蓮舫のような政治家を批判しないのは、日本人が日本人であることに自信を失っているからではないか。昭和36年8月15日に創刊された『尊皇維新』において、葦津珍彦は日本人の不甲斐なさを嘆き、あるべき日本の姿を示した。敗戦によるショックから一日も早く立ち上がることを訴えたのである。日本の自己喪失から外国化へと舵を切ろうとしていたのを、痛烈に批判したのだ▼「表面的には一国家一民族のれっきとした一国家であるが、その内部を見ると大別してアメリカ人とソ連中共人とに分かれておる。政治的にはアメリカ人が国民の三分の二を占め、余の三分の一が中ソ人であるから、議会では自由民主党の名で代表されるアメリカ党が、決定力を持っておる筈であるけれども、議会外のデモ運動で政府が打倒された実例に照らして、日本には主権が二つあると考えられる現状である」▼それが未だに日本では続いている。国家は軽視され、愛国は軽蔑の対象となっている。武力によって竹島が奪われた時と同じように、今もなお韓国にまで馬鹿にされている。葦津は自然的な日本人から、日本人として完成を目指すことを望んでいた。自己喪失から外国化の道を邁進してきた私たち日本人は、ここで立ち止まって考えるべきだろう。国家は領土と主権と人民からなり、そこでの人民とは日本人でなければならず、日本派の政党が求められているのである。
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