恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

坐禅・私流

2012年10月10日 | インポート

 最近よく「あなたはどんなふうに坐禅しているんですか?」と訊かれます。坐禅や瞑想が、宗教的行法や一時的なスピリチュアルブームをこえ、もっとカジュアルな心身健康法のようなものに捉えられるようになってきたのかもしれません。

 そのことの是非はともかくとして、以前に本に書いたことではありますが、ここでもう一度、私が現在採用している坐禅法を紹介してみます。

 坐禅する場合の具体的な足の組み方・手の組み方・姿勢づくり、こういったことは、まず第一に、道元禅師の『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵』「坐禅儀」に従うのがベストです(ただ、組んだ手を左足の上に置くとありますが、必ずしもそれにこだわらず、下腹に手を引きつけ加減にしながら、ごく自然に肘が伸びて静止する位置にしておけばよいと思う)。これには解説本もたくさんでていますから、本ブログでは割愛します。

 私が強調しておきたいのは、それらの書物の中で道元禅師が言及する「正身端坐」ということの意味です。

 私はこの語を、身体状態に関しては、以下のように理解しています。

 ①上半身を真っ直ぐにする。左右に傾かない、前かがみにならない。後ろに反らない。

 ②徹底的に力を抜く。筋肉の緊張を解く。できるかぎり楽に坐る。

 ③呼吸をとにかく深く、可能な限り微弱な状態に安定させる(腹式呼吸)。

 このとき、最終目的は③であって、そのために①と②が必要なのです。

 ①について重要なのは、「真っ直ぐ坐る」と言われたからといって、胸を張り腰を入れて、弓なりに反りかえるような姿勢になってはダメだ、ということです。坐禅の経験や学習が足りない者が指導すると、すぐに胸を張れ、腰を入れろ、頭で天井を突くような気持ちで坐れなどと言いますが、これは坐禅の仕方として、拙劣極まりないものです。

 私が大切だと思うポイントは、まず、両耳が両肩の真上にくるようにして、顎を軽く引く。次に肩をやや内に入れ加減にする。そして、腰を入れるのではなく、伸ばすような具合にする。

 これらのポイントは、とにかく筋肉に余計な力を残さないためです。究極の理想を言えば、筋肉の支えを借りずに、骨格のバランスだけで「正身端坐」の姿勢を作ることでしょう。

 頭の位置がさだまり、顎が引かれると、喉や首周りの緊張が抜け、胸を張らず肩を入れると、胸の筋肉全体が緩みます。

 また、力を加えて腰を入れたりすると、全身にその力が波及して、無駄な疲労が蓄積されます。かといって、腰が抜けた状態になると、前かがみになります。前かがみになるとよくないのは、気道が圧迫されるのと、頭が前に落ちて首から背中にかけての筋肉が緊張し、身体的に疲れやすくなること。それとどういうわけか、余計な想念が出てきやすくなることです。

 これを避けるには、腰を軽く伸ばすように最小限の力をかけることを心がけるとよいと思います(若干の猫背は許容範囲です)。

 そして、肩・肘・手首・膝・足首から、関節を緩めるような気持ちで、意識的に力を抜き取ります。

 今申し上げたすべては、深く静かな呼吸状態を作り出し、維持するための技法です。とにかく気道を圧迫し、呼吸に負担がかかるようなことは絶対に避けねばなりません。

 次に「正身端坐」の精神状態(「非思量」)については、次のように導いていきます。

 まず第一段階では、上記の身体状態を作り出し、これを安定させることに意識を集中します。特に余分な力がどこかに残っていないか点検し、姿勢のブレを正すことが必要です。ただし、呼吸は、これを意識的に静めようとすると、かえって荒れることが多く、むしろ身体状態の安定に集中していけば、それにつれて自然に呼吸も落ち着いてくることがわかるでしょう。

 身体状態の安定がある程度得られたら、第二段階として、意識の方向を変え、まず最初に聴覚に向けます。

 どうするかと言うと、あらゆる音を無差別に、吸い取るように「拾う」のです。何の音かは一切判断しない。言わば、「聞く」のではなく「聞こえている」だけの状態に持ち込むわけです。そうすると、最初のうちは、自分のまわりにはこんなにも音が満ちているのかと驚くでしょう。

 これが深くなると、普段なら絶対に聞こえない程度の音が聞こえます。たとえば、線香の灰が落ちる音など(玄侑宗久師も言っていました。禅僧には多い経験だと思います。)。このレベルの「聞こえている」を換言すれば、「聞くことを聞いている」ような状態と言えるでしょう。

 この状態は、感覚の作用として受動態です。聴覚は視覚などと比較して極めて受動的ですが、この性質を全開にするわけです。

 したがって、こうなった時には、眼は見開いていて、すべてが見えてはいますが、もう何も見ていません。特定の「見る対象」はありません。

 これがある程度できたら、第三段階として、聴覚で起きている受動的な感覚状態を、身体全部に拡大します。聴覚から意識を身体に振り替え、さらに身体内部にまで引き込んで、結果として、身体全体を内側から感じる、あるいは感じられるようにするのです。

 皮膚の表面(というよりも身体内外の境界)にも何かが感じられるでしょうし、内臓も動いています。そうした感覚を、これまた、それが何であるかを判断することなく、ただ徹底的に感受するわけです。つまり、私の行う坐禅は、「精神集中」ではなく「感覚開放」なのです。

 この行為は「観察」ではありません。「観察」は「観察結果」を言語化できる行為で、そこには自意識が働いています。私が言っているのは、この類の「観察」やビッパサーナ瞑想が言う「ラべリング」のような、能動的な意識作用ではなく、「ただ感受する」とでも言う、ギリギリ受動的な意識状態です。

