私たちの叫びは政治には届かないのだろうか。しかし、ここで沈黙をするわけにはいかない。私たちは日本人であり、日本という国家を再建しなくてはならないのである。このまま日本がTPP交渉のテーブルに着き、新自由主義に呑みこまれてしまうのであれば、戦後レジームの解体など夢物語である。団塊の世代のすぐ後の私たちであっても、すでに「大東亜戦争」と呼ぶことは許されず、「太平洋戦争」という言葉を使わされた。アメリカとだけ戦ったわけではないのに、戦後の日本人は、抵抗もせずにそれに従ってきた。そこに追い打ちをかけたのが占領軍によって行われた検閲であった。日本のジャーナリズムや学界は、アメリカの意向にそって一新された。その戦後的言語空間を暴いて見せたのが江藤淳であった。江藤の「『言葉』を変質させられたとき、人はかけがえのない経験を奪われ、力を抜き取られて、打ちのめされる。そして、自分が発したことのない与えられた『言葉』の網の目に囲まれて、そのなかで生存を維持することを強制される。つまり、そのとき人はなにがしか家畜化される」(『自由と禁忌』)との悲痛な叫びは、過去のものとして清算されるのではなく、新自由主義に屈服することで、改めて「家畜化される」のではないだろうか。私たち日本人が自らのアイデンティティーを取りも出せるかどうか、今私たちは大変な岐路に立っているのである。ここでまたアメリカに屈服するようでは、日本の未来もたかが知れている。
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