私が時々「『絶対正しい真理』なんぞは妄想にすぎない。所詮ものは考えようだし、合意の作り方だ」みたいなことを言うと、
「だったら、狂信的な思想から暴力的行為に出る者も、『考えよう』で許されるというのか」
と、思いつめた表情で迫ってくる人が現れます。
結論を言うと、「考え」ているだけのことなら、いくら「狂信的」であろうと一向にかまわないと、私は考えます(私は「狂信的」な思想を持つ真面目な中堅サラリーマンを知っています。思想的議論さえしなければ、ただの勤め人)。
問題は「狂信的考え」の後に出てくる「行為」です。私は、「狂信的考え」の持ち主が、反「狂信的考え」の存在やその考えの持ち主を一切認めずに否定するというなら(もっともそれが「狂信的」と言う所以なのでしょうが)、そのような「行為(発言と行動)」には、徹頭徹尾反対です。
もし、その「行為」が自らの考えと違う者に対する暴力や、威嚇的・脅迫的発言となるなら、法的規制の対象とすべきだと思います。
「無常」「無我」のアイデアを前提にするなら、このアイデアの実践の一つは、反「無常」「無我」という思想的立場を、あって当然と認識することです(「無常」「無我」も無常で無我)。
である以上、「無常」「無我」のアイデアに反対する考えや意見を否定しませんが、その考えから出る行為は別です。アイデアに対する「批判」はよいとして、アイデアの持ち主の存在を「否定」する行為は、許されるべきではありません。
仮に「絶対正しい真理」が原理的に反「絶対正しい真理」の存在を許さないというなら、そんな「真理」は有害無益である以上に、「真理」として不完全なのであり、その時点で「真理」ではありません(「絶対正しい」はずなのに「普遍的」ではないのだから)。
このような立場をとる私が、「人種」差別や「民族」差別のような出自に関する差別行為(発言と行動)を頭から馬鹿げていると考えるのは、これまた仕方のないところです。
「真理」の有無を争うどころか、たまたまそのように生まれたに過ぎない者が、たまたまそのように生まれたに過ぎない者を、たまたまそのように生まれたに過ぎないことを根拠に(つまり、無常が無常を無常であることを理由に)、否定し・攻撃し・排除するというのですから、これはもう妄想以外の何物でもありません(「いや、そのように生まれたことに根拠はある」という主張も仄聞しますが、その主張の言う「根拠」の「正しさ」は原理的に証明できません。つまり、妄想と区別できませんから、言葉の定義上「根拠」としては使えません)。
となれば、考えるべきは、あらゆる妄想の場合と同様、この妄想の出どころである「欲望」、その正体でしょう。
根源を問えば問うほどに、何処を探しても解は存在しないと同時に、何処にでも解が存在しているというこの精神領域に存在する我々を「人」と称するのですから、名付け親は誰でしょうか? 「絶対矛盾的自己同一」と一言で表現した西田幾多郎さんも偉いですが、この「人」と一文字で表現した誰かもお見事ですね。
10日毎に平易な言葉で語り続ける直哉さんも勝るとも劣りませんが、人の悲しみや苦しみを共有しようとする姿勢を崩さないところは、まさにお坊さんの中のお坊さんですね。 恐れ入ります。
『日本人である俺は「価値」がある存在なのだ』、
これでしょうか、妄想の出所である「欲望」の正体とは。
自己の存在の根拠の正統性。
>同様、この妄想の出どころである「欲望」、その正
>体でしょう。
この一文に、はっとさせられました
台風が大きく影響しております。どうぞご自愛下さいますよう心より御祈り申し上げます。
妄想でも風雨。傘もありません。妄想にしたいものです。
さらには、「他者との関係性」の在り方にも注目すべきではないかと思われます。
「他者」を観念的、抽象的なものとして捉えている場合には、人の道に反するような「狂信的行為」が生じやすいではないかと思われます。
事実、反ユダヤ主義者のアドルフ・ヒトラーでさえ、自分の母親を治療したユダヤ人医師に対しては、「名誉アーリア人」として保護していたと伝えられています。
差別主義者であっても、好印象を抱いている現実的、具体的な「他者」に対しては、非道なことはできないのでしょう。
「他者」を観念的、抽象的なものとしてとらえるか、現実的、具体的なものとしてとらえるか、この観点の違いだけでも、大きく変わってくるものがあるのではないかと思われます。
2011/03/15 大震災
『こういう災害が起こると、すぐに「天罰だ」「神の思し召しだ」「因果応報だ」などと言いだす輩がいます。私はこういう発言にまったく共感できない以上に、それが虫酸が走るほど嫌いなのです。