 この状態がある程度持続すると、身体がまるごと感覚の束、あるいは塊のように感じられてきます。あらゆる感覚が入り混じりながら点滅しているような印象です。問題は次で、この「感覚の束」を呼吸に預けるというか、乗せる、同調させるのです。

 そうは言っても、これは意志的にすることは困難で、実際には乗る・同調するのを待つのです。もし乗ると、この感覚の束には、呼吸のつくるリズムが発生します。すると、感覚の束は、一定のリズムを持つ「波動」になります。

 この「波動」状態が生まれると、私の場合かなりの確率で、突然「ガクッ」というか「ドン」という感じで、ある衝撃とともに、いきなり体の重心が底抜けするように落ちます。と同時に、仕切りが切れるがごとく、感覚が膨張して「外」に溢れだし、身体内外の区別が消失してしまいます(これは無我夢中的恍惚状態ではありません。きわめて明瞭な、冴えきった感覚体験です)。

 ここでは最早「私である」ことの意味は解体され、自意識は融解してしまいます。この状態は人によっては強烈な快感になるので、これに執着して中毒になる危険もあります(いわゆる「禅病」「魔境」)。

 この「融解」状態は、必ずしも「波動」状態の最後に発生するとは限らず、もっと手前の段階で起きることもあります。この方法で繰り返して実践していると、早く現れやすくなりますが、そのことに意味はありません。

 あと、「感覚の束」が呼吸になかなか乗らないとき、人為的に乗せる方法があります(成功する確率は低い。「人為」の能動性が、それまで維持されていた受動状態を破るから)。それは、すでに腹式呼吸をしている下腹を意識的にゆっくり膨らませて息を吸い、次に下腹を徐々に絞るようにして息を吐く、これを数回繰り返すことです。この呼吸を最初は大きめに、次第に小さくしていく。すると、乗らなかった「束」が乗ってくることがあります。

 私がここにご紹介した方法を使って坐禅をする目的は、一つだけです。以前にも書きましたが、人間の自意識は、特定の身体技法で解体することができると、体験的に実証することです。それはすなわち、我々の自意識は、一定条件における行為様式から構成され仮設されている、暫定的な事態だと認識することなのです。

 くどいことを承知で繰り返しますが、「波動」状態や「融解」現象は、「悟り」でも「見性」でもありません。ましてや「本来の自己」ではさらさらありません。そう語ることは語り手の自由ですが、私はナンセンスだと思います。

 ちなみに、「波動」「融解」のような意識の変性状態では、時として特異な感覚が体験できる場合がありますが(意識が体を抜けるような感じ、あるいは下腹に熱源が生まれて何かが上昇してくる感じ)、これも「悟り」と同じで、どう意味づけ、どう語り出すのかは人の勝手ですが、それ自体に意味はありません。ただ、そうなるというだけのことです。

 以上、とりあえずご参考まで。


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47 コメント

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Unknown (桂蓮)
2018-07-21 03:15:35
受動でも能動でもない中道であると院代から聞いたような気がします。

聞くのは『動』ではなく
道だと思います。

追伸
コメントしたくないのに、
せざるを得ないのは
道でなく、動でしょうね。
浅野様に
能動している私は受動させられたから
実は受ではなかったかも?
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Unknown (浅野)
2017-08-02 17:37:55
南さん流の座禅中の「聞く」行為が、受動か能動か判別がつきません。
耳元に聞こえてくる音をただ拾うのか(意識は耳周辺)、それとも、どこか聞こえてくる方へ意識を向け拾うのか(耳元から意識は離れ外部の音のする方へ)。
けど、座禅中の「聞く」行為は受動だとも思うのですが、意識的に聞いてると思うので、能動だとも思うんですよね。
そこのニュアンスが完全に腑に落ちていません。
返信する
大田正登様へ (蓮の花)
2017-08-02 05:14:04
続けましてー大田正登様へー何回もすみません。
私のコメントはお読みにならないかもしれませんが、万が一ご覧になった場合のため書きます。

坐禅の『標準的帰処』の大部分が
バレエで習った筋肉の動かし方や意識の運び方、又は心理学でのフォーカシング技法に酷似していて驚きました。

バレエを習ってた時は
先生は結果だけを教えて
正誤を指摘されただけで
考え方をどのように向けるかについては
先生自身が知識過不足のようで
見本を見せるだけでした。
私はただ真似るだけよりはどうしてもその因果関係が知りたかったので、独学で骨や筋肉に関する辞典的な本を買って勉強しました。
ですが、能力の限界があり
それらの知識とバレエの姿勢、筋肉の動かし方とリンクさせることはできませんでした。
にもかかわらず、勉強を続けていて
いつか全貌を掴めたら
全体的なつながりを持てるだろうと信じて未だに関連の本は読んでいたところでした。
ところが、筋肉の作用について書かれた部分(骨組みに合わせて)を読んでいた時、先生方が言っていたことが鮮明に浮かび全部納得として連想され始めたのです。

南師の流儀も地図的でなおかつ視覚的なので
ー何をどのように扱うかーについて
明確な指針になりますが、
大田様のより詳細な根拠や基本前提から成り立つ説明で、根本的な疑問が晴れた感じを確かに実感しました。

また、心理のフォーカシングは被験者になった経験だけで、私を担当した者から施術後、その過程と働きについて説明された程度ですが、
その体験で内観への理解が深まってました。

