恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

作法とマニュアル

2024年07月01日 | 日記
 修行道場に入門すると、日々の物事の進め方には厳格な手順が定められていて、それに従うことが必須とされます。いわゆる「作法」です。

 私が修行した道場は、それがひと際厳格で、とりわけ食事作法はなどは、最初の頃は作法どおり食べることで精一杯で、味などまるでわかりませんでした。お腹が空き切っているのに、食べ物が喉を通らない思いをしたのは、後にも先にも、あの時だけです。

 どうしてこれほど厳格に作法の遵守が求められるのか、入門後しばらくは訳がわかりませんでしたが、しばらく四苦八苦しているうちに、作法がそれなりに身についてくると、なるほどと思うようになります。

 まず、何かを行う時に手順や方法が決まっていると、間違いが少ないのです。特に集団で作業する時などは、ミスでお互いを妨げることがありません。それは同時に、効率の良さにつながります。作法に馴れると、度々考える必要が無く、ほとんど流れ作業のように物事が進むのです。

 この「作法」の正確さと効率の良さは、他の分野や業務では、「マニュアル」と呼ばれて重宝されます。一度物事が「マニュアル」化されると、正確さと効率性のみならず、業務の引継ぎにも便利ですから、次第に仕事の「マニュアル」依存が起きたりしがちです。

 とはいえ、これが経済活動の分野になると、状況の変化にすばやく対応しなければなりませんから、「マニュアル」の見直しや調整、あるいは改変などが必要で、同じ「マニュアル」が長く利用されることは稀でしょう。ですが、修行道場の場合だと、別に競争相手がいるわけでもなく、日々の修行生活に大きな変動はありませんから、長きにわたって同じ「作法」が引き継がれるわけです。

 さらに言うと、この「マニュアル」と「作法」には、決定的な違いがあります。それは「敬意」の有無です。

 「マニュアル」を正当化し、その正当性の根拠となるのは、一にかかって物事を進める上での正確さと効率性です。それに対して、「作法」は、正確さと効率性の他に、さらに重要な、自分が関わる人や物への敬意があるのです。それの無い「作法」は、ただの「マニュアル」に過ぎません。

 修行僧が食事の時に、あれほど厳格な作法を実施するのは、この食事に至るすべての人と食べ物の縁に、感謝と敬意を表するためです。それがあるから、「作法」はそれを見る者に美しさを感じさせるのです。正確さと効率だけでは美的にはなり得ません。

 けだし、業務の「マニュアル」と修行の「作法」の中間に位置するのが、「職人仕事」とか「職人芸」と呼ばれる行為でしょう。

 これは確かに業務ですから、正確さと効率は必要でしょうが、職人の仕事には、まず自らの仕事に対するプライドと、仕事の対象への明らかな敬意があります。だからこそ、彼らの振る舞いには、我々が「見ていて飽きない」美的な要素が、多く存在するのです。

「マニュアル」が文化になりにくく、「作法」と「職人仕事」は明らかに文化の範疇に入るのは、その根底に敬意があるかどうかです。

 

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