草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

神社や寺院を冒涜する者を日本人と認めることはできない!

2015年06月03日 | 世相

韓国系日本人との表現を用いれば、民族差別といわれかねないが、日本や日本人への憎悪からのものであれば、それを問題にせざるを得ないだろう。日本の神社やお寺に油がまかれた容疑で逮捕状が出た男は、もともとは韓国人で日本に帰化したことが明らかになった。マスコミはそのことに一切触れず、日本人の犯行であることを繰り返し伝えてきた。日本の文化そのものである建造物を損なうような犯罪は、断じて許されるべきでない。日本人を名乗る資格はないのである。肌の色や人種が違っていても、日本人としての目標や価値観が共通していれば日本人なのである。本居宣長の『玉くしげ』の一節には「神は人にて、幽事(かみごと)は人のはたらくが如く、世(の)中の人は人形にて、顕事(あらわにごと)は、其人形の首手足になど有て、はたらくが如し」と書いてある。そこで述べているのは、日本人の根本の精神である。宣長は人間の傲慢さを批判した。限られた能力と命しかない人間は、最初から限界づけられた存在でしかない。そこで神の器になることに専念するのが日本人なのである。キリスト教のような善悪を司る神ではない。人間には想像できない力を与えてくれるのが、宣長にとっての神なのである。日本人が神として崇めるのは、自然や社会現象の全てに対してである。神社にとどまらず、寺院にまでその影響下にある。いくら日本国籍を取得したとしても、神社仏閣を冒涜をするような人間を、私たちは日本人と認めるわけにはいかないのである。

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