上記に書いたバレエとフォーカシングの根本が『坐禅の標準的帰処』を読むにつれて、坐禅の姿勢に深く共通していることが理解でき、私にとっては非常に飛躍的な学習になったので感謝を込めてコメントとして残したくなり日本語的に粗末な文ではありますが、感想を綴ってみました。
改めましてありがとうございました。
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Unknown (蓮の花)
2017-08-02 03:36:29
今日はこの記事のコメントを読む気になりまして
読んでみましたら(前回は飛ばしたので上記のような軽率極まるコメントになりましたー言い訳)
大田正登さまの解説があって
読んでいるうちに
私は人様の意見に対し、如何に表面的な受け取り方をしてきたのかが
気づくようになり、恥ずかしくなってきました。

自己中心的なコメントや失礼な態度も結構あったと思います。
それに対し、大変申し訳なく思っています。


大田正登様へ
文を読んでいると何故か私の醜さが見えました。
心の姿勢が乱れていたことも見えました。
これらについて、見える鏡を提示させていただき誠にありがとうございます。
解説に関しましてはこれ以上ないように分かりやすかったです。
南師の全体的な坐禅図があって
その図の因子一つ一つに対し
精密な解明がなされた感じでした。
欠けていたパズルが合っていく実感も持てました。

返信する
ありがとうございます。 (蓮の花)
2017-07-19 03:54:10
極めて視覚化できる坐禅の教えだと思います。
Googleマップみたいな感じですね。
住所を入れて検索するとその場所が順次に出て、ズームインしたりアウトしたり自由自在にアングルを変えて目的地を知ることができるようなハイテクです。
本番の前にリハーサル頑張っておこうと気合が入りました。

因みにこの記事を投稿なさった年、私は院に進学するため研究生やってましたね。
坐禅という言葉すら知らなかったのに
今になって当時を振り返ると、その時もこれを読むために
前置き作業をしていたんだなと思っちゃいました。
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目線について (院代)
2017-07-18 23:11:04
お尋ねがありましたので、私見を申し上げます。初心者には、目線で苦労する人がかなりいます。坐禅中どこを見たらよいかわからない、一点を見つめていたら吐き気が来た、半眼にしていたら、目の周りが痛くてたまらなくなった、などなど。
 大事なのは、まず視線を斜め下45度くらいに投げること。すると、だいたい自分の体から1メートル前後先に視線が落ち着きます。
 そうしたら、もう意識的にどこかを「見よう」としたり、「半眼を維持しよう」と思ったりしないことです(以前、まばたきさえ我慢していた人がいました)。そこに意識がいくと、たちまち周辺の神経と筋肉が緊張してしまいます。
 そのためには、意識の方向を切り替え、視覚から聴覚へ注意を移し、とにかく聴く(すべての音を拾う)ことに集中していきます。すると視覚はほったらかしになり(まばたきも無意識にして当たり前)、緊張から脱していくはずです。
 あとは、記事のようにさらに意識の方向を段階的に切り替えていく方法を、私は採用しています。
 もしどうしてもうまくいかないなら、だれか適当な指導者から個人的なレッスンを受けた方がよいと思います。
 信頼できる指導者と一緒に坐っただけで、坐禅が落ち着いたという事例を、私は知っています。
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目線について (Unknown)
2017-07-18 20:13:53
ご著書を拝読し、実際に坐禅に取り組んでいるのですが、目線を半開きにして落ち着かせようとすると目が痛くて堪らなく涙まで出てきて坐禅どころではなくなってしまいます。近所のお寺の坐禅会にも参加させていただいたり、別の方の著書なども参考にしたのですが、どうにも改善できません。南さんをご意見をお伺いできないでしょうか?
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Unknown (Unknown)
2017-01-06 14:34:19
自意識が解体され得るものである事を確認する為に坐る側面があるとしたらあまりにも浅すぎる。
いや、このような坐り方もあるのかもしれませんが、「只坐る」ことの持っている意味をしっかり書いてからでなければ初心者を混乱させるだけでしょう。あるいは南様はその意味(在りよう)をまったく言語化できないのでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2017-01-06 14:12:50
この後半に書かれた状態に入る為に坐禅をしているとしたら?だと思いながら読みました。
いくら意志には依ってないと書かれても、余計な事にしか思えません、永平寺で修行された方が書いているとはちょっと信じ難いです。
この状態を追うことの弊害は小さくはないはずです。
身体の調え方に関しては問題ないと思います。
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続き(しつこくてすいません) (大田正登)
2016-12-26 04:42:22
(骨感覚)
 身体の諸感覚を感じとろうとしたときに感じられる感覚を、おおざっぱではあるが、「筋感覚」と「骨感覚」に分けてみることにする。
 「筋感覚」とは、例えば二の腕に力こぶを作ったときに生じるような筋肉の緊張感をいい、通常は皮膚の直下に感じられる。これに対して、「骨感覚」とは、より深部の感覚であり、筋感覚のような粗い力感を伴わない。あたかも筋肉を緊張させずに身体各部の「骨」を動かしているかのように、あるいは「骨に乗っている」かのように感じられる。解剖学的に言えば、実際に生じていることは、表層筋ではなく深層筋を主として使っている状態であって、物理的にまったく何の筋肉も働かせていないということではないかもしれない。
 坐禅においては「解剖学的にどうなのか」よりも「感覚・実感としてどうなのか」のほうが大事なのは言うまでもない。しかし、解剖学的知識が役に立たないというわけではない。実はその逆である。後述するイメージ感覚には、解剖学的な骨格のイメージも含まれるからだ。誤ったイメージをもってしまうと、上述した「身体認知のずれ」につながる。筋肉の名称をいちいち覚える必要はないが、少なくとも骨格の正しいイメージはもっておいたほうがよい。イメージと感覚は連動する。
 表層筋を主として使っているときは、それに伴う筋感覚が相対的に強く感じられるため、皮膚およびその直下の筋肉の緊張感に基づいて無意識のうちに作り上げられた物理的身体輪郭が優位になる。通常は意識されにくい深層筋の使用割合を高め、表層筋からの筋感覚入力を最小限に抑えることは、身体を静めるためにはぜひとも必要である。筋感覚は無数の身体感覚の中でも強烈・刺激的で感受しやすい。それゆえ、他の繊細であいまいな感覚を感受する妨げとなる。
 坐禅は「骨」で坐る。筋肉に力を込めて形作るようなことはしない。「骨」で坐るイメージ感覚が全身に染み渡ったとき、筋肉の不要な緊張は自ずからやわらいでいく。繊細で微妙な坐禅身の誕生には、肉感的身体を静めることがぜひとも必要だ。ハエが手をする音までも聴きとれるぐらいに身体が静まったとき、世界もまた静まる。すべての音が、耳に聞こえる静寂になる。
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昔似たような文章を書きました・未発表ですが (大田正登)
2016-12-26 04:17:24
まずはじめに、坐禅の標準的帰処として「全景的目覚め」を設定する。