この「なぜか」という問いに、人間は答えるべきではありません。答えなき問いが存在することを認め、その重圧に耐え、受け止め、そして相対するべきなのです。その意志と勇気に我々の尊厳がかかるのだと思います。
(中略)
私は、「価値観を共有する」という思い込みとか、「みんな仲間だ」的意識による人間関係をまるで信じていません。価値観を媒介とするなら、その価値観を持たない人を排除するでしょうし、「みんな仲間だ」意識は、事情が変われば、あっという間に蒸発するでしょう。
(中略)
仏教の思想と実践の意義も、それぞれの僧侶と寺院の在り様をふくめて、今からこの経験に根底から問われることになることは、言うまでもありません。』
この度のお話と併せまして、改めて様々な問題を含め、深く考えております。
まだまだ考えている途中で、まとまりのない話となり、誠に申し訳ございません。
この「迷惑な「言行一致」って、答えられよの斉藤某に対する南の返答なんじゃねぇの。
出自に関する差別なんだかんだと屁理屈こねて恐山菩提寺に嫁いだ自分を正当化してぇだけなんじゃねえの。俺にはそう読めるぞ。斉藤某のコメは青くせぇ、感情ばしったコメだが、名指しで南と対決しようとする度胸を俺は買う。南は姑息かつ傲慢なエセ坊主に変わったんじゃねぇのか。円通寺の立替費用問題はググればいくらでもでてくんぞ。俺もびっくりした。
坊主の世界も、地位、名誉、金が全てか。
くだらねーな。俺は南を評価してた口だが。南に幻滅に1票Ww
以下、コピペ
俺のコメ削除したら南の尻の穴の小ささが知れるなww
青森県むつ市の寺建て替えで檀家に高額な寄付依頼があるが払えません。
青森県むつ市の??寺の檀家になっています。
先日そのお寺が建て替えをするとの事で寄付の要求がありました。
その概要は以下の通りです。
①建替総額
・13億9千万円
・設計図の開示なし
・立替費見積もり内訳の説明なし
②各檀要求金額:60万円
・檀家によっては50べ円
・支払いが出来ない場合は銀行に1回~最大100回払いのローンが組めるようにしてあるとの説明有り
③もし檀家をやめたいなら離檀料30万円支払いが必要
・平成7年に決まったようですがそんな報告は一切受けていません。いつのまにか勝手に決められているようです。
お寺存続の為に檀家が寄付しなければいけないのはよく分かりますが、60万円という金額があまりに高額すぎるのと一方的過ぎて困っています。
また、一切檀家に相談もなく事務局だけで建て替え費と寄付金額を決定していることにも納得いかないのですが、その事務局は今回の件は数ヶ月前に檀家から委任状を受け全ての事務局の決定に任せる(従う)事になっていると主張しています。
多くの檀家は今回のやり方にも寄付金額にも納得できず困っていますが、事務局は地元の権力者の集まりで結成され、文句を言ったり反発すると圧力をかけられる可能性があり、誰も何も言えない状況となっています。
さらに建て替えはその事務局員の建設会社が請け負うとの事で建設費削減の努力をしたのかも不明(せめて大手建設会社の見積もり位は出して費用の比較して欲しい)
寄付額やお寺・事務局のやり方に納得いきませんが一般的にはどのように判断されるのでしょうか?
どうぞアドバイス・ご回答をお願い致します。
具体的にご回答頂きたいのは以下の件です。
・寄付金額の減額または一切の拒否を要求する方法はあるか?
※お寺や事務局の圧力も受けずまた法的措置も取られることもなく減額・拒否したい
・離壇料の30万円を支払わずまたは減額要求して離檀する方法はあるか?
※お寺に寺院規則があるのかどうかもわかりませんが、もし寺院規則で檀家の務めとして決められていた場合は覆すこと は出来ないか? (平成7年に勝手に決められたことに従う必要があるのか)
・檀家もお寺も皆が納得する解決策はあるか?
なお、全額支払うのが当然という回答はお断り致します(決してお寺を潰したいとかじゃなく、払いたくても払えない&借金は出来ない場合の方法、解決策をお伺いしたいと思っています)
どうぞよろしくお願いいたします。
人種差別の法的規制についておっしゃられたなら。
かつてネットエチケットと決まり文句の様に流行った2000年中期の単語ももはや死語になって、ネットリテラシー、ネット情報の正誤なども検証せず、文句を言いやすい対象を見つけたら"取り敢えず"叩く風潮。
この風雨が見直されない内は本当に消えてしまいたい。