恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

決めない力

2024年09月01日 | 日記
 ちょっと仏教を勉強した人なら誰でも知っているであろう、とても有名な話に「毒矢の喩え」があります。

 ブッダの弟子で、ある疑問を持つ者がいて、師であるブッダが一向にこの疑問について答えてくれないので、修行を捨て還俗しようと考えました。

 その疑問とは「世界に終わりがあるのか、無いのか」「世界は有限なのか、無限なのか」「霊魂と身体とは同じであるか、別なのか」「如来は、死後も存在するのか、存在しないのか」、この4つでした。

 弟子がこれを最後と問うた4つの質問に、ブッダは「毒矢の喩え」を説きます。

「毒矢に射られた人が、毒矢を射ったのはどんな人か、どのような弓で射ったのか、その矢はどんな形だったのか、それがわかるまでは毒矢を抜いてはいけない、などとと言っていたらどうなるか? その人は死んでしまうだろう」

 つまり、この喩えは、弟子の言うような四つの質問に拘る者は、毒矢に射られた人と同じだと言うわけです。現に苦しみの中にある人にとって、4つの質問に出るような議論は無意味であり、まずは苦しみを脱する修行をすべきなのです。そして仏陀はこの四つの質問に答えず、自分が答えないなら、答えないことを教えとして受け取るように、弟子に説きます。この答えない態度を「無記」と言います。

 昨今、世間では「分断」ということがよく言われます。政治的あるいは社会的に意見や立場の異なる人々が、互いに自らの正当性を主張して譲らず、現に存在する深刻な問題の解決に中々結びつかない状況は、世界のいたるところで見て取れます。

 もし、互いに正当性を主張すれば、その根拠をめぐって際限ない応酬になるでしょう。まさに4つの質問をめぐる議論のようなものです。

 ならば、このような場合、世間にも「無記」という方法を使う余地があるでしょう。すなわち、正誤、善悪など、事の白黒を「決めない」のです。

 その昔、対立する政党の政権を「決められない政治」と揶揄した政治家がいましたが、「決められない」のではなく、「決めない」ことに大きな意味があると、私は思います。

 けだし、世間で闇雲に白黒をつけたがるのは、思春期レベルの幼稚な人間です。真っ当な大人なら、白黒をつけるのに血道を上げるより、目の前の問題を処理する方法を考えるべきでしょう。ならば、どうするか。

「折り合う」他、ありません。主張の違いが如何ともしがたい状況なら、互いの正当性を適当に曲げて、折り合うのです。それができないなら、次は自らの正当性を暴力で押し通すことになります。もしそうすれば、いかなる正当性も失われます。

 もし暴力に「正当性」が生じるとすれば、それは暴力そのものの中からではなく、結果的に「勝った」からです。これはもはや「正当性」ではなく、「戦利品」でしょう。

 白黒が簡単につくような物事は、所詮は些事です。国の大事を何とかしようというような場合には、時として、この決めずに折り合う技術を使うのが、大人の智慧というものでしょう。そして、民主的な社会には大人の智慧が要るのです。手間と時間をかけて苦い対話を続ける覚悟が、必要なのです。

 ということは、手間を省いて白黒をつけるのに急で、ただ効率だけを追求し続ける社会は、確実に幼く、脆く、愚かになっていくでしょう。