 「全景的目覚め」(panoramic awareness)とは、通常の言語習慣に基づいて記述すると、「六つの感覚器官から入ってくる感覚情報に均等にさらされること」である。六つの感覚器官とは、眼・耳・鼻・舌・皮膚(身体感覚全般)・心である。このうち、鼻はすぐに適応してしまい、匂いっぱなしということはないので、さほど気にしなくていい。また、舌も坐禅中は味覚は働いておらず、上あごに触れた感じ(触覚)のみが働いているので、実質的には皮膚感覚に含めてよい。
 よって、坐禅中の感覚情報は、眼にうつる像、耳に聞こえる音、身体の感じ、心に浮かんでくる思いの四つが主となる。
 これらの感覚情報に均等にさらされるとは、手のひらを中心として身体全体(前後左右)の感じをぼんやりと(はっきりとではなく)感じとりながら、「見る」のではなく「見える」ままにしておく、「聞く」のではなく「聞こえる」ままにしておく、「思う・考える」のではなく「思いが結びかつ消える」ままにしておく、ということである。言い換えれば、四つ(臭覚を加えれば五つ)の感覚情報のいずれにも偏らないで、感覚情報が自由に出入りするままにしておく。このように全感覚情報に均等にさらされるあり方を「全景的目覚め」という。
 「思い」を感覚情報に含めること(アビダルマ的分類)には異論があるかもしれないが、思いの特別視が人間の様々な悲劇を引き起こすことを考えれば、六つの感覚情報の一つに過ぎないとすることには大きな意味がある。思いを特別視したり重視したりせず、他の感覚情報と同一地平で観る姿勢が大切なのである。
 ここで一つ注意しておきたいのは、「全景的目覚め」は静的な状態ではなく、動的なプロセスであることだ。したがって、「全景」が知的に考えられうる感覚情報のすべてを意味すると考える必要はない。
 たとえば、頭頂部から坐骨や膝、足指までの全部位の感覚を厳密な意味で同時かつ立体的に感受することを意味すると解釈する必要はない。「全景的に目覚める」とは、局部的認識からより全体的な認識(景色)に移行することである。「全体」を名詞として受け止めると、全体は全体でなくなる。全体であると認識された途端、全体が対象化され、全体性を失うからである。「全体」という言葉は、上記の動的プロセスを指示する限りにおいて、少なくとも実践には役立つ。「より全体的な」を強調したのはそのためである。
 実際、全景的に目覚め続けているのはきわめて難しい。
 しばしば、聞こえた音をあらためて聞き直そうとしたり、音の連想として色々なことを考えたりする。また、心に浮かんだ思いをあらためて反芻し、どんどん連想を続けて壮大な一人芝居を作り上げ、その中にのめり込んでしまうことさえある。このような「認識の局部化」、「局部的認識の肥大化」、「顕現への囚われ」と呼びうる事態はしばしば起こる。それゆえ、そこからより全体的な景色へと離脱することに大きな意味がある。
 大切なことは、全景的目覚めから外れないよう努力することではなくて、外れたという自覚が生じたら速やかに全景的目覚めを思い起こして、やわらぎ、ほどけることである。
 外れることそれ自体は悪でも失敗でもなく、生の力動である。坐禅とは特定の状態を達成し維持しようとする努力ではなく、流動・ゆらぎに即した可能な限りの均等な覚智(awareness=気づき)が失われている事態(まどろみ・曇り・興奮・散漫など、特定の顕現との結ばれ)から全景的に目覚め直して、顕現が自然かつ無努力的にときほぐれるままにしておくことである。
 このプロセスにおいて、動きとともに動く覚智(動態智 dynamic awareness = 名詞的観察の放棄)の非意識的な成長が促される。動態智とは、上記のプロセスそのもの、すなわち、可能な限りの均等な覚智に孕まれる伸縮自在な差分覚智を指す。
 全景的目覚めは達成されるべき「唯一の正しい状態」ではない。全景的目覚めを規準的帰処とすることの一つの意義は、それによって動態智が働き始め、結ばれがほどけ始めることである。心の流動性と柔軟性を取り戻すこととも言えよう。
 心とは自由の異名であり、どこにも存在しないが感じることはできる「これ」である。


2 坐相調整の諸問題

 坐相を調える方法は、おおまかに言語的説示に従う方法と非言語的調整に分けることができる。言語的説示に頼った坐相調整は失敗する可能性が大いにある。頭では説示通りにちゃんと坐れているつもりなのに、身体のあちこちに違和感を感じることは、初心者ならずともよくあることである。
 その一因として、言語的説示に伴う「過集中」、「結果と目的の混同」、「身体認知のずれ」などが考えられる。これらの要因の背後には、言語の罠とも言えるような働きが見え隠れしている。

