2012-10-11 01:14:39
坐禅の超越体験?というのはいわゆる物象化(投企)の力が止んだ状態だと思いますが、坐り終えたらまた物象化が始まって日常世界に戻りますよね。そうじゃないと精神病院行きですし。

道元禅師は坐禅の意義を「万事休息」と定められているそうですが、その休息後に俗世の見方が変わるのでしょうか? 私には変わるとは思えないのですが。俗世とは相対的なものであるというのは体験的には分かるんでしょうけども、それは理屈で考えても分かります。
そうすると坐禅の持つ意味とは何なのでしょう。

投稿 | 2012/10/10 02:38がおっしゃるように苦しいからお釈迦様は出家したわけで、多分仏教に興味を持つ人も苦しい。だから坐禅する。なぜなら苦しみから脱したいから。自己の苦しい有り様が関係性によるならば、関係性を変えない限りは苦しさは変わらない。

関係性を変えるためには例えば仕事を変えるとか引っ越すとか。坐禅をいくらしたって関係性は変わらない。ということは坐禅をするというのは、一回それらの関係性をほどいてみて、それらの構造を観察してみて、苦しみの条件が変えられるのか、変えられないのかどうか見極めるということなんでしょうか?

変えられないならその苦しみは飲むしかないし、変えられるんだったらすぐに変えよう!ってこと?
返信する