ここ一週間で、青森、東京、新潟と移動しました。やりくりの事情があったとはいえ、もう少し落ち着かないといけないと反省しています。
青森は恐山で、宗教学者で文筆家の島田裕巳氏と雑誌の対談をしました。ビジネスマンによく読まれる雑誌で、編集者から示されたテーマもそれらしいものでしたが、私は島田氏本人に関心があったものですから、好きなようにしゃべっていたら、島田氏もそのテーマをほとんど意に介さず、結果的にいささかディープな、私としては勉強になり、また大変面白い対談となりました。
その中で島田氏が、明治以後現在までの日本人の仏教理解は、西欧近代の学問体系を思考の枠組みとして潜在させており、したがってそれは、結果的に一神教的思考に浸透されている、という趣旨のお話をされました。
実にもっともな指摘で、私もかねてからそう思っていましたが、「一神教的思考」を「形而上学的理念」ととれば、すでに密教や浄土教に、そういう理念を設定する思考様式が用いられていて、今に至るまで、強力な作用を我々の仏教観や仏教理解に及ぼしているとも、言えるでしょう。
さらに氏は、そのような明治以降の仏教観が、現在の企業経営に深く影響していることを指摘されていました。非常に興味深い見解で、これについては近々にご著書が出るようです。
それにしても、一ヶ月余りで一作の自筆著書(氏は口述をしないそうです)を出されるペースだそうで、氏は「修行しました」と笑っておられましたが、とても私などに真似できるワザではありません。
新潟の長岡では、お坊さんの研修会で講演するように呼ばれ、もう一人の講演者、小池龍之介氏にお目にかかりました。
私が出かける前に某所で、新潟で小池さんと一緒に講演し、パネルディスカッションみたいなことをすると言ったら、一般の人でも参加できますか、それは本になりますか、ウェブで公開しますか、と立て続けに問い詰められました。
あいにくそれらの予定のない講演でしたが、氏の人気と影響力の大きさを改めて感じました。ご本人は、会ってみれば誰でも深い印象を得るような、聡明で穏やかな、とれも涼やかな方でした。私のようなエキセントリックな者とは大違いです。
講演も、方や「平常心のレッスン ー 幸福と不幸のカラクリ」、方や「いま信仰は可能か - 無常を生きる意志」などと、互いにいかにも、という感じ。しかも語り口調が、氏は抑揚のあまりない静かな淡々としたもの、対して私は例の「あいつは落研出身か?」ですから、実に好対照だったと思います。
しかし、私にとって一番面白かったのは、実は控え室の雑談で、氏も、「ここでの話をそのまま聞いてもらったほうが、よいのではないでしょうか」と微笑んでいました。
いろいろ興味深い話をしましたが、中で感銘を受けたことを二つ。
一つは、氏の行う瞑想修行で、これは初期仏教の経典や論書をベースに、他の坐禅法などにも学び、実践経験を積み重ねて検証しつつ、独自に完成させた方法で、特に師匠がいないのだそうです。我々が言うところの「坐禅工夫」そのもので、行の深さと奥行きに敬意を覚えました。
もう一つは、話の中で出たこの言葉(完全に正確ではありません。あしからず)。
「私は特に大それたことを考えてやっているのではないのです。ただ、なんとか楽に、もっと落ち着いて生きていくにはどうしたらよいか、それだけなんです」
ああ、なるほど、と思いました。この人はつくづく真っ当だなあ。ああいう透明度の高い本が書けるのも尤もだなあ。
そして、思いました。やっぱり、僕とは道が違うなあ。僕は「楽」がイメージできないものなあ。「楽も苦の内」みたいに考えちゃうもんなあ。
ひさしぶりに、会えてよかったと思えた人でした。
追記:次回「仏教・私流」は10月25日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
以前、どうしてよいか分からず、何も手につかず悩んでいた頃が嘘のように、今では次々とやるべき課題が目の前に用意されていき、私にとって魅力あるビジネスパートナーとの出会いも日常的に起こります。楽ではないですが、納得して生きています。
現実とは自分の意識に過ぎないこと、自分が世界であり世界が自分であること、そして世界が全てを与えてくれること、を実感して生きています。
無数の人が生きる今ここを美しく思えるのは、本当に感謝すべきことだ、と思っています。
島田裕巳氏との対談、読んでみようと思っていあます。
たくさんの御移動で身体がお疲れかと存じます。どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
バンパイアの様に、灰になるのなら良いけど、人間の遺体は腐敗する。
死にたい奴は、遺品整理業のアルバイトでもしてみろ。
遺品はいわゆる遺産の内でも動産など物品全般を指すが、こと故人が生前に使用していた生活雑貨や衣類・家具・家電製品など古物としては財産価値の薄い物品も含まれる。
故人の遺品を遺族で分け合うことを形見分けと呼び、急な出来事の場合、あるいは借家や賃貸アパートなど賃貸住宅を明け渡さなくてはならないような場合は、葬儀などの法事が終わってから、直ちに遺品整理にかかることが多い。
日記・手紙・手帳・預金通帳などは、1年から2年程度は必要になることもあるので保管し、その他の家具や箪笥などの家財道具は福祉施設に、書籍などは地域の図書館や学校などに寄贈されることもあるが、中には引き取り手のつかない、あるいは財産としての処分を行うこともできない物品もある。
その他の、ありとあらゆる家財道具、居間や台所などの細々とした生活雑貨一切を含めて故人の残したもの整理を専門にする業者もおり、また専門ではなくともそういった業務を手掛ける業者も存在する。
廃品として処分する場合は概ね、トラック何トンいくらといった料金体系になっており、これらは産業廃棄物として処分される。
業者によっては、家財一切を運び出した後のハウスクリーニングまで引き受けるところもあり、また料金体系も様々である。
業者によって料金に幅があるのは、プライバシー尊重重視ですべてを処分すると高くなり、下取り目的の業者は安くなるといったこともあるという。
なお遺品整理業者側では、残された家財道具一切を幾つかに分類して遺族に対応を決めさせている。
今ここを自分が納得いくように充実して生きれば、死は仲のよい友人のように、適切な時に訪れてくれる、と感じています。
正確には好きな人間以外の人間が嫌い。知らない人はみんな嫌い
真面目に見えてチャラかったり自分の事しか考えていない偽善的で口を開けば嘘と見栄と金で汚い腐った糞野郎だらけ。
ここ二年位で人の見方がかなり変わった
24時間テレビは偽善の代表格。タレントを使って障害者や恵まれない人を餌にし金をだまくらかすまさに外道
世の中は綺麗に見えて汚いものばかり。人間もそう。
ただ変わらず周りに居てくれる馬鹿野郎共は好き。それは変わらない。
それでも、無数の想いを持つ人たちが生きる世界は奇跡に満ちています。もし、複雑な糸が交錯したような「縁起」で構築された今ここを、美しいと感じるように現実を解釈出来るとしたら、あなたの現実は、開かれた道を示すでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E5%93%81%E6%95%B4%E7%90%86