(過集中)
 一例として、坐相に関するよくある説示として、「腰を立てる」という言い方について考えてみたい。この説示はそれ自体として間違っているわけではないが、この説示のみを聞いた人は、多くの場合、腰のみに意識を向けると思われる。腰が立っているかどうか、だけが関心事になってしまう。このような事態を「過集中」という。過集中の状態にあるときは、腰が曲がっていると認識したら、腰(のみ)を調整しようとする。集中が局部化しているために、身体の他の部分が認識領域に入っておらず、身体の各部分は連動しているということが忘れられている。
 過集中は身体を特定の状態に固定する際には役立つが、自由な流動を促そうとするときは障害になる。過集中は何らかの強力な身体イメージを伴っており、そのイメージに身体をはめ込もうとする。また、筋肉は強い集中を向けられると緊張する傾向がある。強い身体集中には、こうあってほしい身体イメージに基づく非意識的な操作衝動が含まれていることが多く、筋肉がそれに呼応して動く(収縮する)からだろう。
 あるいは、このような説明もできるかもしれない。
 ある身体部位の感覚をはっきりと感じとろうとすれば、注意をある程度集中させる必要がある。その際、対象部位の視覚的イメージを惹起して固定させると、身体はその状態から抜け出せなくなる。
 過集中と視覚(鏡像)的身体イメージの関係は非常に複雑であり、探求の余地が大いにあるが、いずれにせよ、過集中は場合によってはいわゆる執着に限りなく近くなると言えるだろう。

(結果と目的の混同)
 過集中は往々にして結果と目的の混同につながる。坐相が、周囲環境との意識的・非意識的な交流を含む身心全体の連動の最終産物であるとすれば、「腰を立てる」のではなく、「腰が立つ」ように全身の連動を調えるほうが理に適っている。「腰を立てる」のは目的だが、「腰が立つ」のは結果である。前者は直接的な働きかけにつながるが、後者は間接的な調整を促す。前者を他動詞的(doing)、後者を自動詞的(allowing)と言ってもよい。

(一部です)
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身体がガクッ。 (光一)
2013-07-22 11:53:31
身体がガクッ。
私もよくなります。身体の関節か何かがおかしいのかなぁ、と思っていましたが、違うようで安心しました。私には禅の師がいないので独学で禅をやっていますが、このブログをみて安心しました。ありがとうございます。
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坐禅とマインドフルネス(ヴィパッサナー)瞑想を... (山本)
2013-07-04 21:19:56
坐禅とマインドフルネス(ヴィパッサナー)瞑想を併修しているものです。

老師の説明する「音」と「身体感覚」に対する対応はマインドフル瞑想の静座瞑想エクササイズの「呼吸と身体の一体感を味わいながら座る」、「音と共に座る」と非常に似ているように感じます。

また、正式のヴィパッサナーを行うのは「あるがままの意識と共に座る」状態で、これは「非思量」の状態とも考えられます。

私も「カクッ」とする感覚は良く感じます。
坐禅とマインドフルネス瞑想とは意外に共通点が多いような気がします。
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かなめは仏と心、無門が法の門 門がないとなると... (Unknown)
2012-10-19 15:46:30
かなめは仏と心、無門が法の門 門がないとなると、サテどこをどう通るか?
こうも言うてある。
「門から入るは宝でないぞ、世のでき事はやがて破れる。」
こういう説き方は、なぎの日に波、玉のハダにキズのよう。
まして言葉にこだわり、センサクするとは! 
棒で打つ月、カユいのに靴、とどきはしない。
わたしは、紹定元年の夏、温州の龍翔寺をあずかり、僧たちがおそわるので、昔からの問題を取りあげ、入門の手だてとして、それぞれみちびいた。
弟子たちが書きとってしまい、いつしか本になった。
 あとさきの順もなかったが、みなで四十八まとまり、[無門関]と名をつけた。
 もしも男いっぴき、いのちを捨てて、ふりかざして行けば、八本ウデのナタ太子も敵でなく、たとえばインドのダルマ、中国の慧能でも、恐れいって「お助け」と言う。
 もしグズついていると、窓べを過ぎる馬のように、まばたきする間に、見うしなってしまう。
返信する
先の、コピペ云々のやり取りには、あまりの稚拙さ... (カズサ)
2012-10-19 08:15:56
先の、コピペ云々のやり取りには、あまりの稚拙さに(自分の事も省みず失礼)失笑しました。が、今朝は、そんな自分の有様にも失笑してしまいました。生きる支えを無意識に外に求め、それが突然消え失せた時、己がどんな言動をとってしまうのかが、今回また改めて、よくわかりました。まだまだ、先は長いです。もう少しマシな人間になることを諦めてはいません。足首痛いですが続けます、自分の為に。失礼しました。
返信する
本来宗教は苦しんでいる人を救う働きを望まれてい... (あじさい)
2012-10-18 21:55:49
本来宗教は苦しんでいる人を救う働きを望まれているものだ。現在日本は豊かな国家で、大部分の人は豊かに暮らしている。現状維持で、真実とか変革を望んでいるわけではない。宗教も、それほど必要としていません。

この掲示板を訪れる方々は何とかしようとしているマイノリティーが多いと思う。民主主義では少数派は不利ですので、人間疎外とか被害妄想、孤独な方が多いのだろう。坐禅とか変性意識とかが大多数に良いことだとは思わないが、自己変革を目指す不幸な方々には価値のある場合が多いと思います。

確かにそれはこんなで狭い道かもしれませんが、誤解を生じることがあるとしても、その体験を語ることで救われる人も少なくはないとも思います。
返信する
「座禅・私流」を何度も繰り返し読み「座禅」なる... (はてな)
2012-10-18 18:27:34
「座禅・私流」を何度も繰り返し読み「座禅」なるものをやらせていただきます。

