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草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

今こそアメリカ派や中共派ではなく日本派の政党を!

2016年10月25日 | 政局

蓮舫のような政治家を批判しないのは、日本人が日本人であることに自信を失っているからではないか。昭和36年8月15日に創刊された『尊皇維新』において、葦津珍彦は日本人の不甲斐なさを嘆き、あるべき日本の姿を示した。敗戦によるショックから一日も早く立ち上がることを訴えたのである。日本の自己喪失から外国化へと舵を切ろうとしていたのを、痛烈に批判したのだ▼「表面的には一国家一民族のれっきとした一国家であるが、その内部を見ると大別してアメリカ人とソ連中共人とに分かれておる。政治的にはアメリカ人が国民の三分の二を占め、余の三分の一が中ソ人であるから、議会では自由民主党の名で代表されるアメリカ党が、決定力を持っておる筈であるけれども、議会外のデモ運動で政府が打倒された実例に照らして、日本には主権が二つあると考えられる現状である」▼それが未だに日本では続いている。国家は軽視され、愛国は軽蔑の対象となっている。武力によって竹島が奪われた時と同じように、今もなお韓国にまで馬鹿にされている。葦津は自然的な日本人から、日本人として完成を目指すことを望んでいた。自己喪失から外国化の道を邁進してきた私たち日本人は、ここで立ち止まって考えるべきだろう。国家は領土と主権と人民からなり、そこでの人民とは日本人でなければならず、日本派の政党が求められているのである。

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徳性なき政治家がトップに立てば民主主義は危機に瀕する!

2016年10月25日 | 思想家

民衆による支配である民主主義は、時として暴走する危険性がある。アメリカ大統領選での混乱やフイリッピンのドゥテルテ大統領の登場は、民主主義ゆえの試練なのである。具体的な政策をまったく示さずに、かつて民主党が政権を手にしたのも、まさしくその悪しき例なのである。一時的な感情に引きずられずに、物事を判断する冷静さを国民が失えば、その先に待っているのは国家の破滅である▼モンテスキューは『法の精神』(井上堯裕訳)において、民衆国家においてもっとも重要なのは「徳性である」と述べている。イギリスの歴史から学んだのだった。「イギリス人が彼らの間に民主制を樹立しようとして払った無駄な努力の数々は、前世紀におけるかなりよい見物であった。政務にかかわった人々が徳性をもたず、彼らの野心は、もっとも大胆な者(クロムウェル)の成功にいらだち、党派心は他の党派心によってのみ抑圧されたから、政府はたえず変わった。驚いた人民は民主制をさがし求めたが、どこにも見つからなかった。結局、さまざまの動き、衝撃や動揺ののちに、ほかならぬ廃止した政体に頼らねばならなかった」▼ギリシアが民衆政体を維持できたのは「ギリシアの政治家は、自分を支える力としては、徳性の力以外には認めなかった」からだ。モンテスキューが法による支配をことさら強調するのは、徳性なき政治家の出現を危惧していたからであり、民主主義を守り育てるには、政治家の資質が問われなければならないのである。

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