座禅をやっているであろう方々の「それから」をいくら知っても「それから」にならず、直哉さんの述べられている手法に習い私自身がやってみてこそ 「それから」 になることを今日になって、やっと気づきました。

お馬鹿さ加減に溜め息が出ましたね。
返信する
破邪顕正 (Unknown)
2012-10-17 23:04:31
破邪顕正

http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2012/08/post_4fc6.html#c38236922
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2012/07/post_d562.html#c37884306
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2012/06/post_eded.html#c37637927


これらってコピペじゃない?そりゃぁ失礼しました
返信する
俺はコピペなんかしてねえ!!!!! (破邪顕正)
2012-10-17 22:05:27
俺はコピペなんかしてねえ!!!!!
返信する
>>投稿 ノスフェラトゥ | 2012/10/17 00:51 (Unknown)
2012-10-17 08:19:14
>>投稿 ノスフェラトゥ | 2012/10/17 00:51

コピペじゃないよ。何処かで聞いて、深く覚えている詩だよ。
返信する
上手く云えないのですが、ちょっと気になっている... (namusan)
2012-10-17 01:56:01
上手く云えないのですが、ちょっと気になっている言葉があります。
「私流」という言葉が、のみ込みにくいのです。
以前出版された、「正法眼蔵を読む」という中にも自分流の捉え方の様な風に語っていますが、伝道であれば自分という言葉は無い法が、もうすこしスムーズに聴けるような気がしました。
南氏は優れた方だと思っています。埃の様な発言ですが片隅に・・
返信する
投稿 | 2012/10/15 11:52 は、以下のコピペです。 (ノスフェラトゥ)
2012-10-17 00:51:24
投稿 | 2012/10/15 11:52 は、以下のコピペです。
http://naokouniun.exblog.jp/14538268/
返信する
内外の音の鳴りようはその状態によるのだと晴れや... (南京ハゼ)
2012-10-15 18:14:27
内外の音の鳴りようはその状態によるのだと晴れやかな空をみるように感じました。
落ち葉の香りが幼い頃の心地を彷彿とさせます。どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
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ここはどこにでもあるような街だ (Unknown)
2012-10-15 11:52:53
ここはどこにでもあるような街だ
君の街と似ているところがあったり、全然似ていなかったり
でもここにはきっと、君に似た人間がいるはずだ

自分の夢を掴もうとする者や、自分の居場所を探す者
自分自身を見つけようともがく者
苦しんでいるのは自分だけだと、人はみな思いがちだ
簡単に挫折し、とても生きていけないと思ってしまう

でも、それはただの幻想だ

そこで歯を食いしばって現実に向き合い今を生きれば、
誰かが何かが君を見つけ、未来は開ける

人には助けが必要だ
この世界の美しい音楽に気づかせ、いつか夜明けはくると信じさせてくれる誰かが
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ここ、南方丈さんの周りに集う人々は、皆さん苦し... (Unknown)
2012-10-15 08:52:59
ここ、南方丈さんの周りに集う人々は、皆さん苦しい人なのですよ、基本的に…多分。だから、「苦しい人」の言われることや、考え方はよく理解できます。それぞれに日々苦しみ、生き抜きましょう。たまにある「楽」を味わいながら。これが人生でしょう。方丈さんがいらっしゃるじゃないですか。
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苦しみ方を楽しむ余裕を持てると、いいですね。 (Unknown)
2012-10-15 06:01:38
苦しみ方を楽しむ余裕を持てると、いいですね。
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もう、こうであれば徹底的に苦しみましょう、苦し... (Unknown)
2012-10-14 20:15:46
もう、こうであれば徹底的に苦しみましょう、苦しみぬきましょう。楽など一瞬です、腹痛がなおったら、その時は物凄く楽だものね、そういうものでしょう。あきらめて、苦しむのです。
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誠にありがとうございます。 ()
2012-10-14 19:56:05
誠にありがとうございます。
やはり、坐禅ですよね・・・!
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申し訳ないんですけど私は「ありがたや仏教」に興... (苦しい人)
2012-10-14 18:38:57
申し訳ないんですけど私は「ありがたや仏教」に興味がありません。
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なんでもええがなあ。 (Unknown)
2012-10-14 09:05:00
なんでもええがなあ。
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>私がここにご紹介した方法を使って坐禅をする目... (はてな)
2012-10-14 07:49:21
>私がここにご紹介した方法を使って坐禅をする目的は ~ 暫定的な事態だと認識することなのです。

要は、 「それから」 で 「魂の世話をしつつ」 認識できた課題を少しずつ解決や克服していくということでしょうかね。 座禅云々を問わず、万人が如何に在り方を考え在りように表出させるかでしょうね。 

諸行無常にあって、縁起する自己という事態だからこそ魂も縁起する事態でしょう。 世話をしつつ習っても行くが、習いつつ世話もするということでしょうか。

当時、カネボウの社長であった伊藤淳二さんが言われた 「人皆欠如体」 が蘇ると共に、日本航空を舞台とした諸行無常が身に沁み、伊藤淳二さんのあの時のお疲れになった表情も蘇ります。

もっと言えば、なんともならなくなって登場したのが、稲盛和夫さんであること。 つまりそれは、一般人であっても 「仏道をならふ」 ことの大切さでしょうね。
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10・12・04・00、04・15様 (Unknown)
2012-10-12 07:44:00
10・12・04・00、04・15様
横から失礼します。よく分かるお話でした。今の私に、地に足をつけよ、と言われた気がします。
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苦しい人 様(追加) (Unknown)
2012-10-12 04:15:29
苦しい人 様(追加)

 「机上の空論」という言葉がありますが、頭でわかっていることとは、「理解」に過ぎず本質的に、「分かっている」とは言えません。実際、コトバで全てを伝えることなど出来ません。何事も自分で実際経験しなくては、「分かる」ことは出来ないでしょう。それは人生全てに言えることだと思います。
 私は自分で実際に経験したことしか、信じません。自分の現実は、いかにあやういものであろうと、自分だけのものです。あなたにも、いろんな意味で納得できる、と体感できる何かがあるはずです。コトバに踊らされることなく、座禅に限らず、様々な経験をつまれたら良いのではないでしょうか。
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苦しい人 様 (Unknown)
2012-10-12 04:00:06
苦しい人 様

 方丈様がおっしゃっているような自己解体の状態を経験すると、自分の意識=自分にとっての世界が、いかにあやうく、一面的なものであるのか気づくことが出来ると思います。
 今見ている現実は、今の自分の現実に過ぎない。現実とは、無数にいる人の数だけ、そして果てしない時間の流れの長さだけ、計り知れない空間の厚みの分だけ、存在するのです。あなたの見ている現実は、今ここだけの一瞬を切り取った、あなただけのものです。
 自己を融解させ、そのことを感覚的に理解できれば、あなたの現実へのアプローチは変わっていくでしょう。現実のとらえ方が変化し、今ここへの不快感を客観視できるのですから。その時、「仕事を変えるとか引っ越す」ことをしなくても、現実との関係性が変わり、あなたの世界が大きく変化を始めることは、言うまでもありません。
 もちろん、自分の現実を客観視するための方法も無数に存在します。座禅はその中でも、非常にすぐれたメソッドだと、私は思っています。
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「悟り」を「痩せ」、「坐ること」を「ダイエット... (あじさい)
2012-10-11 07:56:46
「悟り」を「痩せ」、「坐ること」を「ダイエット」と置き換えてみると、「食べて痩せるダイエット」とは「楽して悟る坐禅法」に類似している。客観的に考えると、食事を抑えて運動すれば太らないのだが、なかなか支持されない。

長年摂食障害の治療現場を見てきたが、理解に苦しむことが多くある。一つは、痩せればすべての問題が解決するという幻想、仕事も恋愛もハッピーになれるというイメージ。二つ目は、私は太っているという認知の歪み。現実感覚の歪み。
現実を素直に見つめればわかるのであるが、本人は気が付かない。また、文化的にマスコミ、週刊誌が誤った情報を流していることも大きな原因である。

悟りを目指す方々も、他人から見れば「欲望押さえて正しいことをすればよいのに」と思ったりする。

私も「悟り」という言葉に過剰反応する一人かもしれないが、とらわれ、はからうことを避けるひとつの方法が「只管打坐」かと思います。
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ありがとうございます。道標をいただいたようです... (senrigan)
2012-10-11 06:11:17
ありがとうございます。道標をいただいたようです。今後とも坐るために坐り続けることに徹したいと思います。ただ一つ残る疑問は坐ることに対しこだわり、とらわれ、はからうことと只管打坐との違いはどう考えればよいのでしょう。お教えいただければ幸いです。
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>>投稿 苦しい人 | 2012/10/11 01:14 さん (Unknown)
2012-10-11 05:19:27
>>投稿 苦しい人 | 2012/10/11 01:14 さん

坐禅の意味についてですが、目的も意味も無いという愚か者は無視してください。
自分が変わったと実感するまで坐禅に打ち込んでください。
変化を感じないというのであれば、坐禅が足らないのです。
もっと言えば、正式な弟子となり、僧堂に入門し、雲水にならなければ、坐禅した事にはなりません。
師家が言っておられるように、在家では、無理なのです。
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坐禅の超越体験?というのはいわゆる物象化(投企... (苦しい人)
2012-10-11 01:14:39
坐禅の超越体験?というのはいわゆる物象化(投企)の力が止んだ状態だと思いますが、坐り終えたらまた物象化が始まって日常世界に戻りますよね。そうじゃないと精神病院行きですし。

道元禅師は坐禅の意義を「万事休息」と定められているそうですが、その休息後に俗世の見方が変わるのでしょうか? 私には変わるとは思えないのですが。俗世とは相対的なものであるというのは体験的には分かるんでしょうけども、それは理屈で考えても分かります。
そうすると坐禅の持つ意味とは何なのでしょう。

投稿 | 2012/10/10 02:38がおっしゃるように苦しいからお釈迦様は出家したわけで、多分仏教に興味を持つ人も苦しい。だから坐禅する。なぜなら苦しみから脱したいから。自己の苦しい有り様が関係性によるならば、関係性を変えない限りは苦しさは変わらない。

関係性を変えるためには例えば仕事を変えるとか引っ越すとか。坐禅をいくらしたって関係性は変わらない。ということは坐禅をするというのは、一回それらの関係性をほどいてみて、それらの構造を観察してみて、苦しみの条件が変えられるのか、変えられないのかどうか見極めるということなんでしょうか?

変えられないならその苦しみは飲むしかないし、変えられるんだったらすぐに変えよう!ってこと?
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>>「波動」状態や「融解」現象は、「悟り」... (yamabato)
2012-10-10 21:59:19
>>「波動」状態や「融解」現象は、「悟り」でも「見性」でもありません。ましてや「本来の自己」ではさらさらありません。

その通りです。そこが最終地点でも行き止まりでもありません。「もっと先がありますよ」とスマ師との対談本にありましたように、専門的に行うなら「悟り」「見性」「脱落」はまだまだ先ですが、一般の人は別にそれを目指す必要はありません。その程度で「悟り」「覚醒」と思い込んで体験を語りたがるのも、あるいは逆に「悟りと言っているのはこんな程度のものか」と考えるのも同じ間違いです。
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20年程度ヨガの瞑想をしているが、肺活量の増大、... (あじさい)
2012-10-10 21:36:29
20年程度ヨガの瞑想をしているが、肺活量の増大、心臓の肥大化、心拍数の低下が著しい。肺活量は2.8Lから4.0Lになった。心拍数は38である。
リラックスして、ある程度眠い状態で我慢して覚醒していると入眠時の幻覚が現れる。これは当初激しかったが、そのうち減少した。幻覚は、はじめは鮮明なイメージ、像、幻聴があったが、そのうちぼんやりとしたエネルギーとして感じる程度になった。最近は、刺激は少なくなったが、やはり何か外部の存在を感じる。
座禅、瞑想はある意味では拷問のようなつらい体験である。独房が拷問に近いのも、自分を見つめることがエゴを脅かして何とか中断させようと邪魔をするのかもしれない。我々は多かれ少なかれ偽りの現実を生きているのであるが、その化けの皮がはがれることに激しく抵抗するのである。
禅はかなり優れたシステムであるが、理想的とは言い難いところもあるので過度な期待はしないほうがよさそう。
大事なことは、個人が道を歩み続ける持続力であろう。
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 現代は情報や刺激に満ち、人が持っている本来の... (ride)
2012-10-10 20:53:22
 現代は情報や刺激に満ち、人が持っている本来の力を削いでいるのでしょう。私も時折座禅を組み、リセットするようにしてから、少しずつ世界から色々な物事を受け取ることが出来るようになってきたようです。自分をちょっと、横において世界を受け止めることが出来るようになったのでしょうか。
 自分の意識だけで出来ることは限定されており、小さな小さなものだ、と思います。限られた今を広がりをもって生きていけるようでありたい、と思います。
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いつもブログを楽しみに見ております。 (船橋一宏)
2012-10-10 19:14:05
いつもブログを楽しみに見ております。
今回、長い間、さらに細かく伺えればと思っておりました「意識の方向を変え、まず最初に聴覚に向けます。」について、自分でできるかどうかは別として拝読できてことのほかうれしく感じております。
ところで、今回のご説明の中にありました「肩をやや内に入れ」というのが、私には少し難解です。想像してみるに、①「両耳が両肩の真上にくるようにし」つつ、少しだけ肩をヘソ側に向ける、または②肩を完全な水平に保つのではなく、両端をなるべく下げるようにする、などが思い浮かぶのですが、いかががなものでしょうか。
お忙しいところつまらぬ質問で恐縮です。出来れば、お時間のある時にでもお教えいただければ、幸いです。
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>>投稿 SYUKO | 2012/10/10 17:53 さん (Unknown)
2012-10-10 17:55:50
>>投稿 SYUKO | 2012/10/10 17:53 さん

京都や東京の禅センターがお薦めです。
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座禅気候もこれから良くなることだし、友人と座禅... (SYUKO)
2012-10-10 17:53:31
座禅気候もこれから良くなることだし、友人と座禅会に参加しようと計画をたてています。藤田一照氏が『座禅をしても当たり前が当たり前になるだけ』と、なんかこちらのほうが私には、納得いくような気がします。
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もっと、もっと言えば、臨済宗では一日に何度も面... (Unknown)
2012-10-10 02:58:04
もっと、もっと言えば、臨済宗では一日に何度も面接し、指導者は、体験を一切否定せず「それは、浅い、もっと深く、狂うほど深く体験してみろ。」と開放します。
発心寺僧堂の様な臨済禅を取り入れている特殊な道場は別として、主な曹洞宗の僧堂は、食う、寝る、坐る等の作法を猛烈に大事にして、体験という事をあえて無視しているのではと思いました。
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もっと言えば、臨済宗の坐禅は徹底的に体験主義で... (Unknown)
2012-10-10 02:44:26
もっと言えば、臨済宗の坐禅は徹底的に体験主義であり、曹洞宗の坐禅は、いわゆる信仰なのだと思います。
ようするに、坐禅で体験する感覚を否定するという信仰なのです。
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南直哉老師の体験をおうかがいし、とても (Unknown)
2012-10-10 02:38:15
南直哉老師の体験をおうかがいし、とても
安心しました。
いわゆる坐禅による幻覚、幻聴を一切否定する曹洞宗の僧が多いものですから。(つまり、幻覚幻聴に苦しむほどの坐禅をしていない未熟者ということ。)
私なんかは、南直哉老師の足元にも及びませんが、
「片手で叩く音を聞いて来い!!」と僧堂の師家に指導され、徹底的に自分の今までの生き方を見つめる様にしながら坐禅に浸ったら(坐禅をするのではなく坐禅という毛布に包まれる様な気持ちで)、
「ぱん!!」という激しい音が聞こえ、とても爽快になりました。
だから、坐禅による魔境や、いわゆる覚りというのは、あるのだと思います。
たんなる、幻覚や幻聴も、それは生理として、実際に存在しているということでしょう。
ただ、それを過程や目標とするのは間違いで、科学的に、そういう事があるというのだと思います。
つまり、息を止めれば苦しいし、限界まで息を止めた後に息をすれば気持ちいいという生理。
いわゆるオカルトも科学の一部で、すべてに原因があり、結果が有るという事でしょうか。
じゃあ、世襲妻帯坊主の子が資格を取る為に僧堂に来て坐禅するという愚かな事も有るでしょうが、在家や在家出身者の僧が何の為に坐禅するのかという事になりますが、やはり苦しみから解放されたい、本格的に僧侶になりたい、出家したい、自分の生きる方はこの道ではない、また人としてどう生きるぬくべきなのかを考えたい、もう一度新しい人生、本当の自分を生きていきたい、過去の人生を反省し、人生をやり直したい等という目的でしょう。
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